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衝動に身を任せなまえさんの身体を抱き寄せる。泣きそうに笑うのを見て、頼りなく震える肩を見て、居ても立っても居られなくなった。しっかり捕まえていないと夜の闇にそのまま消えて溶けてしまいそうな程儚く見えて、細い腕を掴むだけじゃ不安で。気付いた時には腕の中に閉じ込めるみたいに、好いた女性の身体を掻き抱いている俺が居た。


弟に嫌いだと言われた。たったそれだけ。
自分でそう言いながら、なまえさんは世界中の全てのものから嫌われているかの様な顔をする。——でも俺の考えはきっと正しい。なまえさんにとって、弟に嫌われる事は世界に嫌われる事と同義なのだろう。


正直俺には良く分からない。言ってしまえば今までだってそう。彼女の相談に乗りながらどうして弟の事をそこまで気に掛けるのかと不思議でしょうがなかった。だって普通にすら話せない関係なんだろ?蔑ろにされて、言葉や態度で傷付けられて、誰がどう聞いたって非は弟の方にあるのになまえさんは自分の事を責める。何度「もう諦めた方が良いんじゃない?」と言い掛けたか分からない。でも、心から弟との関係修復を願ってるなまえさんにそんな事言えるわけが無かった。——それに、弟に関する相談に乗る事がきっかけでなまえさんとの距離が縮まったのも確かだし。


「俺の好意なんて慰めにもならないと思うし、見当違いな事言ってるのも分かってる。でも、俺はなまえさんの事が好きで——」
「……っ」
「……あーっと、そう思ってるのは俺だけじゃ無いしさ?要さんもだし、なまえさんの事を好いている人間は他にも沢山居る筈だ。だから弟さんに言われた事が全てだと思っちゃ駄目だよ……ね?」


なまえさんの身体が強張ったのが直に伝わってきた。勢い任せの告白をあやふやにして、なまえさんに逃げられない様にと柔らかな声色を意識して背を撫でる。ああもう、肝心な所で勇気が出ない。だから要さんにもヘタレって言われるんだな、俺。


「……ありがとう、範太くん」
「俺はなまえさんが弟さんに言われた事を全部真に受けてるんじゃないかって、それだけが心配」


彼女には自分を卑下する癖がある。他人の言葉や感情に酷く敏感で、それが弟のものなら尚更だ。言葉に乗せて吐かれた呪いは荊となって彼女を雁字搦めにして傷付け続けているのだろう。——苦しんでいる彼女の為に、俺に出来る事ってなんだ?何も出来ない事がもどかしい。


なまえさんが俺を救ってくれたみたいに、俺も貴女の力になりたいんだ。貴女が否定されたなら俺は肯定したいし、嫌いだと言って傷付けられたなら、好きだと言って包み込んであげたい。


「辛い時は頼って欲しい。いつもみたいに、話聞くくらいは出来るからさ」
「……うん」
「っと、急に抱き締めたりしてごめん」
「……っううん……その、私もごめんね」
「はは、何でなまえさんが謝るの」


僅かな名残惜しさを残しながらゆっくりと彼女の体を解放して、笑い掛ける。その瞳には戸惑いの色が浮かんでいたけれど、拒絶は感じられない事に安心した。衝動的だったとはいえ、抱き締めてしまったのはやり過ぎだったと内心反省する。


「行こっか」


俺は何事もなかったかのような顔でなまえさんの隣を歩く。暫くは居心地悪そうにしていたなまえさんだったけど、他愛無い話を投げ掛ける内に暗い影を落としていた横顔が少しだけ明るくなった気がした。家に近付く頃にはその顔に笑みも浮かべるようになっていて安堵する。


「——へえ、ここがなまえさんの新居かぁ」建物を見上げ、小さく呟いた。女性の一人暮らしと聞いた時は心配したけれど、これなら安全そうだ。駅からも左程離れていないし、街灯も多く疎らだが人通りもある。聞く限りセキュリティも万全のようだ。


「範太くん。今日は本当にありがとう」


家の前に着くなり深々と頭を下げられたのでゆるりと首を振る。


「それはこっちの台詞だよ」
「……じゃあ」
「あっ、ちょっと待ってなまえさん!渡したいものがあったのすっかり忘れてた……っと」


鞄の中から目的の物を引っ張り出して、不思議そうな顔をしているなまえさんに差し出す。「これ、チケット?」「そ。近々開催される予定のビアフェスのチケット。なまえさんが休み取れるなら一緒に行きたいなって思ってさ」チケットに記載されている日程を指で示しながら、彼女の顔を覗き込む。「ビール、好きでしょ?」


「……私が貰って良いの?」
「勿論!」


チケットが俺の手からなまえさんの手に渡った事に内心胸を撫で下ろす。断られたらその時はその時だって思ってたけど、受け取ってもらえて良かった。


「また連絡するよ。期間もそこそこ長いし、なまえさんが都合良い日教えて?」
「うん。何から何までありがとう」


眉を下げて申し訳なさそうに笑うなまえさんを見て、一人になったら泣いたりするんだろうかとふと考えて——やめた。「気を付けて帰ってね」「ん。おやすみ、なまえさん」家に入っていく彼女の後ろ姿に手を振って、駅への道を歩き始める。角を曲がったタイミングで耳に装着したワイヤレスイヤホンからは『すげー良いから今すぐダウンロードして!』と上鳴に強引にダウンロードされ、それからまんまとハマってしまったバンドの曲が流れ出した。疾走感がありながら胸を締め付けるメロディーライン、柔らかな声の女性ボーカルと、それを引き立てる男性コーラスが魅力の男女混合スリーピースバンドだ。流れている曲の歌詞が今の心情とあまりにもマッチしていて、何とも言い難い気分になる。


——今日、ビアフェスのチケットを用意していたのは偶々じゃ無い。なまえさんに会ったら渡そうと常に鞄に忍ばせていたのだ。この時期になると開催されるビアフェスの存在を知っていた俺は、売り切れる前に速攻でチケットを取った。これを買った時の俺は仕事で疲れているであろうなまえさんの息抜きになったら良いなという気持ちが半分、引っ越しの手伝いという親密になる機会を奪われてしまったリベンジがしたいという気持ちが半分だった。


「(なまえさんの弟か……)」


顔も知らないなまえさんの弟の事を考えるだけで沸々と苛立ちが込み上げてくる。俺となまえさんが親密になる機会を邪魔した挙句、あんなに憔悴する程彼女を傷付けたんだ。許せる訳が無い。——でも。

 
「(この見落としてる感は一体なんだろう)」


彼女を傷付ける為に態々引っ越しの手伝いを名乗り出る必要があったのか?実家で会う機会があったのなら、嫌悪の気持ちを伝えるのなんて容易かった筈だ。何故?どうして?じわじわと湧き上がってくる疑問。それに、嫌いと言われただけであそこまで憔悴するなまえさんにも違和感を覚える。本当にそれだけなんだろうか。もっと何か大変な事があったんじゃ——。


「……あー、考えてもわっかんねぇ!」


ガシガシと乱雑に髪を乱す。やめだ、やめ!当人じゃ無いんだからいくら考えたって無駄なんだ。気持ちを切り替える為に流している曲をアップテンポのものへ変えて、再び駅への道を歩き出す。


そんな事よりも次会った時の事を考えよう。少しでもなまえさんに楽しい一日を過ごしてもらう為のプランを考えないと。ビアフェスに連れて行って、それから——。



***



ソファの上で目覚めると、かっちゃんは既に起きていてシャワーも浴び終えた様子だった。昨晩よりも少しすっきりした顔で「昨日は悪かったな」と謝ってくる辺り、かっちゃんにも僕に対する罪悪感というヤツはあるらしい。

お詫びのつもりかは分からないけれど用意してくれた朝食を黙々と食べていると、目の前のかっちゃんが不意に口を開く。

「——そういやデク、お前江南区って今何処の事務所が担当してるか知ってるか」
「調べたらすぐ分かると思うけど、どうして?」
「アイツの引っ越し先が江南区なンだよ」
「アイツって、なまえちゃんの事だよね?」
「あァ。少し気になる事件があってな」


江南区と事件というワードを結び付けて、僕はああ、と声を出した。


「それってもしかして江南区周辺で20代くらいの女性が立て続けに襲われた事件のこと?」
「あァ、そうだ。何か情報持ってんのか」
「あの辺一帯の警備を強化するって話が出た時に僕も江南区を見回ったんだ。でも犯人らしき人物の手掛かりは一切無し。襲われた女性も犯人の顔は見てないって言うし、結局二度目の犯行の後同一犯による事件は起きてない。もう江南区を離れているんじゃないかとも言われているけど」
「……そうか」
「なまえちゃんの引っ越し先って江南区なのか。あそこってヒーロー事務所が多いし基本的に治安が良いもんな。女の人が一人で住むには安全かもしれないね」
「何であの女はその平和な街で事件が起きてる時にわざわざ引っ越してきちまうンだ?タイミング最悪過ぎんだろ」


「なまえちゃんだって好きでこの時期に引っ越してきた訳じゃないだろ?」苦笑しながら言えば、かっちゃんは苛立ちを隠そうともせず口を開く。


「分かってるけど腹立つんだよ」
「うんうん、心配なんだよね。分かるよ」
「……うるせェ」


——ほらね、やっぱり無理だよかっちゃん。君はどうしたってなまえちゃんの事を気に掛けてしまうんだ。多分何処にいても、二度と会わないと決めたとしても君の頭の中はなまえちゃんの事で埋め尽くされてしまうんだろう。


「あ、そうだ。江南区と言えば上鳴くんが所属している事務所がある筈だよ。担当しているかは分からないけど、一度連絡してみようか」
「いや、大丈夫だ。俺が自分でする」


朝食を食べ終えたかっちゃんが立ち上がったのを見て僕も立ち上がる。江南区の事件か。今担当している地区からは大分離れてしまうけれど、余裕があればそっちの方まで見回る事にしよう。——恐らく、今現在僕よりも多忙な目の前の幼馴染はどんなに忙しくてもそうするんだろうけど。


「無理だけはするなよ、かっちゃん」


背中に投げ掛けた言葉に、返事は無かった。