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なまえさん、と名前を呼ばれてハッとした。やってしまった。気付かない内にぼんやりとしていたらしい。慌てて隣を見れば予想通りその顔に心配の色をありありと浮かべた範太くんが私を見つめている。


「あ…っと、何の話してたっけ」
「んーん。急に黙り込んじゃったから心配になって名前呼んだだけ」
「ぼうっとしちゃってたよね、本当にごめん」
「なまえさん大丈夫?疲れてるのに呼んじゃったなら申し訳ない事したなぁ」
「ううん。全然大丈夫なんだけど、」
「なら良いんだけどさ!俺がしつこく誘うから疲れてるのに無理して来てくれたんじゃないかと思って」
「……いつ行こうかなって思ってた所にタイミング良く範太くんが連絡くれて、嬉しかったよ?」
「へへ、俺も久し振りになまえさんの顔が見れて嬉しー」


へらりと目尻を下げて笑う範太くんが可愛くて和んでいると、片付けをしていた要くん(私の大学時代からの友人で、この店の店長だ)が「なまえが来るまでマジで煩かったからな、そいつ」と呆れ混じりの声で言った。


「なまえさんが足りない足りないってあまりにもうるせーから、じゃあ今すぐここに呼べばいいだろって言ったんだよ。そしたらコイツ何て言ったと思う?誘って断られたら立ち直」
「ッちょっと要さんんん!?何しれっと全部バラそうとしてるんですか、やめて下さいよ!」
「良いだろうが、これくらい」
「良くないです!」


二人が楽しげに言い合うのを聞いているだけでふっと肩の力が抜ける。ふわりと浮上する心に、自分が思っている以上にこの数週間は気を張っていたのかもしれないと気付く。……範太くんから連絡が来た時はどうしようか悩んだけど、来て良かったな。


まだ言い合っている二人を見て思わずくす、と笑みを浮かべるとタイミング良くこちらを見た範太くんと視線が合ってしまった。慌てて表情筋を引き締めると「なまえさん、やっと笑った!」と範太くんが嬉しそうにはにかむ。


「此処に来てからもずっと難しい顔というか、思い詰めてそうな顔してたから。笑ってくれて良かったよ」
「そ、そんな顔してたかなあ」
「ん。新しい職場大変なの?」
「ううん、そんな事ないよ。良い人達ばっかりだし」
「そっか」


「でも無理は禁物だよ、なまえさん」その言葉と同時に伸ばされた手が、私の髪をそっと乱す。ゆっくり顔を上げれば、範太くんも要くんも随分と優しい顔で私を見つめていた。


(『泣き止んだか?』)


骨張った掌と鼻腔を擽るあまいニトロの香り。穏やかな声で紡がれる言葉を不意に思い出して、心臓がどきりとする。


――私が''こう''なっているのは二人が想像している様な理由じゃない。


全てが終わった筈なのに、未だに私の中で勝己への感情が燻っている。私を見下ろす苦しそうな表情も、真っ直ぐにぶつけられる嫌悪の感情も、押さえ付けてくる力の強さも――カサついた唇の感触も、何もかもが鮮明に焼き付いて離れない。あんなに丁寧に殺されたにも関わらず、私の心臓は今この瞬間もしっかりと脈打っている。それを知ったらあの子はどんな顔をするだろう。本気で、気持ち悪がられるかな。


——また、ぼうっとする所だった。


「つーかお前ら、終電の時間そろそろじゃねぇの?帰らなくて大丈夫か」
「えっ、もうこんな時間!?時間経つの早!」
「なまえの家、此処から結構遠いんだろ。最近物騒な事件も多いし、ちゃんと範太に送ってもらえよ」
「あ、でも大丈夫だよ」
「駄目ですよなまえさん!」


ずいっと顔を寄せてきた範太くんに思わず仰け反る。


「要さんの言う通りこの地区で最近事件が増えててさ。脅かす訳じゃないけど、なまえさんくらいの歳の女性が狙われる事件が多発してるんだ」
「そ、そうなの?」
「ん。パトロールを強化してるとは言え、こんな遅い時間になまえさんを一人で帰らせる訳にはいかないよ。呼んだ時から送るつもりだったし、俺に送らせて?」
「じゃあ、お願いしようかな」
「!良かった!」
「送り狼になるなよ、範太」
「っ〜〜〜折角俺が格好良い事言ってるんだから余計な事言わないで下さいよ要さん!」
「はっはっは」


そんな事件が起きてるなんて全然知らなかった。勝己との事があってから極力ニュースを見ないようにしていたというのもあるけど、自分が住んでいる地域で起きている出来事は自衛の為にも把握しておくべきだと反省する。範太くんにも迷惑掛ける事になってしまって申し訳無い。


『コイツが送りたいっつってんだからなまえは大人しく甘えときゃ良いんだよ』ひらひらと手を振る要くんに見送られて、範太くんと二人並んで駅への道を歩く。首元に巻いたマフラーに顔を埋めて息を吐くと、隣を歩く範太くんが「夜は冷えるね」と眉を下げて笑った。


「こんな寒い中送らせちゃってごめんね」
「いいのいいの!要さんが言ってた通り俺が送りたくて送ってるんだから!」


ありがとう、と目線を上げてお礼を言えば範太くんが照れ臭そうに視線を逸らしてはにかむ。


「今日は久々になまえさんと一緒に飲めて楽しかったなー。なまえさんと俺のタイミングが合わないだけかと思ってたんだけど、なまえさん引っ越してから一度も店に来てなかったんでしょ?」
「うん、そうなの。中々行く時間が取れなくて」
「前は結構な頻度で来てたしさぁ、どうしてもなまえさんと飲みたくって今日は思わず連絡しちゃったんだけど……本当に迷惑じゃなかった?」
「さっきも言ったけど、範太くんから連絡が来た時凄く嬉しかったよ。要くんのご飯も恋しく思ってたし」
「要さんと言えば、今日食べた試作品のデザート超美味かったよね!アレは絶対売れる!」
「ね、私もそう思う。ビールに合うスイーツって斬新だよねぇ」


要くんは天才だ。発想力と独創性が活かされた料理はどれも本当に美味しくて、試食という名目でいち早く要くんの料理を食べる事が出来る私は本当に恵まれていると思う。これから店に出す予定だと言って試食させてくれたチーズケーキも凄く美味しかったなあ。


「あは、なまえさんがチーズケーキの事思い出してかわいー顔してる。甘いもの好きだもんね」
「可愛いじゃなくて緩んだだらしない顔の間違いじゃない?」
「その緩んだ顔が可愛いんだって。自分の魅力を分かってないなぁ、なまえさん」
「ふふ、そう言う事さらっと言えちゃうんだから範太くんって凄いよね」


お世辞でも可愛いと言われた事に対する少しの照れ臭さを隠すようにそう返せば、範太くんは不満気に唇を尖らせる。


「俺が可愛いなんて言うの、なまえさんにだけだよ」
「え……」
「それに、さらっと言ってる訳じゃ無いし」


思わぬ返しに間の抜けた声を上げて、隣の範太くんを見上げた。唇をきゅ、と引き締めて私を見下ろすその眼差しはどきりとするくらい真剣で。


立ち止まった私達の髪を、風がさらっていく。


一歩、距離が近付く。妙な緊張感に私は硬直したまま、範太くんの顔を見上げていた。——あれ、と思った。その瞳に浮かんでいる色に既視感を覚える。つい最近、こんな瞳で見下ろされた、ような——。


伸ばされる手。熱を孕んだ瞳。
ああ、そうだ。


「勝己と、同じ」


答えが出ると同時に唇からこぼれ落ちた弟の名前に、範太くんが動きを止める。焦って自らの唇に手を押し当てるも、一度出てしまった言葉は取り消す事は出来ない。


「勝己って——?」
「あ、ご、ごめん、何でもないの」
「っ待って、なまえさん」


ぐ、と腕を引かれて足を止めた。心なしか切羽詰まったような表情になった範太くんの瞳がゆらゆらと不安気に揺れている。


「勝己って誰の事?何で今その名前を呼んだの?」


どう説明すれば良いのか分からない。視線を彷徨わせると、腕を掴む手にほんの少し力が込められた。
——言うまで離さない。
口には出さずとも、そう言われている気がした。


掴まれた腕の熱さがついこの間の出来事を思い出させる。心臓が、痛い。一刻も早くこの状況から逃げ出したくてか細い声で弟の名前だと白状すると、範太くんが心底驚いたと言わんばかりに瞳を瞬かせる。


「弟?」
「そ、そうなの。ついこの間会ったばかりだから」


自分でも良く分からない言い訳だ。それでも範太くんが安堵した様に表情を緩めたのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。ピリッとした雰囲気は心臓に悪い。——そもそも、何であんな雰囲気になったんだっけ。


「弟さん、か。そう言えば引っ越しの手伝いしてくれたって言ってたよね。仲直りしたの?」
「——」


口角を持ち上げて唇で笑みを形作ろうとして失敗した。仲直りどころか、私達の関係は拗れて縺れてもう二度と元には戻らなくなってしまった。傷付けられて膿んだままの傷口は治る事なく今もじくじくと痛み続けている。


「……仲直り、出来なかった?」


「もしかして元気が無いのって、弟さんが原因だったりする?」言い当てられてしまえば返す言葉も無い。そして、こういう状況での無言は肯定と同じ意味を持ってしまう。


「大丈夫、無理に聞いたりしないから」
「……ごめん、範太くん」
「でも、なまえさん凄く辛そうに見えるから心配だ。今日最初に会った時からずっと思ってたんだけど……痩せたよね?」


冷えた手の甲が頬を撫でる。


「仕事が大変なんだと思ってたけど違ったんだな。やっぱりあの日、俺が手伝いに行けば良かった」


確かにあのまま範太くんに手伝いを頼んでいれば、ここまで拗れる事は無かっただろう。でもそう遠くはない未来、恐らく似た様な結末を迎えた筈だ。私が愚かな希望を抱き続けている事にあの子は気付いていて、それをさっさと打ち砕きたくて。——だから、きっと変わらない。遅かれ早かれこうなっていた筈。


心臓の痛みを誤魔化す為にへらりと笑う。範太くんは、痛ましいものを見るみたいに眉根を寄せて私を見下ろしていた。……範太くんには弟と仲が拗れている事をずっと相談していたもんね。呑みながら話す度に真摯に向き合って相談に乗ってくれて——ああ、今も凄く心配してくれているんだろうな。甘えていないで、ちゃんと話さなきゃ。


「沢山相談乗ってくれたのにごめんね。やっぱり駄目だったんだ」
「……駄目、って?」
「私が思ってた以上に弟は私の事が嫌い…だったみたい。あの日引っ越しの手伝いを買って出たのも、私が家を出る前にはっきりと嫌ってる事を理解らせる為で、」
「ッ何だよ、それ」 
「……大嫌いって面と向かって言われたのは初めてだったから、ちょっと傷付いちゃって……たったそれだけ、なんだけど」
「なまえさんにとってはたったそれだけじゃないだろ?ずっと弟と仲良くなりたいって、せめて普通に話せる様になりたいって……言ってたじゃん」
「……うん」
「大切な人に嫌いって言われたら辛くて当然だ」


お前の事が嫌いだと吐き捨てて、部屋を出て行った勝己の姿が頭から離れない。私に何かを望んだ事なんて無いあの子が私に望んだ唯一の願い——『お前も、俺を嫌いになってくれ』。叶えてあげれば良かった。例え嘘でも、嫌いだと一言言ってあげれば良かった。


あの日の後悔ばかりがこの身を蝕んでいる。


不意に、冷え切った身体を温もりが包んだ。強くなったムスクの香りと眼前に広がる光景で、範太くんに抱き締められているのだと理解する。


「……俺ね、なまえさんの事が好きだよ」


——鼓膜を揺さぶる言葉に、呼吸を忘れた。