※ちょっと気持ち悪い表現アリ※いろいろ注意※
帰ってきて部屋の電気を付けた香澄ちゃんが覚えたのは、ほんの少しの違和感。何が理由かは分からなくて気のせいだと思ったけれど、時間が経てば経つほどその違和感は濃くなっていく。
何となく嫌な予感がして着信履歴の一番上にあった萩原の名前をタップした。「香澄ちゃん?どうしたの?」と数コールの後に応答してくれた萩原に何て言うべきか迷って「あ、の…えと、急に、ごめんなさい」と言葉を詰まらせる。
「ぜ〜んぜん。むしろ香澄ちゃんから電話もらえて嬉しいよ」と萩原の心地良い声が耳に響いて、ザワついていた心が少しずつ落ち着きを取り戻していくようでホッと息を吐いて自室に向かいベッドに腰掛ける。
「今ね、陣平ちゃんと班長と飲んでてさ。香澄ちゃんもご飯まだだったら来る?迎えに行くよ」と笑った萩原に返事をしようとした瞬間だった。扉の向こう、リビングからガタリと音が聞こえて肩を揺らす。
慌てて立ち上がりカチリと部屋の鍵を閉めていれば突然応答が無くなった香澄ちゃんを心配したのか「香澄ちゃん?大丈夫?なんかあった?」と萩原が尋ねてくる。
平気です、と返事をしようとしたけれど扉の向こうから聞こえてくる足音にひっ、と息を飲んだ。「は、はぎ、わらさ…っ、」と泣きながら萩原の名前を呼べば「香澄ちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて」と優しい声が返ってくる。
「大丈夫だからね。今どこにいるのか、俺に教えて?」って萩原の声と一緒にガサガサと衣擦れの音がする。「い、いえに、いて…っ、じぶんの、へやで…、」って震える声で言えば「うん。分かった。香澄ちゃんの部屋、鍵あるよね?それ閉めれる?」と萩原のゆったりとした声が耳に響く。
「さっき…、しめ、ました…」と先程よりも少し落ち着いた声で香澄ちゃんが答えれば「お、さすが。偉いね、香澄ちゃん」と萩原が笑う。「怖いかもしれないけど、もうちょっとだけ頑張ってね。今そっちに行くから。大丈夫だよ」といつもと変わらない優しい声声にホッと息を吐いたのも束の間。
とんとん、と香澄ちゃんしかいないはずの家の中で部屋の扉がノックされる。ぞくりと鳥肌が立ってカチカチと歯が音を鳴らす。「は、はぎ…っはぎ、わらさ…っ、やだ、いえのなかっ、だれかいる…っ、」と助けを求めた声は情けなく震えて、涙が溢れ出す。
怖くて仕方がないのに、扉から目が離せない。再びとんとん、とノックをされて知らない声が香澄ちゃんの名前を呼ぶ。「ここ、開けてよ」と言いながらとノックの音が徐々に大きくなっていく。
とんとん、からドンドン、になってダァンッ!と何かを叩き付けるような音に変わっていく。萩原の呼びかけも耳に入らないほどの恐怖に香澄ちゃんが悲鳴をあげる。「い、やぁぁぁああ!やだ、やだぁぁ!こないで、やだ、ごめんなさい、やだ…っやだ、きゃぁぁあああ!?」と電話口から聞こえてくる悲鳴と、何かを叩く激しい音。
「チッ…!おいハギ、これヤバくねェか!?」と松田が舌を打って「こっちの声も聞こえてないってことは…パニックになってるな…」と伊達も眉間に皺を寄せて苦々しい顔をする。
「香澄ちゃん?聞こえる?大丈夫から、大丈夫だから落ち着いて、香澄ちゃん!!」と何度も呼びかける萩原だけど、返ってくるのは悲痛な泣き声。ひゅうひゅうと荒々しい呼吸の音が電話口から聞こえてきて、叩き付けるような音もどんどん激しくなっていく。
香澄ちゃんの住んでるアパートに着くなり松田がチャイムを鳴らして玄関の扉を荒々しく叩く。「おいゴラァ!!警察だ!!大人しく開けろ!!そこにいんのは分かってんだよ!!開けねェとぶっ殺すぞ!!」と最早どちらが悪人か分からない形相と態度の悪さ。
「香澄ちゃん家に着いたよ、大丈夫だから、ね?落ち着いて、ゆっくり息しよう?大丈夫、大丈夫だよ」と何度も電話の向こうに呼びかける萩原の隣では伊達が捜査一課へと応援の電話をかける。
「さっさと開けろっつってんだろうが!!聞こえねェのか!!ア゛ァ!?」と扉を蹴破りそうな勢いの松田に怯んだのか室内からガタガタと音がして、少し離れた場所からガサガサと音がする。
「まさか…ッ、ベランダから飛び降りやがったのか!」と伊達がアパートの裏手に向かって駆け出して、同時に痺れを切らした松田が扉を蹴破れば、けたたましい音を立てて扉が開き萩原と松田が部屋の中へ駆け込む。
真っ先に香澄ちゃんの部屋へと向かった萩原に対して、松田はベランダのあるリビングの方へ向かう。電話は繋いだままで「香澄ちゃん、聞こえる?もう大丈夫だよ。ゆっくりでいいから部屋の鍵、開けれる?大丈夫、もう怖いものは無いからね」とゆっくり呼びかければ電話の向こうで香澄ちゃんが息を飲む。
「大丈夫。信じて。大丈夫だから」と焦らず、急かさず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。扉の向こうの気配がほんの少し動いて、扉一枚を隔てて向こう側に香澄ちゃんがいることが分かった萩原が「大丈夫、大丈夫だよ」ともう一度念を押すように言えば、かちりと鍵が開く音がする。
すぐには開けずに「ここ、開けてもいい?それとも香澄ちゃんが開ける?どうする?」と尋ねれば、ゆっくりと扉が開いて酷い顔色の香澄ちゃんと目が合う。「もう、大丈夫だよ」と笑いかければ、くしゃりと顔を歪ませて香澄ちゃんが萩原の胸の中に飛び込んでくる。
「は…っぎ、はぎ…っわらさ、こわっ、こわかっ…っ、こわ、ふ…っぅ、ぁぁああ…ん、っ、!」と声を上げて泣きじゃくる香澄ちゃんをぎゅっと抱き締める。
「うん。怖かったね。俺たちが来るまで一人で頑張ってくれてありがとう。いい子だね。偉かったね。もう大丈夫、大丈夫だよ。俺たちがいるからね」と背中を撫でてあげれば益々香澄ちゃんが声を上げて泣く。
握り締めすぎた手のひらには赤が滲み、恐怖に怯えて声を張り上げすぎて喉も枯れている。泣きすぎて目は真っ赤で、荒くなった呼吸は過呼吸の一歩手前。ゆっくりと背中を撫でて、ひたすら時間をかけて香澄ちゃんの心から恐怖を取り除く。
駆けつけた警察にも怯え、萩原から離れることを拒む香澄ちゃんを優しく抱き上げて「大丈夫。香澄ちゃんが平気になるまでずっと一緒。だから大丈夫だよ」と小さい子供をあやす様に頭を撫でて額に口付けを落とす。
「ほんと…?ずっと、いてくれる…?」と香澄ちゃんがひっくひっくとしゃくり上げながら尋ねてくるから「勿論。ず〜っと、一緒にいるよ。大丈夫」ともう一度頭を撫でる。安心したのか体からくたりと力が抜けて意識を失った香澄ちゃんを抱き締めた萩原はようやく険しい顔で舌を打った。
「素人の犯行だな。室内に指紋も毛髪も服の繊維も、何から何まで置いてってやがる。ベランダ下の庭からゲソ痕も見つかった。多分すぐに見つかる」と松田が萩原の肩にぽんと手を置いて「だから、香澄が起きる前にその顔何とかしろよ。お前が人一人殺したような顔してちゃ香澄が怖がんだろ」と苦笑いを零す。
「…悪い、分かってる」と大きく息を吐いた萩原が、未だ顔色の悪い香澄ちゃんを見つめてそっと頬を撫でる。最悪の事態を未然に防げたことへの安堵と、もっと早く助けてあげられなかったのかという後悔が萩原の胸中を占める。今この瞬間だけは、どうか安らかに。