日常は斯くも儚く


「シリウス、起きて」

身体を揺すられる。
落ちかけていた意識が浮上した。

「私もう授業に行くわ」

空き教室の机に横たえていた身体は少しだるい。視線をあげればリースが青いネクタイを締めなおしていた。

「シリウスは次の授業ないの?」

「……ある。魔法薬学」

寝ぼけた頭と寝起きの声で簡潔に返す。
身体を起こして机に腰掛けた。
リースは手櫛で鳶色の髪を整えている。リースの腰を抱き寄せて豊満な胸に顔をうずめた。女特有のにおいがした。
腰に当てていた腕をするすると下ろして脚の付け根に這わせる。

「もう、行くってば」

たしめられて身体を離される。
リースは再度乱れた衣服を整えて「じゃあね」と出て行った。随分とあっさりしている。そこが良いんだけど。
のろのろと身体を動かし、自分も身なりを整える。
教室の置時計を見れば、次の授業までもう間もなくだった。ここから教室は近いが教科書を持ってきていない。寮まで取りに行ったら遅刻だ。


さぼるか。




***




「やあ!リース!」

呼ばれて振り向けば、髪先があちこちに跳ね回っている見事な癖毛少年がいた。丸い眼鏡が何度見ても趣味が悪いと思う。学年トップの成績を叩き出しているとは到底思えない。彼の自由奔放さは髪に表れているとシリウスに言ったことがあった。「違いない」とシリウスは笑った。
そんなシリウスも奔放さなら負けてはいない。純血主義のブラック家長男様は一族初のグリフィンドールだ。彼の組み分けの光景は今でも覚えている。彼の血縁者であるブラック3姉妹は学内でも有名だった。今はもう卒業してしまって1人しかいないけど。シリウスとはあまり仲良くないらしい。従兄弟だというのに話しているところを見たことがない。ブラック姉妹はその家柄も成績も、容姿まで皆優秀だった。だがそんなブラック姉妹を蹴散らすほど校内の話題を掻っ攫ったのが当時のシリウス・ブラックの組み分けだった。

「シリウスは一緒じゃないのかい?」

「そこの教室に置いてきたわ」

シリウス・ブラックはグリフィンドールに組み分けされて、一族内での立場を失ったけれど、代わりに無二の友を手に入れたようだった。それがこの癖毛少年というのが少々腹立たしいのだけれど。私が背後の教室を指差して答えたのにも関わらず、腹立たしい癖毛少年のジェームズ・ポッターはそちらをちらりとも見ずに私を見つめた。

「……シリウスに用があるんじゃないの?」

「もちろん、あるさ。授業始まっちゃうしね」

「じゃあ、早く迎えにいってあげたら?」

「それより先に君に聞きたいことがあるんだ」

上級生に対して「君」ってどうなのよ。相変わらず傲慢な子ね。純血だからって調子のってんじゃないの。愛想よく笑うジェームズ・ポッターに苛々して踵を返した。授業の教室まで遠回りしても間に合わない時間じゃない。聞きたいことが何なのか、大方見当はついている。

「あれ?僕の話聞いてた?」

カツカツと早足で進む私にジェームズ・ポッターはついてきた。
走って振り切りたい衝動にかられる。しかし、この子はきっとそれでもついてくるだろう。そういう子だ。授業前に無駄な体力を消耗するのは頂けない。まったくシリウスはもう少しマトモな友人を作って欲しかったわ。もう少し控えめでもう少し謙虚でもう少し品行方正で。そう、それこそ私と同じ髪の色の彼みたいな。
そこまで、考えてピタリと足を止めた。
そうだ。彼は、私と同じ髪の彼は、控えめで謙虚で品行方正で、成績も良く、人柄も良い。ジェームズ・ポッターやシリウスとは違った人気者だった。あえて難をあげるとすれば、月に一度学校を休むことと程よく整った顔にいつも生傷が絶えないことだろうか。
にゅっとジェームズ・ポッターの顔が現れる。視界と思考を遮られた。

「リース。きみってどうしてシリウスの誘いを断らないんだい?シリウスが君を通して誰を見てるのか、君なら気づいているだろう?」

この子のこういうところが嫌いなのよ。


***



廊下を出ると少し肌寒かった。先ほどの行為での汗がひえた。

「シリウス!」

呼ばれた向かいの廊下をみると、リーマスとピーターがいた。
軽く手を挙げて応える。

「良かった。すれ違いにならなくて。教科書持ってきたよ」

「助かる」

リーマスから礼を言って教科書を受け取る。先程までさぼる気だった気持ちがしゅるしゅると萎んでいく。我ながら単純だと思う。

「ジェームズは?」

「さっきまで一緒だったけど、なんか用事あるってレイブンクローの上級生を走って追いかけていったよ」

レイブンクローの上級生?そう言われて真っ先に思い出すのがリースのことだった。俺より少し前に教室出てった彼女なら、姿を見かけていてもおかしくはないだろう。しかし、彼女とジェームズは俺を介して顔見知り程度ではあるが、2人で仲良くおしゃべりするような仲ではなかったはずだ。相棒の企みなんて良からぬことに決まっているが、今回に限ってはその"良からぬ"の方向性が少々気掛かりだった。

「今日の授業で作る薬は簡単だといいなぁ」

ピーターの気弱な声でにつられてこっちまで気弱になりそうだ。

「そうだね。上級生になって、ペアじゃなくて1人で薬作ること増えたし」

「……別に大丈夫だろ。ピーターは俺かジェームズが横で見てるし。リーマスだって魔法薬学苦手だって言うけど、いつも完成させてるだろ」

簡単に言ってくれるよ……とため息をついたリーマスとまだ授業が始まりもしないのに落ち込み始めているピーターを見る。

いつもの何気ない日常だ。失いたくない日常でもある。だから、知られてはいけない。先程まで俺の下で喘いでいたリースにため息をついた友人を重ねていたことなんて。決して知られてはいけない。無二の相棒にも。手のかかる友人にも。愛おしい想い人にも。

そんな感傷に浸っていたのは、涙目で走ってきたリースがリーマスめがけて全てをぶちまけるほんの数秒前だった。

2017.06.01
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