葡萄酒と運命32 いつか分かること 「スタンフィールドと付き合い始めたってホント?」 出勤した早々に同僚に捕まった。 「……どこで聞いたんですか」 同僚から目をそらして自分のロッカーにずんずん進んでいく。 その後ろを質問してきた同僚、マリアは当たり前のようについてくる。 「アンタも相手も目立つから人目を避けてたってバレるわよ」 にやにやと楽しそうに話すマリアにいつかはこうなると分かりきってはいたが、早過ぎやしないかと思わず溜め息がもれた。 「……あまりにもしつこかったので」 遠回しに肯定した私にマリアは片眉を上げる。 「なにそれ。スタンフィールドのこと好きで付き合ったんじゃないの?貴方の本意じゃないってこと?」 「……え、」 予想外の質問にマリアの顔を見るとじっと私の顔を見て返答を待っていた。 「いや、私の本意、というか。自分で決めたことですよ」 質問の意図がいまいち汲み取れなくて覚束ない返事になる。 じっとマリアの視線だけの間があって、少し居心地の悪さがした。 「そ。それならいいけど。アンタ断らないでしょ。日本人の気質なのかもしれないけど、嫌なら嫌って言っていいのよ」 マリアの言葉に、私は心配されたのだと気付けたのはその日の帰りの事だった。 「それで俺は言ったんだよ。俺は天才なんかじゃないって。ちゃんとそれに見合う努力をしてきたって。でも取り合ってくれなくてな。その努力すらも才能だって言うんだよ」 「それは酷いね」 「そうだろう?」 クレアの愚痴と見せかけた自慢話、いや彼の場合は本当にただの愚痴のつもりで話しているものに適当な相槌を打ちながらコーラを飲む。 この時代のコーラはペットボトルとかじゃないから不便だなぁと思いながらごつごつした瓶の感触を両手で包み込んだ。 クレアと付き合い始めてまだ1ヶ月しか経ってない。 クレアは車掌で不規則な生活だから休みが合う事は月に1・2度あれば良い方だった。 つまりこうして2人で合うのは、付き合う前のデートを含めてまだ3度目だった。 休みが合う度、映画を観る。 その後食事しながら映画の感想を語り合って、そのまま最近あった事の話なんかに移行する。 だいたい喋ってるのはクレアだ。 私は聞き役。 ―――嫌なら嫌って言っていいのよ。 同僚の言葉が反芻する。 嫌なわけじゃない。だってクレアは必要だ。私があの列車で生き残るために。 「どうだ?」 「え?」 一瞬気をそらしてるうちに話は進んでたらしい。 クレアがのぞき込むように私を見ている。 「ごめん、聞いてなかった。もっかい言って?」 素直に謝って話を促すとクレアはじっと私を見る。 「悩み事か?」 「え、違うよ」 「誰かに何か言われたか?」 ―――スタンフィールドのこと好きじゃないの? マリアの言葉がまた反芻される。 いいんだそんなことは。 私にはクレアが必要で、クレアも私と一緒にいたがるんだから利害は一致している。 恋人という関係に「利害」なんて言葉が適切かは分からないけれど。 それでも、私が元の世界に帰るまでは。 「気にしなくていい」 私が何も言っていないのにクレアは言葉を続ける。 気が付いたら落ちていた視線を上げてクレアを見ると、真っ直ぐな視線とかち合う。 理由も事情も何も分からないのに言い切るところが、自信家のクレアらしい。 短い付き合いで私が些細なことでも考え込んでしまう性格であることはもう気付いているようで、クレアも深くは突っ込んで聞いてこない。 だからまた適当に相槌を打って「どうでも良いことを考え込んじゃった」とか適当に誤魔化して、話を流そうと思い、口を開く。 「瑞樹が俺のこと好きじゃない事も分かってる」 声を発する前に言われた言葉に固まる。 「瑞樹が俺の事好きじゃなくても良いんだ。とりあえずでも一緒に居るだけで俺は嬉しい。こうやってデートしてくれるなんて夢のようさ。それに、瑞樹が今俺の事好きじゃなくても、そんなの俺が惚れさせればいいだけの話だ。だから思ってもない事を言わなくていい。言いたくないことなら言わなくていい。嘘なんてもちろん論外だ」 淀みなく紡がれる言葉に、返す言葉に詰まってしまう。 気付かれていた。 私がクレアの事を好きじゃない事に。 それなのにクレアの告白を受け入れた事も。 多分相槌が適当な事も、打算で付き合っている事も感付いているのかもしれない。 その上で、クレアは私と一緒にいるんだ。 急に居たたまれなくなって口を閉じて再び視線が下に落ちる。 「なぁ、瑞樹」 名前を呼ばれてもどんな顔をすれば良いのか分からなくて顔を上げられなかった。 *** 血のにおいがする。 血と、それから弾薬のにおいだ。 この部屋は風通しが悪いらしい。 まぁ、窓もドアも閉め切っているのだから当たり前なのだが。 手に持っていたハンドガンの弾を補充する。 周りには3つの死体が転がっていた。 予想以上に簡単だった。人を殺す事は。 ニューヨークに居た時もベリアム議員の仕事関係で暗殺をすることが何度かあった。初めのうちは躊躇していた事もあったが今ではすっかり慣れてしまった。 父を刺して震えていたあの時の自分が見たら驚くだろう。 クレアの運命の人ではない私は、この世界にいる意味なんか無い。 行きたかった場所も会いたかった人も失った私を引き留めたのはクリスだった。 クリスは塞ぎ込んでた私の世話を甲斐甲斐しく焼いた。 甲斐甲斐し過ぎる程に。 どんなに悲しくても、どんなに辛くても、身体は正直で、クリスに世話を焼かれながら私の腹は度々空腹を訴え、私の脳は睡眠を欲した。 そういえばヒューイさんの処に居た時も、食欲だけはきちんとあったなぁと思い出す。 ヒューイさんから衣食住を与えられるのも交換条件の内として、レムレースへ入ったのだった。 交換条件。 ヒューイさんは慈善事業をしている訳ではないので、私への融通を聞く度に実験への協力を次々と要求された事を思い出す。 私自身も一方的の養われる事には抵抗があったのでそれはある意味、都合がよかった。 だから、リカルドの家の高いであろう衣服や食事をクリス経由で与えられて、私には罪悪感が積もっていくようになった。 「仕事?」 「うん。お世話ばっかりしてもらってて、申し訳ないから何か仕事させて欲しいの」 リカルドの幼い瞳がわずかに揺れる。揺れてる感情が何なのか私にはよく分からなかった。 「気にしなくて良いのに、そんなこと。ねぇ、リカルド」 「クリスは黙ってて」 近くに座っていたクリスが口を挟んで来たので言い返す。 クリスはリカルドの運転手兼用心棒として仕事をしているようだった。 私はこの国の運転免許を持ってないし、女の、しかもアジア人の用心棒というのも、差別が激しいこの時代では変に絡まれる事も多いので、適切な職では無いと思う。 もちろん、殴り合うような事になったらそうそう負ける事は無い自信はあるけれど。 だから私はクリスとは違う形で働きたかった。 「……分かった。おじいちゃんに聞いてみるよ」 「ありがとう」 ほっと息をつく。 そうして数日後には私はルッソファミリーの中で殺しの仕事を請け負い、徐々に成果を上げ、1年ほど前にファミリーからいなくなったラッド・ルッソ穴を充分に埋めるようになった。 ルッソファミリーのボスは好きになれないけれど、幹部達からの私を見る目つきが徐々に変わっていくのは心地が良かった。 居場所を許された気がした。 「アンタ何処かで会ったか?」 軽い仕事を終えて、その報告にプラチナ・ルッソの元に訪れると、青いつなぎのモンチーレンチを持った少年に見下ろされた。 「……気のせいだと思います」 「そうか?」 目の前の彼、グラハムさんにはシャーネを探している時に一度会っている。 まさかこんなところで再び出会うとは思ってもみなかったが、彼は元々ラッド・ルッソの舎弟的な存在だったので、不思議は無いだろう。 クレアの妻だった頃に出会った人と再会するのは、なんとなく、居心地が悪かった。だから相手がうろ覚えなのを良いことに、はぐらかしフードを深く被り直した。 「遅かったな」 プラチナ・ルッソの前に、先に来ていた私と後から来たグラハムさんは並ばされた。 「ちょっと揉め事を片付けてましてね」 「ふん……こちらに来た時のように、列車強盗みたいな馬鹿な真似はしなったろうな?」 「いやあ、ありゃあ、知り合いが昔やったこ事に対抗しただけですよ」 おそらく笑い出したいのを抑えて、グラハムさんは敬礼した。 「ま、ラッドの兄貴が出所するまで、なんとか代わりは務めてみせますよ」 「ほう。良い心がけだ。しかし、もう代わりはいるんでね」 プラチナ・ルッソが顎で私を指す。 グラハムさんが少し驚いたような顔をした。 「ラッドの兄貴の代わり?このガキが?」 「ソイツは女だ」 「女?」 グラハムさんにまじまじと顔をのぞき込まれる。 フードを引っ張って更に深く被る。 さっき会話もしたから声も聞いてるのに女だと気付かなかったグラハムさんは、何がおかしいのか口角を上げた。 「ラッドの兄貴の代わりはもういるってのに、俺を呼んだんですか?」 「今回は人手が多いに越したことはないんでね。……ところで、その後ろの奴は何故顔を真紫にしてるんだ?」 身体はシャンと正しながらも青い顔をしているシャフトことシャムを見る。 多分、グラハムさんに何かされたんだろうけど、当のグラハムさんは「何か楽しい事があったみたいです」と飄々としていた。 シャムってだいたい人に振り回される事が多いけど大丈夫かなぁ。振り回してた私が言える事じゃないけど。 「た、楽しそう……!なに?なによこいつら?サーカス!?」 客を連れてこい、と配られた資料を見てグラハムさんが目を輝かせる。 対して私は息を飲んだ。 写真に写るラルウァの面々に、好意的な懐かしさなど感じなかった。 *** 「なぁ、瑞樹」 名前を呼ばれてもどんな顔をすれば良いのか分からなくて顔を上げられなかった。 「瑞樹は、誰か大事な人はいるか?」 聞かれた質問の意図が分からなくて黙り込む。 大事な人は恋人のクレアだと答えるべきだろうか。でも、クレアには私が好意を抱いてない事がバレている。そんな状態で見え透いた嘘は逆効果に思えた。 「例えば家族とか友人とか。守りたい人、傷ついて欲しくない人。そういう人はいるか?」 意図は相変わらず不明瞭だったが、恋愛的な存在を問われている訳ではない事は理解できた。脳裏に浮かんだのはこの時代に来て私を最初に助けてくれた彼女だった。 「いる。今お世話になってる人の娘で、一緒に住んでる人」 「そうか。じゃあ大丈夫だ」 「……なにが?」 「世の中にはな、大事なものが何も無い奴等ってのもいるんだ。家族も友人もいなくて、所有しているモノにも執着や関心が無い。そういう奴等には分からない事ってのがある。でも瑞樹はそうじゃない。だから、大丈夫だ」 クレアの手が伸びてきて、優しく頬を撫でる。 「いつかきっと瑞樹にも分かる時がくる。それを理解させるのが俺であったら最高だが、そうじゃなくても」 俯いていた顔を緩い力で上げられる。 なんとなく、抵抗する意欲が分かなくて、そのまま目線が上がってクレアと視線が絡み合った。 「好きだ。瑞樹」 真っ直ぐ見つめられて恥じらいも無く告げられた言葉に咄嗟に視線を逸した。 クレアはこういう事をストレートに言ってくるので非常に困る。 今までの私の人生経験だとあまり言われなれていないという事と、自分の目的の為にクレアを利用しているという罪悪感が私を萎縮させる。 「俺の大事な人は瑞樹だ」 視線を外してしまった私を咎める事なく、話し続ける。 「つまり、瑞樹を守りたい、瑞樹に傷ついてほしくないって思ってるって事だ。その為なら、俺の事を好きじゃなくて良い。少なくとも今は。それで瑞樹の何かが守れているならそれで良いって思えるんだ」 そんな、罪悪感が増すような事をどうか言わないで欲しい。久しく忘れていた気持ちが溢れ出す。 消えてなくなりたい。 私にそんな価値は無いのに。私が産まれてきたせいで両親を不仲にして。母は精神を病み、お金で苦労ばかりかけて、大人になっても実家を出れる程稼げもせず、最後まで報いる事も無く、挙げ句、父を殺してきた私に、そんな価値があるはずないのだ。 「瑞樹」 名前を呼ばれてそっと視線をクレアに戻すと、珍しく困ったような顔をしていた。 「いつか、瑞樹にも分かる。分かるように俺が側にいる。ずっと」 その瞳が、やっぱり珍しく揺れているような気がして。私はぼんやりと、クレアの瞳は真っ直ぐでいてほしいなぁと考えていて。先程からクレアの言っている事がよく分からなかったけれども、いつか分かる日が来るなら、クレアの言う通り私にも分かる事が出来るなら、分かるようになってこのクレアの瞳を、真っ直ぐに見つめられたら良いと、そう思った。 「さて、帰るか」 そのひと声で、きりっと表情を一変させたクレアはウエイターを呼んであっという間にお会計を済ませた。先程までの雰囲気は幻だったのではないかと思わせる切り替えの早さだった。 当然のようにお会計は全額クレアが支払った。この点に間しては、初めて食事をした時に自分の分は自分で出す、と申告した。だが私の申告を聞いたクレアは数秒きょとんとして、それから「ああ」と何か納得したように頷いて「瑞樹の国では違うかもしれないが、アメリカで男女で食事に行ったら男が出すのは当たり前なんだ。むしろ女にお金を出させたらどれだけ収入が少ない腑抜けなんだと思われてしまうから俺に出させてくれ」と断られてしまった。 それ以降、クレアと出掛ける時に財布を出した事は無かった。 一緒にいる時のお会計を全て任せているなら今度何かプレゼントでもした方が良いのだろうか。しかし事実、所得はクレアの方が上だろうし、この時代の学歴も無く働き始めて間もない事務員の私が買えるものなんてたかが知れてる。そもそもそういう見返りをクレアが求めてるタイプじゃないだろうし。この時代ではどれ位の感覚が普通なのだろうか。 ―――スタンフィールドと付き合い始めたってホント? ふと浮かんだ同僚を思い出す。 マリアさんに聞いてみようか。そういうの、詳しそうだし。ハッキリ言うタイプだから相談に向いてる人だ。 「それで、瑞樹。さっきも言ったが」 店を出て帰路に着きながらクレアに名前を呼ばれて見上げると、クレアがほんのり頬を染めていた。 「正式にお付き合いしだしてもう1ヶ月経つし、その、瑞樹が今世話になってる人ってのに挨拶しておくべきだと思うんだ。だから家まで送って行きたいんだが、どうだ?」 クレアの提案に衝撃が走る。 どうだ?って何? 付き合って1ヶ月程度で身内に挨拶? いや、駄目じゃないけど早すぎないか? たった1ヶ月だよ? でもクレアとのお付き合いって元々結婚のプロポーズから始まってるから、そういう意味なら当然なのか? そもそもこの時代のアメリカではそれが普通なのか? いやでもクレアをヒューイさんに紹介? そんな、そんなことは、 「―――――ヤだ!!!!!」 絶叫するかのように飛び上がって拒否をした。多分こんな人前で叫んだのも久々じゃないか位に強く声を発した。 はっと我に返ると周りの通行人が数名ちらっとこちらに視線を寄越していた。 「分かった」 私が通行人の視線に気を取られてる間にクレアは再び切り替えの早さを見せつけて頷いた。 「いや、違くて!クレアが嫌とかじゃなくてね。ちょっと、その、お世話になってる人ってのが変わり者で!あんまり職場の人とかに合わせたくないというか!」 慌てて弁明する。 クレアをヒューイさんに会わせたら、絶対に面白がる。 私が目的のための打算で付き合ってる事なんか説明出来やしない。何故なら現状私は特に身の危険も感じずに生活出来ている。レムレースの構成員とはヒューイさんを通して僅かながらに交流があるが、彼らの活動には関与していない。そんな私が身の安全の為にクレアを側に置きたがるのは不自然だ。 その不自然を説明出来ないため、ヒューイさんにクレアが挨拶するのであれば、純粋に愛し合って付き合ってるとしか言えなくなる。 あの知的好奇心の塊が、私に付き合ってる人が、愛し合っている人が出来たなんて知ったら、興味津々で質問攻めしてくるのは火を見るよりも明らかだ。 自分は嘘が得意では無いし、きっとうまく取り繕えなくて、私は先程までとは違う意味で消えてなくなりたくなるだろう。 「分かった。大丈夫だ」 いつもの調子できっぱりはっきり断言するクレアに押されて、私は口を噤んだ。 「駅まで送るのはいいだろう?」 微笑んでそう言われてしまったら、頷くしかなくて、2人で並んで歩きだす。 とりあえず、思わず出た強めの拒否をクレアが気にしてないようで安心した。 ふと、先程浮かんだ同僚が再び脳裏に顔を出した。 ―――嫌なら嫌って言っていいのよ。 多分、こういう事じゃないよな、とは思った。 2022.12.18 拍手 |