最後の頼みの綱、神田からのメッセージは、私の期待を裏切るものだった。
「どうしよう……」
 六限前の短い休憩時間、メッセージアプリを立ち上げたまま、私は教室の席であせった声をもらした。
 防衛任務のために欠席をした午前中の数学で、小テストを出されていたのだ。テストの実施は明日の朝。しかも一限目だ。今日中にノートを書き写して備えておかなければ、間に合わない。
 三門市の防衛任務があるボーダー隊員は、どうしても授業の欠席が発生する。公欠であるため単位に影響こそないものの、授業の遅れにはつながる。進学校では、特にだ。
 六頴館ではその穴埋めとして、補習や課題プリントを提出することで理解の遅れをカバーさせてはくれるけれど、出席する授業の小テストを自分だけ逃れることまでは許されていない。
 そして明日の私は、防衛任務が入っていない。つまり、朝一で行われる小テストに備えるには、今日中に復習をしなければならないのだ。
 それなのに、頼りにしている荒船だけでなく、蔵内と神田まで当てが外れてしまった。
 真っ先に連絡を取った荒船は、私と入れ代わりのタイミングで防衛任務だったらしく、学校にはいなかった。それだけなら、本部へ行ってノートを写させてもらうこともできたけれど、タイミングの悪さは重なる。任務のあとすぐにスナイパーの合同訓練へ参加するため、終わるまで会えないという話だった。
 荒船がだめなら蔵内に、とヘルプを送ってみたけれど、蔵内は蔵内で放課後に生徒会の仕事が入っているとのことで、こちらから辞退した。
 ノートを借りるだけなら生徒会室へ行く前の数十秒で済むことではあるけれど、それでは返す時間がない。蔵内も自宅で予復習をするかもしれないと思うと、明日まで借りるのは気が引けてしまったのだ。
 そして最後に残った神田。神田がだめなら詰み、という局面で、彼からの返信は、今日はノートを持っていない、というものだった。
 神田のクラスでは今日数学の授業がなかったらしく、ノートも教科書も自宅にあると言われてしまい──私はこうして窮地に立たされているわけだ。
 隣の席のクラスメイトにでも写させてもらえば済む話ではある。けれど、いつも同じボーダー隊員に頼っていたために、いきなり声をかけることに抵抗感があった。
 六頴館は進学校だ。本来なら勉強が本分ともいえる。それを承知で界境防衛機関に所属しているのだから、授業の遅れを取り戻す努力をするのは当然だ。だからこそ、非戦闘員に頼るようなことはなるべくしたくなかった。
 防衛任務のせいで勉強ができない、と思われたくない。両立できるのだと、示したい。
 三門市はボーダーに理解の多い市民が多いけれど、もちろんよく思っていない人もいる。なにが叩く口実になるかわからないからこそ、隙を見せたくはないのだ。
 ノートくらいで考えすぎ、と言われるかもしれないけれど、ささやかなプライドが許さないのだから仕方がない。
 こうなったら、荒船の合同訓練が終わるの待とう。どうしようもないことで悩んでいても、解決はしない。私は頭を切り替えて、狙撃手合同訓練が終わるまでの時間の過ごし方を考えることにした。

◆   ◆

「桑染ちゃん」
 待ち合わせをした覚えのない同級生が、笑顔でこちらに手を振っている。こういう場合、無視をするのはいけないことなのだろうか。
 迎えた放課後、教室を出て行く級友たちの流れに乗りながら教室を出たところで、廊下に立っていた犬飼澄晴が私の名前を呼んだのだ。
 廊下で別のクラスの生徒と向き合いながら、私は少しだけ緊張していた。
「……なに?」
「今日の午前中、防衛任務だったんでしょ? おつかれさま」
「……どーも」
 帰る学生たちの邪魔にならないよう、廊下の端に寄りながら、探るように答える。不審がる私をよそに、犬飼は人なつこい笑みを浮かべたままだ。
「なんの用?」
 雑談がしたいわけではないはずだ。同級生で、ボーダー隊員同士ではあるけれど、私は犬飼と──荒船や蔵内、神田と違って──それほど親しくはない。
「そっちのクラス、午前中に数学あったんだって?」
「あったけど?」
 それがどうしたというのだ。早く犬飼と別れたいせいか、口調が自然とそっけなくなる。
「明日の朝小テストがあるのに、ノートまだ写してないって聞いたから、貸すよ」
「えっ」
 突然の申し出に、思わず素の声がもれてしまった。
目を丸くする私とは反対に、犬飼は目を細める。
「あー……でも、荒船から貸してもらうつもりだから」
 いいや、と続けようとしたところで、
「荒船は今日スナイパーの合同訓練でしょ?」
 遮るように、犬飼が言った。小首をかしげる犬飼に対して、私はうつむきがちに黙りこむ。ここで断ったら、厚意を無下にするようで感じが悪くなってしまう。せっかく貸してくれるというのに、わざわざ時間をつぶして待ってまで他の人を頼るのは、いくらなんでも嫌味っぽいだろう。
 廊下で立ち止まる私たちの横を、生徒たちが通り過ぎて行く。この流れに乗って、ここを去れたらどんなに楽か。
「……お願いします」
 腹をくくって頭をさげると「うん」という軽やかな声が、つむじのあたりに降ってきた。

◆   ◆

 正直に言うと、私は犬飼澄晴という男が苦手である。表情も態度も柔和で、どちらかというと人当たりはいい方であるはずなのに、どうにも肌があわないのだ。
 だから、ノートの貸し借りを犬飼に頼んだことはなかった。今までは荒船、蔵内、神田の三人の誰かに都合がついていたために、この同級生を当てにする必要がなかったのもある。
 それが、まさか、こんなことになるなんて。
 放課後の図書室、六人掛けのテーブルの一角で、私は犬飼のノートを写させてもらっている。もらっているけれど──私はこの男を頼りにしたことを後悔していた。
「そんなに急がなくてもいいよ。ゆっくり写したら?」
 なるべく早く済ませてしまおうと急いでシャープペンシルを走らせる私に、隣の犬飼が小声でささやいた。
「……待たせるのも、悪いから」
 顔も上げずに答える。無愛想な態度だったはずなのに、犬飼がうっすらと笑った気配がした。
 そもそも、急いで書き写しているのは、この犬飼澄晴のせいである。この男はノートを取る私の顔を、手を、じっと見てくるのだ。やりづらいから他のことをしていてほしいと言っても、目をこの形に細めるだけで、私の観察をやめてはくれなかった。
 見られているのも、待たれているのも、犬飼澄晴という同級生といるのも──全部、居心地が悪い。
 犬飼は、いつもこうだ。何か含みのあるような顔で、私を見る。自意識過剰であるということもわかっているけれど、じっと見られると気まずくて仕方がない。影浦がこの男を嫌っている理由も、私にはわかる気がする。
 明日の朝に小テストさえなければ、この男の力を借りる必要もなかったというのに。
「……ありがと」
「どういたしまして」
 最後の一行を書き取って、ノートを犬飼に返す。軽薄な笑みはやっぱりなにを考えているか読めなくて、いたたまれなさに目をそらしてしまう。
「飲み物、なんかおごる。なにがいい?」
 筆記用具をスクールバッグにしまいながら、尋ねる。犬飼からは、考えるような「んー」と間延びした声が返ってきた。
「他のものがいいんだけど」
「他のもの? ……なに?」
 犬飼の目が、すうっと細められる。
「手つないで、帰ろう?」
「────はあ!?」
 私が上げた大きな声に、図書室を利用していた生徒たちが一斉にこちらへ目を向けた。悪目立ちをしているというのに、それどころじゃなかった。いま、いまなんて言った? 手を? つなぐ?
 絶句して口をあけたまま立ち尽くす私の代わりとばかりに、犬飼が「すみませーん」とへらへら謝った。それがまたなんだか癇に障って、唇のはしがわななく。私はこんなにも動揺しているのに、どうして。余裕な態度を見せる目の前の男が腹立たしい。
「だめ?」
 こちらに視線を戻した犬飼が、尋ねる。私はあいた口がふさがらなかった。手をつなぐ? そんなものだめに決まっている。わけがわからない。手をつなぐって、どういう意味だ。なにを考えているのか。理解ができない。
「だめだったらいいや。ジュースにする」
 あっさりと引いて、私に貸していたノートをしまうと犬飼は立ち上がった。
「行こ。ウェルチのグレープか小岩井の純水ぶどうがいいから、コンビニね。どっちかはあるでしょ」
 なんにもなかったかのように、犬飼澄晴は笑う。私はそんな同級生を睨みつけた。
「……からかうようなやつにはおごらない。サイテー」
「からかってなんかないんだけどな。でも怒ったなら謝るよ、ごめんね」
 あっさりと詫びる態度もまた、気にくわない。言葉の、態度の軽さのせいで、まるで誠意がこもっているようには思えないのだ。
「……私、犬飼のこと、好きじゃない」
 スクールバッグから引っ張り出した財布から、ちょうどよく入っていた五百円硬貨を抜いて、突きつける。
「……律儀だねえ。おごらないんじゃなかったの?」
「ノート貸してもらったのは、確かだから」
 心がこもっているとは思えなかったが、一応の謝罪の言葉もあった。貸し借りを無しにするには、こうするしかない。そして犬飼を頼るのはこれっきりにする。今後はなんとしてでも荒船か蔵内か神田を捕まえる。絶対絶対絶対に、この男の力は借りない。
「でも、五百円じゃお釣りが出るから、やっぱり一緒に行こ」
 ──突き出した腕の手首を掴まれて、図書室の出口へ向かって引っ張られる。なにをするんだこの男は!
「いぬッ……!」
「しーっ」
 大声を出しかけた私を諭すように、犬飼が唇に人差し指を立てた。
「図書室なんだから、静かにしないと」
「──……!」
 ──誰のせいで!
 心の中で叫ぶ。がっちりと掴まれた手首は、引いてもぶんぶんと振ってもほどけない。トリオン体になればどうにかできるだろうけれど、学校内ではトリガーを起動するわけにもいかない。
「は、な、し、て!」
 ささやき声のボリュームで怒鳴るけれど、犬飼はおかまいなしに私を連行する。絶対に聞こえているくせに。無視している。サイテーだ。
 こんなことになるなら、小テストで酷い点数を取る方がマシだ。もう、絶対絶対、犬飼なんかには近づかない。


←backnext→

自慰/手淫/オナニズム