魔法使いたちの賢者である桑染園希は、いずれおとずれる絶対の別れを、その時にはもう予感していた。肌を焦がすような暑さが過ぎ、涼しさを感じ始めた頃のことだった。
 ここにいる自分には、もうそれほど多くの時間はのこされていない。厄災をもたらす月との戦いが終われば、きっと元の世界へ戻ることになる。庭木の花がほころんでいることに気がついた時のように、ふっと意識したそれを、けれど彼女は、おだやかすぎるほど素直に受け入れていた。
 突然に連れて来られた、壊れかけの異世界。世界を救うのを手伝ってほしいと伸ばされた手を、わけもわからないままにつかんでから、季節が一巡りしようとしている。
 頼る者もなく、勝手も常識もまったく違う異世界での暮らしには、悩むこともあった。けれど、得がたい日々でもあったと、彼女は心の底からそう思っている。
 見知らぬ世界に、不安や重責、寂しさを感じなかったわけではない。やはり、故郷を恋しく思うことはあった。しかし、それをやわらげ、なぐさめてくれたのもまた、この世界の彼らだった。
 何百年と生きるという魔法使いたちにとって、一年などほんのわずかなひと時であることは、わかっている。けれど、彼女にとって、この世界とこの世界で生きる魔法使いたちは、今や愛すべきものとなっている。
 なぜ、世界を救う賢者として呼ばれたのが、自分だったのか。それは今でもわからない。けれど「ほかのだれでもなく、自分でなければいけなかった」のであればいいと、だれに言うこともなく、彼女はそう願っていた。
 赤い絨毯がしかれた魔法舎の廊下を歩きながら、中庭に目を向ける。外はすっきりと晴れ、換気のために開け放された大きな窓からは、風が自由に入ってきていた。
 立ち止まって、胸いっぱいに深く息を吸いこむ。澄んだ空気が肺に満ち、背筋がぐっと伸びた。
「──隙だらけだね、賢者様。いつでも殺してくれって、言ってるみたい」
 吸いこんだ息を吐きながら振り返ると、音も気配もなく、北の魔法使いが立っていた。赤い瞳と金色の瞳を細めて、楽しそうに笑っている。
「こんにちは、オーエン。それから、殺すのはやめてほしいです」
「どうしようかな」
 もったいぶるような、いたぶるような口調だったけれど、この賢者には慣れたものだった。
「お天気もよくて、風も涼しくて気分がいいので、もう少し生きていたいです。お願いします」
 ぺこりと頭を下げると、物騒な物言いをする魔法使いは、興がそがれたように口角を下げた。すねた子供のような表情だった。
「僕はこんな天気は嫌いだね。気分が悪い。太陽はまぶしいし、風も鬱陶しい。くもりの方が、みんな陰鬱な顔をするから楽しい」
「そうですか……感じ方はひとそれぞれですね。私がいた世界の、私が住んでいた国は湿度が高かったので、晴れて涼しい日は気持ちがいいです」
 褒められて気をよくしたのか、軽やかな風が賢者の栗色の髪をなでていく。
「……ふん。賢者様がいた世界なんて、興味ないよ」
 つまらない、という表情を隠しもしない態度に、自然と笑みが浮かんでくる。狩狼官をしていたというオーエンは犬派だそうだけれど、本人の態度は猫によく似ている。気まぐれで、なつかず、縛られない。
「基本的に平和で大きな争いもなかったので、そういう面ではたしかにオーエンにはつまらないかもしれないですね。私は平和な方が好きですけど」
 この世界には、夜空に浮かぶうつくしい厄災がある。世界を滅ぼさんとする、その月との戦いがあるかぎり、今のこの平穏も仮初のものでしかない。
「退屈で生ぬるい所にいたから、賢者様は警戒心がないんだね。北の国だったら真っ先に死んでるよ。そうだ、死んでる賢者様が見てみたいな。今から北の国に行こうか。僕が連れていってあげる」
 不機嫌が一転、オーエンは楽しげに相好をくずす。
「北の国のどこがいい? 氷の森? 死の湖? それとも、希望の平原? ああ、夢の森の毒で朦朧としている賢者様もおかしかったな。また見せてよ」
「死んでるところが見たいって言われて、わかりました行きます、とは言えないですよ……それよりも──」
「──園希!」
 明朗快活な声が、口を開いた賢者の声をさえぎった。名前を呼ばれた方へ目を向けると、廊下の先に、赤い髪の青年が立っていた。賢者の魔法使いの一人で、元騎士団長のカインだった。
「よう、二人で世間話か?」
 足早にこちらへ来たカインが、人好きのする笑顔を浮かべる。明るい陽射しのようだった。
「賢者様を北の国に誘ってたんだよ」
「北の国に? どうしてそんな所に賢者様を誘うんだ」
 首を傾げるカインに、オーエンが妖しげな笑みを浮かべる。
「どうしてってそんなの、雪の中で凍える賢者様が見たいからに決まってる。寒くて、冷たくて、痛くて『助けて』って僕に命乞いをしてほしいからだよ」
 遠足か、プールか、そういったレジャーを楽しみにする少年のような屈託のなさで、北の魔法使いはおだやかではない考えをつらねた。
「そうか、それならお前と一緒には行かせられないな」
 精悍な顔つきを見せたカインが、賢者をかばうようにオーエンへ向きあう。
「……さすが騎士様。悪い北の魔法使いから賢者様を守ってあげて、立派だね」
 笑顔を貼りつけながら「悪い北の魔法使い」は含みのある口ぶりで返した。怯むどころか挑発するような態度に、彼がそう呼ぶ「騎士様」はぴりりとした空気をまとう。
「……あの、オーエン」
 元騎士団長の横から顔を出し、賢者はにらみ合う二人の空気を破った。
「北の国は寒くて、冷たくて、痛くて、私には厳しい所ですけど、また行きたいなって思ってます。でも、死にたくはないので、魔法で守ってほしいですけど……今度、連れていってくれますか?」
「悪い北の魔法使い」は、虚を突かれたのか、邪気の抜けた顔でまばたきをしている。
「……どうしても、お願いしますって言うなら、考えてあげる」
 数秒の間のあとのその返事は、いつものにやついた口調ではなく、ぶっきらぼうなものだった。
「危ないんじゃないか、園希。北の国は、魔法使いでも厳しい場所だ。それでも北の国へ行きたいと言うんなら、俺も同行させてくれ」
「ありがとうございます、カイン。でも、大丈夫です」
 心配する元騎士の進言を丁寧に断り、賢者は北の魔法使いへと向き直った。
「どうしても、オーエンに連れていってもらいたいです。お願いします」
 濃い紅茶色の、意思の強さを宿した目を笑顔に変えて、賢者は頭を下げた。頼みごとをしているにしては機嫌のいいそれを、気まぐれな北の魔法使いはじっと見下ろす。
「ふん。素直すぎてつまらない。気が向いたら連れていってあげるよ。それじゃあね、賢者様、騎士様」
「──あ、オーエン……!」
 賢者が呼び止める声も無視して、北の魔法使いは跡形もなく姿を消し、去ってしまった。
「ああ……消えちゃった……」
 名残惜しげな賢者に、カインは言い聞かせるようなまじめな表情を向けた。
「園希、オーエン相手にあんなことを頼んだりしたら、危ないんじゃないか」
 事実、賢者は北の国の神殿を復活させる際に、息もできない吹雪で死にかけている。
「北の国へ連れていってほしいなんて、俺には殺してくれと言っているようにしか聞こえないぞ。いや、さすがにあいつでも賢者様を殺すようなことはしないとは思うが……それでも、意地の悪いことくらいはするだろ」
 真剣な表情は、それだけ賢者のことを気にかけているという証拠でもある。彼の元騎士団長は、いつもそうだった。真摯で誠実で、裏表がない。その在り方に彼女が励まされたことは、一度や二度ばかりではなかった。
 元の世界とこの世界をつないだ塔で、出会った魔法使いのひとりが彼でなければ、ここまでやってはこれなかった。本心から、そう思っている。
「心配してくれて、ありがとうございます。でも、きっと大丈夫です」
 北の魔法使いが立っていた場所へ目を向けて、賢者は目元をゆるめた。
「最近、ちょっとだけオーエンのことがわかってきた気がするんです。物騒だし、こっちを怒らせるようなことばかり言いますけど、それは言葉だけなんです。ちゃんとお願いをしたら、けっこう聞いてくれるんですよ」
 たかが一年程度で、すべてを理解できたとは思わない。世界からして違うのだ。文化が異なれば価値観の隔たりも大きい。ましてや、何百年も生き、魔法が使える彼らと、ただの人間でしかない自分では、見えているものもきっと違う。
 それでも、心や感情というものには、大きな差異はないはずだった。やさしくされればうれしく、つらくあたられれば傷つく。
「わかる」ことはできなくとも「わかろうとする」ことは無駄ではない。賢者は──桑染園希は、そう考えている。
「たしかに、最初の頃に比べれば、得体の知れなさはマシになったな。あとは、そうだな。あんたに強く出られないのかもしれない」
 納得したように、カインは明るく笑った。
 関係性だけでいえば、賢者とその魔法使い以上に、カインとオーエンには因縁がある。そんな彼らだが、今ではずいぶんと親しくなったように見える。
 賢者は、それがなによりもうれしかった。この世界ですごした日々が、彼らにとってはわずかばかりの時間で、たやすく忘れられるのだとしても、彼らのよい関係がこれからも長く続いてくれるのであれば、これ以上に望むものはない。
 残り少ない時間であるのなら、できるだけ悔いが残らないようにして、終えたい。それが今の望みだった。
「カイン、このあとなにか予定はありますか?」
「いいや、特に予定はないな。どうした?」
「インクがなくなりそうなので、買いに行きたいんです。クックロビンさんに頼むのを忘れちゃってて。せっかくのお休みですが、もしカインがよければ、付き合ってくれませんか?」
「任せてくれ! 賢者様の護衛役に任命され、光栄です」
 いたずらっぽく笑い、カインが恭しく腰を折る。芝居がかった、ひょうきんで大袈裟な仕草だった。
 魔法舎の廊下で小さく弾けた明るい笑い声を、窓からの風がさらっていく。
「ふふ、ありがとうございます、カイン。ついでなので、ネロにおつかいするものがないか訊いてから、行きましょうか」
「ああ」
 賢者と元騎士団長は、並んで廊下を歩き出す。窓の向こう、買い物のために飛んでいくことになるであろう空は、どこまでも高かった。

◆   ◆

 さまざまな店が集まる中央の国の城下街は、いつも賑わいを見せている。
 行き交う人々を避けて歩きながら、賢者は隣で肩を並べるカインを見上げた。
「今日はありがとうございました、カイン。荷物も持ってもらって……」
「なに、お安い御用だ。これでも元騎士だからな、力の要る仕事は得意なんだ。賢者様を担いだって、余裕があるぞ」
 カインは、いっぱいに詰まった紙袋を持ち上げて見せた。魔法使いでありながら身体も鍛えている彼は、言葉通りまだまだ荷物を持てそうだった。
「あはは、さすがですね。カインに頼んで正解でした。本当はオーエンに頼もうと思ったんですけど、逃げられてしまったので。カインが頼まれてくれて、よかったです」
 どこからともなく廊下に現れたオーエンは、暇を持てあましていたのだと思う。退屈しのぎに賢者をからかおうと姿を見せたのではないかと、彼女は考えている。
「北の国へ連れていってもらうだけじゃなく、買い物もか?」
 オーエンと一悶着のあるカインは、苦笑いを浮かべる。それが純粋な心配からであることを知っている賢者は、安心させるように笑顔で返した。
「手があいてそうなひとに、頼もうと思ってたんです。そうしたら、ちょうどいいところにオーエンが現れたので。なんだか暇そうでしたし」
「暇そうだったからって……それこそどこに連れて行かれるかわかったもんじゃないだろう。危ないところに置き去りにされていたかもしれないぞ」
 いかにもありそうなことだった。買い出しの寄り道とばかりに、そういう意地悪──いたずら──くらいはされていたかもしれない。
 けれど。
「それが、お菓子でお礼をすると言えば、素直に付き合ってくれるんですよ」
 言葉でひとの心を惑わせるオーエンは、甘いお菓子が大好物なのだ。頼みごとがある場合、ケーキやクッキーをちらつかせると、大人しく言うことを聞いてくれることが多い。
「あいつは甘いものが好物みたいだからな。前に、王都中のケーキをおごらされて苦労したよ……」
「ああ、熱の町でいろいろあったんでしたっけ」
 以前、魔法舎に寄せられた相談を解決しに行った町で、勘違いからオーエンとアーサーの取引を肩代わりすることになったのだ。その取引というのが「王都中のパティスリーのケーキをごちそうする」というものだったのだから、大変だったらしい。
 中央の国の王子であるアーサーならば、取り寄せることもできたのかもしれないが、騎士、それも「元」であるカインではそうもいかない。コンプリートには、少々時間がかかったと聞いている。
「一生分のケーキを見た気がするよ。あいつは毎回まずそうな表現をしながら、うまそうに食べてたけどな」
「二枚の熱い鉄板ではさんで焼き印をいれたやつとか、白いツルツルの脳みそに甘い血をかけたつ、とかですよね」
「脳みそって……食べものを例える表現じゃないな……」
 げんなりとした顔をするカインに、今度は賢者が苦笑を浮かべる。オーエンの食レポは独特すぎるのだ。食欲を刺激するような表現をせず、なぜだか陰惨な言葉ばかりが連ねられる。
「普通の感覚だと、食欲をなくしますよね。ちなみに、さっきのはワッフルとパンナコッタのことです」
 オーエンの表現では、いちごジャムが「治りたての傷口みたいな食感のやつ」になり、クリームは「ぬるぬるしてふわふわのべたべたなやつ」となる。チュロスは「甘い骨みたいなやつ」と言っていたし、賢者の元の世界のおはぎは「追い剥ぎ」と聞き間違えられた。
「例えはおどろおどろしいですけど、うれしそうな顔でおいしそうに食べるんですよね。好きなものを食べる時のオーエンは、ちょっとだけかわいいです」
 本人を前にしては、決して言えない言葉だ。少しだけ照れくさくなり、賢者ははにかんだ。
「たしかに、甘いものを食べている時のあいつはおとなしいな。でも、あのオーエンだぞ? 俺も魔法舎での共同生活で多少は慣れたし、わかってきたとは思うが、あいつをかわいいとは思えないな。さすが賢者様だ」
「そんな大層なものじゃないですよ。賢者だとか関係なく、ただ、オーエンとも仲良くなりたいって思っているだけです」
 異世界からきた余所者である人間の自分と、魔法使いのあいだには、たしかに大きな隔たりがある。けれどそれは、異邦人だから、賢者だから、人間だから、魔法使いだから、という話は関係がないはずなのだ。それらは属性でしかなく、本質ではない。
 それぞれ違う考え方を持つ一個の存在として向き合い、何もかも違って何も変わらない彼らと、対等な関係を結びたかった。ただそれだけのことだった。
「人間」に傷つけられることが少なくない彼らに、人間を嫌いになってほしくなかった。人間である自分が彼らに歩み寄ることで、人間も「魔法使い」である彼らと仲良くなれることを示したかった。傲慢でおこがましい、そんな一方的な願いでしかない。
「だから、カインとも、もっともっと、仲良くなりたいです!」
 身を乗り出して意気込むと、赤髪の青年は目を丸くしたあと、人なつこい笑顔で返した。
「俺も、園希ともっともっと仲良くなりたいと思ってるぞ! だから、いつでも声をかけて、頼ってくれ。買い物でもなんでも付き合うからな」
 屈託のない笑顔に信頼を乗せて、カインが言う。それが、たまらなくうれしかった。
「ありがとうございます。用事ある時は、頼らせてもらいますね」
「ああ!」
「それじゃあ、さっそくですが箒に乗せてもらってもいいですか? 魔法舎へ帰りましょう。書い忘れたものはないと思いますが、カインの用事はないですか?」
 一番の目的のインクは購入した。ネロからのおつかいも、メモを確認しながらすべて調達している。カインにもなにか用事があるのであれば、ついでにすませて戻るのがいいだろう。
「俺は大丈夫だ。それより、せっかく市街まで来たんだ、お茶とかしていかなくていいのか? ケーキがうまくて、中で食べられる店がいくつかあるぞ。王都のパティスリーには、ちょっとくわしくなったからな」
「それじゃあ、みなさんにおみやげを買って帰りましょうか。オーエンだけじゃなくて、リケとミチルもよろこびます」
「ああ。それがいいな」
 うなずいたカインが、それなら、と先立って歩き出す。それについて行きながら、活気のある通りを進む。
 街並みだけを見れば、元の世界のヨーロッパあたりの国の風景と、ほとんど変わらないように思える。
 アスファルトではなく、石を敷いた道に、三角にとがった屋根。一階は様々な店が入り、二階より上が住居になった建物が並び、景観をつくっている。
 この街並みも、石畳の道を歩くのも、すっかり慣れたものだと、感慨深くなる。
 並んだビルや店の看板、通りを走る車や電車といった景色が、なつかしくないわけではない。けれど、長期の海外旅行や留学のようなものだと考えれば、案外楽しめるものだった。
 鞄屋、靴屋、時計屋に、本屋。花屋の店先からは、あふれ出した色とりどりの生花が、通りを彩っている。ひとびとの営みというものは、世界が違ってもそう変わらないものだった。
「──あ」
 ショーウィンドーを眺めながら歩いていた足が、止まる。くすんだオレンジ色のオーニングが張り出した、こじんまりとした店の前だった。
「園希? どうした」
 賢者が歩みを止めていることに気がついたカインが、振り返る。
「すみません、カイン。最後にもうひとつだけ、買い物をしていってもいいですか?」

◆   ◆

 北の国出身の魔法使いの部屋が並ぶ、魔法舎の五階の廊下はしんとしていた。夕食を終えて、しばらくした頃だった。談話室の喧騒も、ここまでは届いてこず、夜の空気にひたされている。
 ある魔法使いの部屋の前に立った賢者は、どっしりとした木製の扉をノックした。
「こんばんは、オーエン。いますか?」
 返事はなかった。物音も、気配もない。いないのだろうか。
「オ──」
「なんの用? いじめられに来たの?」
 もう一度ノックをしようとしたところで、急に扉が開いた。そこには仏頂面の魔法使いが立っていた。
「こんばんは。いじめられに来たんじゃなくて、渡したいものがあって来ました。あと、できれば、おしゃべりもしに」
 青い包装紙に包まれ、シンプルなリボンがかけられた平たいものを差し出す。オーエンは驚いたような表情で、どこからどう見てもプレゼントとしか思えないそれを凝視した。
「なに、これ。僕に? ……くれるの?」
「はい。オーエンへの、プレゼントです。プレゼントというと、ちょっと大げさな気もするんですけど……受け取ってくれますか?」
 じっと「プレゼント」を見つめたオーエンは、ふうん、と気のないような返事をし、奪うようにしてその箱を受け取った。
「僕を懐柔したいの? どういう目的? ねえ、中身はなに? 呪いの道具? それとも、僕のトランクみたいに、開けたら魔物が飛び出してくるのかな」
 まくしたてながらプレゼントをひっくり返し、振り、オーエンはうれしそうな、よろこんでいるような表情を浮かべた。仏頂面が一転、ころころと変わる気分は、やはり猫か子どものようだった。
「……いつまでそこに、突っ立ってるの」
「え?」
 断られずに受け取ってもらえたことにほっとしていると、ぶすりとした声が賢者の意識をと引き戻した。
「僕と、おしゃべりをしに来たんでしょう?」
 見目いい青年の姿の魔法使いは、そうしてにっこりと微笑んだ。

「ねえ、これって」
 白い革張りのソファに腰掛け、青い包装紙をびりびりに破いたオーエンに、立ったままの賢者はうなずいた。
 賢者が彼に贈ったものは、木製のチェスセットだった。折りたたみ式のボードには留め金具がつけられ、その中に駒をしまうようになっている。
「ふうん……」
 部屋の主は無表情に、チェスのボードを開閉し、ひっくり返し、駒を手に取り戻し、そのおもちゃをいじり倒している。まるで、製品の検分でもしているようだった。
 気に入ってもらえるだろうか。オーエンを見守りながら、賢者は少しだけ不安に思った。
 そのチェスセットは、なんの気なしに眺めていたおもちゃ屋のショーウィンドウに、たまたま飾られていたものだった。細工も意匠もどちらかといえばシンプルなもので、特別豪奢なものではない。家庭で気軽に遊ぶことを目的として作られ、値段もそれほど高くはなかった。
 水のように流れていくはずのショーケースの中で、このボードゲームが意識の端に引っかかったのは、この魔法使いのアミュレット──お守り──が、チェスのピースだったからだ。
 一度だけ、引き出しに山になってしまわれている、種々様々なチェスの駒を見せてもらったことがある。
 そして、その時に彼がもらした、言葉も。
「……アミュレットには、ピースだけで十分だよ」
 白いナイトの駒をつまみながら、オーエンはひとりごとのようにそう口を開いた。膝の上にのせられた盤面が、中途半端に開いたまま途方にくれている。
「盤面があったって、チェスをしてくれる相手なんか、僕にはいない」
 ぎゅう、と、騎士を手袋につつまれた手の中に握りしめて、オーエンが顔を上げた。血の色をした右眼と、奪い取った金色の左眼が賢者へ向けられる。
「──それなら!」
 前のめりになりながら、賢者は言葉を続ける。
「それなら、私と一緒に遊びましょう!」
 勢い込んだ賢者にめずらしく気圧されながら、オーエンは「は?」と眉をひそめた。しかし、それを無視するように賢者はたたみかける。
「そうだ、お茶でもしながらどうですか? 私、淹れてきますよ」
 待っててください、と部屋を飛び出しかけた賢者を、オーエンが引き止める。
「……お茶菓子を、持ってきてよ。胸焼けがして、吐きそうになるくらい甘ったるいやつがいい」
 ──《クーレ・メミニ》
 呪文が唱えられ、ローテーブルと一人掛けのソファが一脚、忽然と現れた。魔法で出されたそれらの家具は、もともと据えられていたソファに腰掛けるオーエンと、向き合うようにして置かれている。
 さらに、部屋の棚に置いてあったティーセットが、ふわふわと漂いながら引き寄せられ、出現したテーブルの上へと並べられる。あっという間の、出来事だった。
「ねえ、突っ立ってないで早くして。それとも、ケルベロスに追いかけられないと、走れない?」
 魔法を呆けたように見ていた賢者を、咎めるようにオーエンがトゲを刺す。
「は、はい、すぐに!」
 はじかれたように返事をして、賢者はオーエンの部屋を飛び出した。
 五階の廊下をあわただしく走り抜け、階段を駆け下りる。その胸は、よろこびで満ち満ちていた。警戒心の強い野良猫が、身体を撫でさせてくれた時のような感動が、あふれそうなほどわき上がってくる。
「──……ッ!」
 階段の踊り場に着地した賢者は、肩をふるわせながら両の拳をグッとにぎりしめた。

 再び足を踏み入れた、オーエンの私室。賢者は申し訳なさそうな顔をしながら、部屋の主へ小さなバスケットを差し出した。
「胸焼けするほど甘いお菓子は、ありませんでした……。でも、ネロがクッキーを分けてくれました!」
 持ち手付きの小さなカゴには、ナフキンが敷かれ、シンプルなクッキーが盛られている。焼きたてではないが、サクサクとした食感を想像させる、いい色をしていた。
「その代わりといってはなんですが、ジャムとはちみつも、渡してくれました。好きなだけ、クッキーに塗ってください」
「賢者様にしては、まあまあかな。許してあげるから、早くちょうだい」
 催促されるまま、ローテーブルへバスケットとジャム、はちみつの瓶を置くと、オーエンは無邪気に顔をほころばせた。つられるように、賢者の口元もゆるむ。
 ネロの料理はおいしいのだ。それは食事だけにとどまらず、お菓子もプロの域である。胸焼けがするほど甘くなくとも「ネロが作った」というだけで、よろこぶ気持ちはよくわかる。
「突っ立ってないで、さっさと座って」
 鼻歌でも歌いそうなオーエンが、賢者を急かしながら指を振った。すると、ひとりでにティーポットが浮かび上がり、並べられたカップへと、紅茶をそそぐ。
「熱いから、冷まさず飲んでね。さあどうぞ、召し上がれ」
「ありがとうございます。でも、冷まさずに飲んだら、舌をやけどしますよね……?」
 来客のために用意されたソファへと腰をおろしながら、一応とばかりに確かめる。オーエンはにこりと笑って、なんでもないことのように答えた。
「うん、口の中がべろべろになる。それとも、なに? 僕が淹れた紅茶は飲めないって言うの?」 
「紅茶を淹れてくれて、本当にうれしいです。ありがとうございます。でも、やけどはしたくないので、すみませんがふーふーさせてください。お願いします」
「僕は、苦しむ賢者様が見たいんだけどな。でも、いいよ。二杯目には、冷めない魔法をかけてあげる」
 冗談に聞こえないことを言い、オーエンは自身のカップに手のひらをかざした。
《クアーレ・モリト》
 呪文がとなえられると、手のひらから降りそそぐシュガーが、どぼどぼと紅茶の海に沈んでいった。
 あきらかに、入れすぎだった。角砂糖にして、三つでは足りない。五つ、もしかするとそれ以上になりそうな勢いだった。
 いくら甘いものが好きといっても、限度がある。──いや、甘党であるのなら、これくらいは普通なのか?
 賢者は思い直した。なぜなら、このオーエンは、クリームをクリームだけでなめるほどの甘党なのだ。ボウルいっぱいのクリームを堪能していた姿を思い出すと、胸焼けがしそうだった。
 自分は角砂糖ひとつで十分──と、テーブルへ目を向けて、気がつく。ローテーブルにはチェスセットと、クッキーが入ったカゴ、ジャムとはちみつの瓶。それからティーポットに、ティーカップとソーサーが二組。シュガーポットらしきものは、どこにも見当たらなかった。
 ふふ、とふくみ笑いが耳をくすぐる。
「どうしたの、賢者様。テーブルなんかをきょろきょろ見て。なにかあった? それとも、なにかがなかったのかな」
 どうやら、シュガーポットがないことを、ホストは把握していたらしい。たしかに、魔法使いであれば自分でシュガーを作って用意ができる。お茶会に砂糖がなくても、どうにでもなるのだ。
「賢者様も、シュガーがほしい?」
「えっ。くれるんですか!」
 言葉尻にかぶせ気味になりながら、尋ねる。オーエンのシュガーは、一度も口にしたことがなかったのだ。北の魔法使いの中でも特に協調性に欠けるオーエンは、中央の国の雑貨店へ卸すためのシュガー作りにも非協力的である。この機会をのがせば、二度と味見ができないかもしれない。
 勢いにおされたのか、オーエンは一瞬目を丸くしたものの、すぐににやついた笑みを浮かべた。
「おねだりしてくれたら、考えてあげる」
 いつも通り、いっそ期待を裏切らない意地悪だった。しかし、賢者は間髪を入れずに「おねだり」をした。
「オーエンが作ったシュガーを、ぜひともいただきたいです。お願いします、恵んでください」
 恥も外聞もなかった。へりくだる程度で貴重なシュガーにありつけるのであれば、おねだりくらいなんてことはない。無理難題を突きつけられるより、よほど簡単なことだった。
「……はあ」
 期待外れの反応に、オーエンはがっかりしたようにため息をついた。
「賢者様は本当に、プライドがないね」
 無造作に持ち上げられた手が、賢者のティーカップの上にかざされる。
《クーレ・メミニ》
 きいん、と高い音が空気をゆらし、カップの上にシュガーが降る。降る。──降る。
「う──うわあ! もう、もう十分です、ありがとうございます!」
「そう?」
 あせる賢者とは反対に、オーエンの態度はのんびりとしたものだった。
 砂糖の雨がやみ、ちらりと表情をうかがうと、オーエンは上機嫌に脚を組みながら、自分の紅茶に口をつけていた。
 賢者も、おそるおそるカップに手をのばす。いつの間にかソーサーに添えられていた銀色のティースプーンを、シュガーが降り注いだ紅茶に沈める。
 案の定、カップの底には砂糖の粒が積もっていた。制止が間に合ったようで、溶け残るほどの量にならかったのは、幸いだろう。それでも、いつも以上に甘いことは間違いなかったが。
 ──ええい、ままよ!
 スプーンをソーサーへ戻し、賢者は一気に紅茶をあおった。まだ少し熱い紅茶が、味蕾を刺激し、喉の奥へと流れていく。
「……甘いですね……かなり……」
「僕がわざわざ作ってあげたシュガーなんだから、心から感謝して味わってね」
 そう言って、オーエンはカップをソーサーへ戻した。賢者よりさらに多くシュガーを入れていたそれは、きっと、舌が麻痺しそうなほど甘ったるいのだろう。少しだけ、彼の健康が心配になった。
「ほら、チェスをするんでしょ。早く準備してよ」
 オーエンは、ティーポットとカップ、クッキーのバスケットを脇によけて、せっついた。
 どうやらかなり機嫌がいいらしい。言葉つきは相変わらずだけれど、まとう空気に、悪意やトゲは感じられない。
 それは、紅茶よりもよっぽど、賢者の胸をあたたかくさせるものだった。

「……基本的なルールは、以上です」
「ねえ、僕を誘っておきながら、チェスのやり方を知らなかったの?」
 賢者が手にするメモを目で示しながら、オーエンが指摘した。そう、賢者はカンニングペーパーを持っていたのだ。
「私がいた国では、チェスより将棋の方が有名だったので、あまりくわしくなくて……」
「憑依? 幽霊が出てくるゲーム?」
「ひょういじゃなくて、しょうぎ、です。チェスと似たゲームなんですよ。でも少しルールが違うので、チェスの遊び方は、昼間にフィガロから聞いておきました」
 実は、賢者の部屋にもチェスセットがある。何代目の賢者が残したものなのかはわからないけれど、自室として案内された時には、すでに机の上に置かれていた。それ以来、ずっとインテリアを続けているのだが。
 そのため、オーエンとチェスで遊ぶことになった場合にそなえて、市場から帰ったあとにルールを尋ねておいたのだ。
「……ふうん。わかったから、さっさとやるよ」
 将棋には興味がわかなかったらしい。オーエンは盤上に並べる前の駒をつまみ上げると、両手を後ろにまわした。「はい」握り込んだ右手と左手が突き出される。
「好きな方を選んでいいよ。特別に、先に選ばせてあげる」
「えっと、じゃあ、こっちで」
 向かって右、手袋につつまれたオーエンの左手を指差す。
「よかったね、賢者様が先攻だよ」
 広げたオーエンの手のひらの上には、白いナイトが乗っていた。
 南の魔法使いから聞いたルールでは、手番を決める際はポーンを使うとのことだった。黒と白のポーンを用意し、白い方を選んだプレイヤーが先攻になるのだ。
 けれど、オーエンは歩兵ではなく騎士のピースを使った。おそらく、それは意識してのことなのだろう。
 アミュレットを見せてもらった時にも、ナイトの駒が多いように見えた。その時は気のせいかと思ったけれど、やはりオーエンにとって「ナイトのピース」は特別なのかもしれない。
 黒い方が僕の、と言いながら、オーエンは夜の色のピースを集める。脇においたカンペを覗き込みながら、盤上へ並べていく姿はどこかあどけない。
 いらない、と断られる可能性を考えていた。そうでなくても、アミュレットになるピースだけがあればいい、と言われるかも、とも。
 けれど、こうして部屋に招き入れてもらい、共にテーブルを囲み、お茶をして、チェスのボードを挟んでいる。押しつけがましいと思われかねなかったプレゼントだったけれど、気に入ってもらえた、と都合よく捉えてもゆるされるのではないだろうか。
 今、おなかのあたりを熱くするこのうれしさを、本当は素直に彼へ伝えたかった。けれど、天邪鬼なオーエンである。きっと、伝えてしまったらこの部屋から追い出されるだろう。チェスのセットも突き返されるかもしれない。
 だから、この気持ちは、胸の中に大事にしまっておくべきなのだ。この世界で得ることができた、なにものにも替えがたい宝物として。
「それじゃあどうぞ、賢者様」
 盤面にきっちりと並べられた、チェスの駒。オーエンは、優雅な所作でそれを示した。賢者は腕まくりをして、オーエンに向いあう。
「やるからには、本気でかかりますからね。覚悟してください」
「へえ、強気だね。チェスなら僕に勝てると思ってるの? 魔法が使えない賢者様じゃ、普通の殺し合いをしたら僕に勝てないもんね」
「殺し合いはしたくないですが、まあ、そんなところです。私がオーエンと対等に戦えることは、あまりないですし。それに、勝負をするからには、手を抜けないですよ。だから、オーエンも手加減なしでやってくださいね」
 挑発的に、言葉をかける。機嫌を損ねるリスクはあったけれど、今ならば、大丈夫だという確信もあった。
「あたりまえでしょ、だれに言ってるの。負けた時のためのハンカチは持ってる? 僕のを貸してあげようか」
 余裕たっぷりに嫌味を返したオーエンは、東の魔法使いのヒースクリフにちょっかいをかけている時よりももっと、楽しそうだった。
「オーエンの方こそ、悔し泣きをしてもしりませんからね……!」
 負けじと返して、賢者は盤面のポーンへ手を伸ばした。

 オーエンが淹れてくれた紅茶と、ネロからのクッキーをお供にした初めてのチェスは、ふけていく夜と同じ速度でゆっくりと進んでいた。
 盤上の戦いは中盤に差しかかり、駒を取ったりとられながら、じりじりと動いている。
「初心者なので、勝っているのか負けているのか、よくわからないですね……。これは、いい勝負なんでしょうか」
 おたがいに、取られたピースの数に大差はない。手駒が減れば、不利であることはわかる。しかし、ルールを教えてもらっただけの初心者には、駒の配置から戦況を判断することはできない。
「僕が勝ってるに決まってる」
「わかるんですか?」
「だって、賢者様のナイトのひとつは、僕のものになってるんだよ」
 そう言って、オーエンはチェスボードから降ろされた、白いナイトを指先でつついた。一方、黒いナイトはひとりがキングを守り、もうひとりは果敢に攻めこむように、盤上の中程にいる。
 ナイトの有無が、勝敗を分けるとはかぎらない。けれど、オーエンにとっては、騎士の駒が残っているということは重要なことらしかった。
 膠着状態。その言葉があてはまるような状況に見えた。どちらかが、なにかを仕掛けなければ、戦況が動かない。
「うーん……」
 長く唸ったあと、賢者は思い切ってクイーンのピースに指をかけた。
 上下左右、斜めにさえも好きなだけ動くことができる、最強の駒。そんな女王を前に出すことは、はたして吉と出るのか、凶と出るのか。
 オーエンは賢者のその一手に、わずかに反応を見せたけれど、無言のまま盤面を見つめた。足を組み、その上に肘をつき、手のひらに顎を乗せて目を伏せた長考の姿は、様になるほどうつくしく見えた。
 血色の薄い頬は青白く、人形や石膏像に近い質感をしている。髪も、肌も、白いのだな、と今さらのように気がついた。白い色の中、瞳だけが、鮮やかな赤の色と輝く金色を持っている。
 魔法使いはみな、整った容姿をしているけれど、このようなうつくしさを持つひとは、元の世界にはいなかった。
 元の世界へ戻ったら、もうこの姿を二度と見ることはできなくなる。それだけじゃない。紅茶を一緒に楽しむことも、チェス盤を挟んで向き合うことも、名前を呼ぶことも、できない。
「──オーエン──」
「──なに?」
 聞き取れらなくても、かまわなかった。長考の邪魔をしないよう、魔法舎の外に満ちる夜と同じくらいそっと呼んだというのに、オーエンは伏せた顔を上げた。
 呼ばれたから応えた、というようなまっさらな表情が、まっすぐに賢者を見据える。
「ねえ、なに? 僕の邪魔がしたいの?」
 黙ったままの賢者に、オーエンがその柳眉をひそめる。
「──あ、えっと、その、邪魔をするつもりはなかったんですけど、オーエンは、私の名前を覚えているかなと、気になりまして」
 しどろもどろで、とりつくろうような、言い訳のような釈明だった。うつくしいと思いながら見つめていたこと、名前を呼んだことが、急にはずかしくなる。
「……ふうん」
 オーエンは、どきりとするほど静かに賢者を見つめたあと、また目を伏せた。
「興味がない」
 そう言うと、オーエンはそっけなく盤面に視線を戻した。その態度に、ほっとすると同時に、頬がゆるむ。意地悪で、気まぐれで、こびない猫のように自由な、彼の在り方が好ましかった。
「私は、絶対に忘れないですよ」
 思わず口をついて出た言葉は、やわらかな響きだった。彼には伝わらなくてもいい。ただ自分がそう思っていることを言っておきたい。そういう気持ちからの、言葉だった。
「ここでの生活は大変なこともありましたけど、楽しくて、きれいで、びっくりして、わくわくして……忘れることなんか、できないです」
 うるさい、と言われないことをいいことに、賢者はひとりごとを続ける。
 エレベーターから始まった、魔法のある見知らぬ世界。つらいことも、危ないこともあったけれど、それ以上に、楽しかったという思い出の方が多い。それは、一年という時間が短く感じられるほど、濃い時間だった。
「でも、魔法使いは長生きだから、私がいたこの時間は、ほんの数日みたいに感じられるんでしょうね」
 何百年と生きる彼らには、一年なんて時間はきっと短い。千年以上を生きている最強の魔法使いなどは、瞬きの内にそばを通り過ぎるもの、と言っていた。
 自分にとっては価値観も世界観も変えるような出来事でも、彼らにとっては、髪を揺らし、肌をなでたそよ風程度の感触でしかない。
 それは、たしかに少しのさびしさを抱かせる。けれど、悲しむようなことではないのだ。
 この部屋には窓がなく、確かめることはできないけれど、きっと夜空には月が浮かんでいるだろう。
 それはこの世界を滅ぼさんとする〈大いなる厄災〉で、自分がここにいる理由でもある。災いをなす月がなければ、自分はここにいなかった。
 そして、一年に一度迎える月との戦いを終えれば、桑染園希はきっとここからいなくなる。役目を終えたとばかりに、あっけなく。
 お別れをする時間があるとは、考えていない。突然連れてこられたのならば、突然帰されたとしても、おかしくはないのだから。
 だから、瞬きの内に通りすぎるものなりに、次へとなにかを残せるようにしてきたつもりだった。
 ──でも。
「忘れてくれて、いいです。その方が、オーエンらしいですから」
 雪に閉ざされた過酷な地で生きてきた、北の魔法使いのあり方は孤高だ。自分の力こそがすべてで、他人を頼らない。
 たとえ賢者だとしても、わずか一年を共にしただけの、異世界の人間のことなど、そんな北の魔法使いの記憶に残ることはないだろう。
「言われなくても、きみのことなんか、すぐに忘れるよ」
「──あ」
 黒い騎士が、白い僧侶を討ち取った。八マス四方の盤上を跳ねるようにして駆けるまわるそのナイトは、頑とした矜恃で生きる、目の前の魔法使いの姿によく似ていた。
「だから、きみにも、元の世界に戻ったら、僕のことを忘れる魔法をかけてあげる」
「──え──」
 ──いま、なんて──?
 薄い唇が弧を描き、裂け目から赤い舌がちらりと覗く。
《クーレ・メミニ》
 白いビショップを手に、オーエンが呪文を唱える。きいん、と耳鳴りのような高い音が部屋の空気をゆらし、光源もなく光がまたたく。それは、魔法が使われた証しだった。
 オーエンは、いま、なんと言った?
 僕のことを、忘れる魔法──?
「ひ──ひどいです、オーエン!」
 思わずソファから立ち上がり責め立てる声は、賢者自身が思う以上に必死な響きをしていた。
「私は、オーエンのことを、ちゃんと覚えていたいのに──忘れちゃうなんて、そんな──」
 形に残るものはなにひとつ持ち出すことができなくても、記憶は、思い出だけは、持って帰ろうとしていたのに。
 中央の国のグランヴェル城のバルコニーで、初めて話したこと。北の国の聖なる祝祭で、首根っこをつかまれおどされたこと。幸福の村で見た、艶やかな舞。奇跡のキャンディアップルを求めた、亡霊との舞踏会。
 それから、紅茶を一緒に飲んで、ふたりでチェスを指していること。
 全部、全部、忘れてしまうなんて、いやだった。
「──あはは!」
 くしゃりと顔を歪めた時だった。腹の底からおかしいとばかりに、オーエンが笑い声をあげた。
「あはは、あはははは! 冗談だよ、賢者様。ふふ、どうしたの? 泣きそうな顔なんかして」
 ソファに背中を預けて、オーエンは笑いころげている。
 ──じょうだん。冗談。
 たっぷりと時間をかけて、その言葉の意味を理解した賢者は、へなへなとソファへ深く身を沈めた。
「よかった……冗談で、よかった……」
 元の世界に戻っても、魔法の効果が続くのかどうかはわからない。けれど、もし魔法がとけなかったとしたら、自分に魔法がかけられていることもわからないのだ。
 その原因である存在自体を、忘れてしまうのだから。
「……そんなに僕のこと、忘れたくないの? そこまで必死になるようなこと?」
 取り乱したことをからかうように、オーエンが顔を覗きこんでくる。
 賢者はよろよろと姿勢を正して、深くうなずいた。
「オーエンのことも、みんなのことも、忘れたくないですよ。せっかく仲良くなれたのに、忘れちゃうなんてさびしいじゃないですか」
 けれど、その回答は、彼がほしいものではなかったようだった。オーエンはすうっと表情を消し、再びチェスボードへ視線を向けた。
「どうせ、いなくなるのに」
 降り始めの、最初の雨粒のように落とされたそのつぶやきに、賢者はどきりとした。
「オ──」
「元の世界に戻ったら、会えなくなるのに、賢者様はさびしくないんだ。さびしくないってことは、僕のことなんて、どうだっていいってことだろ」
「オーエン──」
「会えないのに、覚えていたいなんて、ばかみたい」
 白いスーツを着こなし、すらりとした足を組んだ青年の姿の彼が、幼い子どものように見えた。
 すねたような、迷子なのに意地を張って認めようとしないような。言葉でひとを不安にさせる魔法使いとは思えないほど、無防備に感じられた。
 賢者は、強く首を横にふった。
「これは、私の考えなので、他のひとにもあてはまるわけじゃないです。なので、あくまで私の個人的な考え方として、聞いてください」
 オーエンは、顔を上げない。賢者は続ける。
「私は、会えなくなるから、覚えていたいです。だって、覚えてさえいたら、思い出を振り返るたびに、みんなと一緒にいられるじゃないですか。側にオーエンがいなくても、心の中にいる、というか……」
 真っ向から気はずかしいことを言っていると自覚すると、頬が熱を帯び始める。けれど、それは間違いのない本心でもあった。
 別れが必然であるならば、どれだけ抗っても、逃れることはできないだろう。ならば、それを自分がどう受け取るかなのだ。
 さびしくないわけではない。元の世界を恋しく思うくらいに、この世界を、この世界で生きる魔法使いたちのことを、好きになっているのだから。
 そう、さびしいのは、相手のことを好きだからなのだ。好きだから、別れがたく、離れがたい。
 それならば、さびしさが大きければ大きいほど、好きだという証拠にもなるのではないか。そう思えば、この胸の内の奥にあるさびしさも、受け止めることができる。
「えっと、だから……さびしくても、みんなのこと、ここでの出来事、全部、覚えていたいんです」
 忘れないという意思は伝わらなくていいと思っていた。それなのに、覚えていたいという願いは、きちんと伝わってほしいなんて、どうして都合のいい心だろう。
 オーエンは黙ったまま、紅茶にもクッキーにも手をつけず、手のひらの中のビショップを見つめている。
 彼が今、なにを思い、感じ、考えているのかは、わからない。ただ、彼は姿を消さず、賢者を部屋からも追いださないことだけが、たしかなことだった。
「……賢者様らしい、能天気な考えだね」
 居心地の悪さばかりが積もっていく沈黙の末に、オーエンは顔を上げた。
「頭の中に、花でも咲いてそう」
「そうですよね、ちょっと、いやだいぶ、はずかしいです……あはは」
 頬や耳が、熱を持っているのがわかる。団扇かなにかがあれば、扇ぎたいほどだった。
「そんなに忘れたくないなら、せいぜい覚えておく努力でもすれば」
 慣れた嫌味っぽい口調で、風が通ったかのように、部屋の空気が軽くなる。手の中でころがしていた僧侶の駒を脇において、オーエンはクッキーへと手をのばす。
「覚えておく努力、ですか。そうですね……そうだ、ルチルみたいに小説にしてみるのはどうでしょう。うまく書けるかは、わからないですけど。でも、日記とか、エッセイみたいな感じでもいいですよね」
 大層なものにできなくてもいい。書き留め、くり返し振り返り、自分が忘れないようにできればいいのだ。
「どうせなら、絵本にしてよ。僕も読みたい」
 クッキーへ盛るようにジャムを塗りたくりながら、オーエンはそう要求した。驚きで、ぽかりと口が開きっぱなしになる。
 そして、うれしさと、抱くにはまだ早いさびしさで、泣きたいくらいに胸が苦しくなった。
 意地悪な要求や、あまいものを強請られる以外に、こんな望みを言われたことがあっただろうか。
 元の世界へ戻ったら、描いた絵本を読ませることもできないというのに。この魔法使いは、そのことに気付いているのだろうか。
 でも、そんなこと、どちらでもよかった。たとえ叶うことはないのだとしても、さよならのあとに続く「約束」のようなものだと思えば、それだけで、きっと自分は大丈夫だ。
 今日は本当に、うれしくて、驚くようなことばかり起きている。銀色の、やわらかな毛並みにほんの指先でふれられたことは、絶対に忘れることはないだろう。
「オーエン」
「なに?」
「私、オーエンと仲良くなれて、よかったです! 部屋に入れてくれて、紅茶を一緒に飲んで、こうしてチェスをできるくらい仲良くなれて、本当によかったです。ありがとうございます!」
 あふれそうな感情をぐっと押さえ込むと、わざとらしいくらいに明るい声が出た。
 この魔法使いの前では、笑っていたかった。
「……なんなの、急に。僕はべつに、お前なんかと仲良くなったつもりはないよ。それより、チェス。そっちの番なんだから早くして」
 いつまで待たせるの。ぷいと視線をそらしながら、天邪鬼な魔法使いは、ジャムの盛られたクッキーをほおばった。



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