普段ならにぎやかな会話が飛び交っている朝食前の魔法舎の食堂は、少し緊張した空気で満ちていた。二十二名も集れば騒がしくもなりそうなものだけれど、みな声を押さえ、口数も少ない。
 中央の国の魔法使いたちは、神妙な面持ちを浮かべ、その隣に固まっている南の国の魔法使いは、不安げなミチルを他の三人がなだめている。
 東の国の魔法使いはいつも通り静かに席につき、常に明るい西の魔法使いも、今日は大人しかった。北の魔法使いのミスラ、オーエン、ブラッドリーは、各々好きな場所に陣取り退屈そうにしている。
 大きく取られた窓から見える空が、どんよりとした灰色をしているのも、余計に雰囲気を重たいものにしているのかもしれない。
 そわそわと賢者が視線を向けた窓の外は、いまにも雨が降り出しそうだった。
「全員揃っておるな」
 椅子には腰をかけず、三卓の長テーブルを見渡せる位置に立ったスノウとホワイトが、賢者とその魔法使いたちに目を配り、うなずいた。
 今、食堂には魔法舎で過ごす賢者とその魔法使い、二十二名が集まっている。話があるからと、全員集合するように双子から言われていたのだ。
 赤ワイン色のビロードが張られた椅子に座りながら、魔法使いたちの賢者である桑染園希も、緊張を隠せずにいた。
「皆に集まってもらったのは、間近に迫った〈大いなる厄災〉との戦いの話をするためじゃ」
 ──〈大いなる厄災〉という言葉に、空気がさらに張り詰める。
 この世界は、厄災をもたらさんと一年に一度近づいてくる、月の脅威にさらされている。この魔法舎で暮らす二十一名の魔法使いは、その〈大いなる厄災〉と呼ばれる月と戦う役目を与えられているのだ。
「我らが呼び出すまでもなく、そなたらも薄々感づいておったじゃろう」
「最近のそなたらは、落ち着きがなかったからのう」
 厄災との戦いに選ばれた特別な魔法使いでなくとも、魔法使いであるならば、厄災が近づくと多少なりとも落ち着かない気持ちになるのだという。
 気が昂り、力が漲り、普段よりも魔力が強くなるのだと、年長の魔法使いたちは言っていた。中には、迫る厄災の強さを感じとる者もいるそうだ。
 しかし、体調を崩したり、眠れなくなったりすることもあるそうで、実際、数日前にはミチルが熱を出していた。
 賢者の隣に座る料理人のネロはめずらしく調味料を間違えたというし、仕立て屋のクロエは裁縫ミスで服を作り直していた。常ならば、滅多にないことだった。
 他にも、肉体派の元騎士団長カインと羊飼いのレノックスは、力を持て余しているのか、これまで以上に筋トレやランニングに精を出しているのを見かけている。
 そして、厄災の影響は賢者自身にも及んでいるようで、桑染園希は昨晩の夕食の食器の片付け中に、グラスを取り落として割っている。
「去年の厄災は、これまでの厄災とは様子が違っておった」
「例年の厄災であれば、強さに程度はあれど、大きな被害を出さずに追い返せていたのじゃが……」
 双子のスノウとホワイトは、揃って目を伏せた。
「一年前の戦いでは、少なくない犠牲が出てしまった」
 空気が、重さを増した気がした。
 去年訪れた厄災は、これまでにない猛威をふるい、二十一名の魔法使いのうち、半数にも及ぶ十名が命を落としている。南の魔法使いは全滅し、東の魔法使いのファウストは、仲間のヒースクリフを庇って死にかけた。
 その戦いの直後に桑染園希はこの世界へ呼び出され、選ばれた魔法使いたちと世界を救う「賢者」となったのだ。
 さらに、これまでとは違っていた厄災は、生き延びた魔法使いたちに不思議な傷も残していった。
 夜になると、オズは魔法が使えなくなり、スノウとホワイトはひとつの絵画に閉じ込めらる。
 ミスラは何をしても眠れなくなり、ファウストは見ている夢が幻影となって漏れ出すようになった。
 カインは触れるまでひとの姿が見えないし、ブラッドリーはくしゃみをすると別の場所へ移動してしまう。
 オーエンは幼い別人格が現れ、ヒースクリフは黒いヒョウの姿に変わるのだという。
 シャイロックの心臓は文字通り燃え、ムルは砕けた魂の欠片たちが実体化する。
 比較的対処がしやすいものから、苦しみを伴うものまで、その傷は様々だった。
「今回の厄災が、どれほどの力を持っているかは未知数じゃ」
 最年長の魔法使いは、表情をゆるめることなく続ける。
「容易く追い返せるのか、それとも、また仲間を失ってしまうのか……」
「それは、厄災と戦ってみないことにはわからぬ」
「──だが」
 そっくりの顔をしたスノウとホワイトが、声を揃えて賢者に視線を移した。つられるように、他の魔法使いたちも賢者へと目を向ける。
 緊張も相まって、動揺する彼女に向けて、かわいらしい双子はにっこりと笑って見せた。とびきりの、笑顔だった。
「今年の賢者の魔法使いたちも、これまでとは一味違うのじゃ!」
「この魔法舎で生活を共にし、皆で絆を深めてきたのじゃ!」
 これまでの賢者の魔法使いたちは、厄災との戦いが近づいてきた時にだけ、ここへ集まっていた。一昨年までの厄災は、強さに大なり小なりあれど、問題なく追い返せるものだったからだ。
 しかし、一年前の厄災はそうではなかった。十人もの命を奪った厄災相手に、果たしてこれまで通りのやり方で通用するのかはわからない。厄介な傷によって、存分に力を奮えなくなった魔法使いもいるのだから。
 厄災はもはや、慢心や油断をしながら戦える相手ではなくなっている。
 そして、その対策として考えられたのが、賢者の魔法使いたち全員で力を合わせて厄災へ挑む、ということだった。
 二十一人の魔法使いは、この魔法舎で共同生活をしながら、来るべき次の戦いに向け、訓練や厄災の影響と思われる異変を解決してきた。一年をかけて「力を合わせて戦うこと」を学んできたのだ。
 協力、協調と口で言うのは簡単だが、実際はそう容易いことではなかった。振り回され、悩まされることも──その主な原因は、個人主義で血の気の多い北の魔法使いだったけれど──少なくなかった。中には命に関わるような、危険な任務もあった。
 けれど、乗り越えることができたのもまた、彼らがいてくれたからなのだ。
 賢者と呼ばれても、桑染園希はただの人間である。戦い、異変を解決するのは、いつも矢面に立つ彼ら魔法使いたちだ。
 守られながら、見守ることしかできないことを歯がゆく思ったことはある。けれど、自分の無力を嘆いても、魔法が使えるようにはならない。
 だから桑染園希は、人間である自分ができることを、精一杯してきたつもりだった。
 彼らの役に立ちたくて、彼らのことをもっと知りたくて、彼らの友達になりたいと思ってやってきた。それを今、認められている。
「備えはしてきたのじゃ」
「必要以上に恐れることはない」
「これまで賢者とやってきた、訓練の成果を見せるだけじゃ!」
 力強く言った双子が、再び賢者に目を向けた。はちみつ色のやさしい眼差しに、肩の力がゆるんでいくのがわかる。
 視線を周りに向けると、他の魔法使いたちも、同じようにやわらかな視線を投げかけていた。
 ああ、やっぱり、自分のやってきたことは無駄じゃなかったんだ──。
 てんでばらばら、調和も連携も考えられなかった、魔法使いたち。そんな彼らが──彼らと──ここまでこれたことを思うと、胸の奥深くから熱いものが湧き上がってくる。
「賢者ちゃんから、何か一言ある?」
「えっ」
「ありがたいお言葉、聞きたいなー!」
 キャッキャとはしゃぐ双子に「聞きたい!」「私も賢者様からのお言葉をいただきたいです」と他の者たちの声が続く。
 素直に求められては、断れない。スノウとホワイトの間に立たされた賢者は、選ばれた魔法使いたちを見回し、ゆっくりと口を開いた。
「私がこの世界に呼ばれて、そろそろ一年が経ちます。正直に言うと、しばらくの間はやっぱり夢じゃないかと思っていましたし、どうして私が、ともずっと考えていました」
 平々凡々、特別な才能など持っていない。そんな自分が世界を救う「賢者」だなんて言われても、すぐに納得できたわけではない。
「でも、この世界のことを何も知らない私をみなさんが受け入れてくれたおかげで、ここまでやってこれました。至らないところもたくさんあったと思います。でも、みなさんが素晴らしい魔法使いであることは、私が一番よくわかっています」
 深く息を吸い、仲間であり、友達でもある魔法使いたちをしっかりと見据える。
「だから、きっと、大丈夫です。私はここにいるみなさん誰一人として欠かすことなく、今度の厄災を追い払えると信じています。だから──だから、みなさんも、自分の力を信じてください」
 魔法は心で使うもの。そう聞いている。それならば、信じる心はきっと強い魔法になるだろう。
「私は魔法が使えませんが、私が賢者であるなら、その賢者の力も心で使うものなんじゃないかなと、思っています」
 魔法が使えない自分だけが使える、たった一つの「魔法」。
「私は、みなさんのことを、心から信じています。──一緒に、厄災に勝利しましょう!」
 一呼吸の間のあと、食堂は拍手で沸いた。
「あんたの期待に応えないとな!」
「すっごく感動しちゃった! 俺、がんばるね!」
「賢者様にそこまで言われたら、フィガロ先生も本気を出さないといけないかな」
「オレに任せろ」
 次々に投げかけられる言葉は、自信に満ちたものだった。そんな中、ミスラが呆れたように口を開いた。
「なに格好つけてるんですか。魔法も使えなくて弱いんですから、賢者様は大人しくしていてください。あなたまで守ってられませんよ」
 北の魔法使いらしい物言いに、賢者は笑った。
 茶化しているつもりも、他意もないこともいまではよくわかっている。嫌味でもなんでもなく、ただの人間である賢者を、ミスラなりに心配してくれているのだ。
「そうだよ、賢者様。北の国に放り出されただけで死にかけるきみに、何ができるの」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、オーエンが便乗する。北の魔法使いたちの先生役を担っている両脇の双子から、ため息がもれた。「まったく、うちの子たちときたら……」「空気を読まない子たちじゃのう……」
「賢者様がおねだりしてくれたら、僕が厄災から守ってあげるよ。ほら、言ってごらん『守ってください、お願いします』って」
「──不要だ」
 楽しげなオーエンに水を差したのは、中央の魔法使いのオズだった。
「……僕と賢者様が話してるんだ、口を挟まないでくれる」
 不機嫌を隠さないオーエンが、低い声でオズに言い返す。しかし、世界最強の魔法使いが動じることはなかった。
「賢者は私と共に行動する」
「──は?」
「オズの不思議な傷じゃ」
「オズは夜に魔法が使えなくなるじゃろ」
 賢者の両隣の双子が、口下手な弟子の代わりに説明をする。
「当日の動きについては、この後に各国の先生役たちと話してまとめるつもりじゃったが、オズと賢者は一緒に行動してもらうことになっておる」
「オズの力なくして、厄災を迎撃することはかなわん。しかし、今のオズは夜に魔法が使えんからのう。賢者の力が必要なんじゃ」
 そう、この世で一番強い魔法使いは、厄災の傷によって夜になると魔法を取り上げられてしまう。よりにもよって、厄災がやってくるその時に、オズの力は封じられてしまうのだ。けれど、その厄介な傷を無効にする方法はある。手を握ることだ。
 それは、まだここでの共同生活が始まる前のことだった。
 叙任式の直前に、厄災のもたらした異変によって甦ったトビカゲリを倒そうとした時だった。夜にもかかわらず、オズは魔法を使った。夜に強い魔法を使うと眠ってしまうはずなのに、オズと手を取り合っていたその時は、魔法が使えたのだ。
 眠れないミスラを寝かしつける時も同じだった。手を握ってやると、不思議と眠りにつけるのだ。
 仕組みはわからない。けれど、それはたしかだった。
「妥当な判断だ」
 南の魔法使いの先生役を務める、フィガロが双子に同意した。
「いくら俺たちが力を合わせて戦う訓練をしてきたといっても、オズの力なしに厄災に挑むのは危険だよ。今年の厄災が、一昨年までの弱い厄災に戻っている保証もないんだからね。オズは、なんといっても世界最強の魔法使いだ。夜でも戦えるように、賢者様にはオズの手をしっかり握っててもらわないと」
 最後は茶化すような口調だった。
「手を握るなんて、ロマンチックだね」
「なんだか、ドキドキしちゃう……!」
 西の師弟が、恋話をする女子高生のようにはしゃぐ。それに反して、オーエンはますます機嫌を悪くした。
「あっそう。じゃあ、好きにすれば」
「あ、オーエン……!」
 一言投げつけると、オーエンは姿を消してしまった。引かれた椅子が、そのままそこに残っている。
「まったく、北の魔法使いは勝手だな」
 ファウストがため息をつき、それにつられたように場の空気がゆるんでいく。
「話は終わりですか? 終わりましたよね。じゃあ厄災に備えて、俺は寝ます。行きますよ、賢者様」
「え、あ、ちょ、ちょっと待ってください、ミスラ……!」
 さっと立ち上がったミスラが、賢者の腕をつかんで出口へと引っ張った。締めのタイミングを逃した食堂は、すっかりお開きという雰囲気になっていた。
「オーエンちゃんもミスラちゃんも、困った子じゃ」
「少しは協調性が身についたと思ったんじゃが、仕方のない子じゃ」
 呆れたようにつぶやいたスノウとホワイトが、残った魔法使いたちへ結びの言葉を述べる。
「とにかく、そんな感じでがんばるのじゃ! えい、えい、おー!」
「えい、えい、おー?」
 つられたように、若い魔法使いたちが、同じ言葉を繰り返している。
「適当すぎないか……?」
「こういう場が設けられただけ、いいだろう。去年はなかった」
 戸惑うネロに、ファウストは立ち上がりながら冷静に返した。

◆   ◆

 強い風が吹き、猫が騒ぐ夜に、桑染園希はこの世界へとやって来た。世界を救う賢者として呼ばれた日は、満月がいつもより大きく、明るい夜だった。
 園希は、魔法舎の中庭から暗幕に包まれた空を見上げた。元の世界のものより、ひと回りもふた回りも大きな月が、そこに浮かんでいる。この世界で見上げ続けた月でも、ここまで大きく見えているのは初めてのことだった。ずっと眺めていると、引っ張られ、空へと落っこちてしまいそうだった。
 質量を持つ物体は、互いに引き寄せられるという。海の満ち引きが月の引力によるものならば、今、月を見上げる桑染園希へその力が働かないと言えるだろうか。
 ざわつく胸を落ち着けるように、視線を空から下ろす。魔力を持たない人間でも、確信的な予感があった。今夜、この美しい月が世界へと厄災をもたらす。
「ねえ、賢者様。今、ドキドキしてる? ワクワクしてる? それともビクビク?」
 この日のためだけにクロエが仕立てた、特別な衣装を纏ったムルが、くるりと宙返りをして尋ねた。
「オレはね、ドキドキしてて、ワクワクしてる!  ビクビクはしてない。だって、俺の愛しい厄災がこんなに近くに来てくれるのは、一年でたった一回なんだから!」
 声を弾ませながら、月へ恋する魔法使いは両手を広げた。
「まったく……あなたはこんな時だっていうのに、のんきなものですね」
 呆れたようにため息をついたのは、ムルの友人で、保護者で、飼い主のようなシャイロックだった。
「でも、ムルがいつも通りだと、安心しますよ。少し緊張していたので」
「賢者様も? 俺も、緊張してもうドキドキ! 心臓が口から飛び出しちゃいそうだよ」
 賢者へと同意を見せたのは、クロエだった。二十一名の魔法使いと一名の賢者のために彼が仕立てた、揃いの服の胸元に手を当てている。この若い青年が賢者の魔法使いとして厄災と戦うのは、これが初めてだった。
「心臓が口から飛び出すなんて、大変だ。もう一度飲み込めば、元に戻るかな」
 真に受けてズレた心配を見せるのは、クロエの師匠のラスティカである。気の抜けるとぼけた反応に、明るい笑いが広がる。どんな出来事も、状況も楽しもうとする西の国らしさに、肩の力が抜けるのがわかった。
「ありがとうございます、みなさん。くれぐれも、無理はせず、気をつけてくださいね」
 居住まいを正して、賢者は深く頭を下げた。
「賢者の魔法使いたちへの激励は、私たちが最後ですか?」
 ゆったりとパイプを取り出したシャイロックへ、首を横に振る。
「オーエンが、まだです。どこにも見当たらなくて……。屋根の上にでもいるんでしょうか」
 魔法舎の、高い屋根を見上げる。園希は、厄災との戦いが始まる前に、魔法使いたちへ声をかけていたのだ。
 シャイロックは激励という言葉を使ったけれど、桑染園希は、それほど大層なことをしているつもりではなかった。ただ〈大いなる厄災〉との戦いの前に、一人一人と話がしたかっただけなのだ。
 ここまで来るのに、様々なことがあった。叙任式に、共同生活の始まり。各国合同での訓練に、厄災による世界の異変の解決。和平会議の式典の裏側で起きた事件では、賢者自身も危険にさらされた。
 たった一年ではあるけれど、振り返ってみれば濃密な日々だった。不安や戸惑いがなかったわけではない。けれど、彼らの手を取ったことに、園希は微塵の後悔も抱いてはいなかった。
「まだ、少し時間がありますよね」
 空へと目を向ける。月光を降り注ぐ月は、まだ静かにそこにあるだけに見えた。
「オーエンを探してみます」
「それなら、僕がお付き合いしますよ」
 ラスティカが、紳士的に名乗り出る。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「ええ、夜だし、こんな時だし、賢者様一人で行動するのは危ないよ」
 心配するクロエに、笑顔を向ける。友達になりたい、と言ってくれたこの魔法使いは、桑染園希にいつだって親身だった。
「多分、そんなに遠くにはいないんじゃないかなと、思うんです。それに、誰かが側にいたら、顔を見せてくれないような気がして」
「ああ、彼は恥ずかしがり屋なところがありますからね」
 本人に聞かれたら機嫌を損ねそうなことを、ラスティカはおっとりと言った。賢者は苦笑を浮かべながら、言わんとしていることはわかるような気がした。オーエンという魔法使いは、天邪鬼なのだ。
「裏の森の入り口の前まで行ってみて、いないようだったら、すぐ戻ってきます」
 さすがに、夜の森へ一人で踏み入る勇気はない。厄災との戦いが始まる時間もわからないのだから、すぐにオズの元へ戻れるようにしておく必要もあった。
「それなら、俺が明かりをあげる!」
 ──《エアニュー・ランブル》!
 ムルが魔道具の指輪をはめた指を指揮者のように振ると、賢者を取り囲むように、小さな花火が爆ぜた。
「わあ、きれい……」
 光の花は瞬いたかと思えば霧散し、またパチリと爆ぜる。線香花火のように、控えめな火花だった。
「なるべく早く、お戻りになってくださいね。あなたの賢者たちが、待っていますから」
 流し目で視線を送り、シャイロックが微笑む。月の光を一身に浴びているからか、艶っぽさが増して感じられた。一年を共に過ごしても、この色気にはなかなか慣れることができないままだ。
「気をつけてね。何かあれば俺たちを呼んで! すぐに飛んで駆けつけるから」
「ありがとうございます。では、また」
 クロエの言葉に促されるように、西の魔法使いたちから離れる。
 外灯もない、異世界の夜だが、一人で歩くのが怖くはなかった。ムルの魔法が、瞬く星々のような花火が闇を照らすからだった。この明かりがある限り、何も心配するようなことはないと、心から信じられる。
 ざあ、と風が吹き抜けた。賢者の髪を揺らし、長いローブがはためく。ムルが灯した花火は、強い風でもかき消えることはなかった。
 月光を振りまく〈大いなる厄災〉の光に比べると、ささやかなものだ。けれど、光を放ちながら爆ぜるこのささやかな火花ほど、まばゆいものはないと思えた。

 魔法舎の裏手に広がる、森の入り口。そこまで足を伸ばしても、桑染園希が探している人物は見つけられなかった。群れることを好まない北の魔法使いではあるが、一体どこにいるというのか。
 大いなる厄災との戦いを前に、逃げたということはないはずだ。賢者となった桑染園希が新たに呼んだ魔法使いとは違い、オーエンの務めは長い。
 やはり、屋根の上にでもいるのだろうか。
 ──皆の元に戻り、屋上を見てもらおう。くるりと、踵を返した時だった。
「──……!」
 音も気配もなく、真後ろに人影があった。ぶつかりそうなほど間近にあったそれに、園希は声も出ないほどに驚いた。飛び跳ねるほどのその反応に、影はくすくすと笑い声をこぼす。探していた、オーエンだった。
「あはは、おもしろい反応。魂が出ちゃいそうなくらい、びっくりした?」
 至極楽しそうに笑う、死人のような魔法使いの姿に、安堵のため息が出る。
「言葉通り、魂消ましたよ……ああ、びっくりした」
 もしかすると、西の魔法使いと話している時からずっと、背後に潜んでいたのかもしれない。そして、賢者がひとりになったタイミングを見計らい、おどかしに姿を現したのだ。この魔法使いのしそうなことだった。
「ところで賢者様。こんなところにひとりぼっちで、どうしたの? 戦うのがこわくなった? みんなを置いて、ひとりだけ逃げ出そうとしてた?」
 オーエンが身をかがめ、賢者の顔をのぞき込む。左右で違う色の瞳が、夜の中できらめいた。灰色の髪が、月光を受けて銀色に透けて見えた。
「逃げたりしないですよ。オーエンを、探していたんです」
 赤と金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。ほしい反応ではなかったのか、オーエンは気を削がれたように、ぷいと目を逸らした。
「少し、お話をしませんか?」
「……こんな時に、何を話すの。これから厄災と戦うっていうのに、余裕だね」
「緊張しているので、おしゃべりをして気をまぎらわせたいんです」
「ふうん……。それなら、森の中で、ゆっくりお話をしようか」
 オーエンが、気を取り直したようにニヤニヤと笑みを浮かべる。闇の濃い森を、賢者が怖がると思っているのだ。──けれど。
「オーエンが、隣にいてくれるなら、いいですよ」
 桑染園希は、あっさりとその提案を受け入れた。
「でも、そんなに長くおしゃべりする時間はないので、手前の方までですけど……オーエン?」
 森へ足を向けた賢者が、立ち止まったままのオーエンを振り返る。彼は、じっと園希の方を見つめていた。
「……怖いんじゃないの」
「厄災ですか? 厄災と戦うのは、怖いですよ。私がいた元の世界は、平和だったので」
「じゃあ、暗いのとかは。怖くないの」
「ムルが魔法をかけてくれたので、それほど怖くないですね。ほら、きらきらして、きれいですよ」
 爆ぜる小さな花火を見せるように、手を広げる。
「夜の森は、何が出るかわからないだろ」
「そうですね、でも狼とか熊とか、猛獣はいないですし。蛇とか虫はいると思いますけど」
「厄災は」
「厄災は……そうですね、厄災と戦うのは、少し、怖いです」
 命を失うかもしれない戦いを、怖くないと言うことはできない。怖いか怖くないかと訊かれれば、それはやはり前者だった。
「でも、大丈夫だと、思ってます」
「どうして」
 簡単なことだった。
「みなさんがいるからです」
 ざあ、と森が鳴る。月が近く、風が強く、心がざわつく夜でも、背筋を伸ばして前を向いて立つことができるのは、二十一名の魔法使いがいてくれるからだ。
 戦うことが怖いことと、皆を信じることはそれぞれ別の感情で、相反することではない。怖いけれど、大丈夫だと信じているのだ。
 顔をしかめて質問を止めたオーエンに、笑いかける。
「オーエンがいてくれるから、大丈夫だと信じられるんですよ」
 本当におどかすつもりなら、ムルの魔法を消し、今すぐ姿を隠してしまえばいいのだ。けれど、オーエンはここにいる。それがどれだけ心強いのか、この魔法使いは知らないのだ。
「……僕にそんなこと言えるのは、おまえくらいだよ」
「これでも一応、みなさんの賢者なので」
 きりりと返せば、オーエンはうんざりしたようにため息をついた。けれど、その眼も口元もやわらかなものに見える。
「みんなのところに、戻りましょうか」
 促すと、素直にオーエンは隣へ並んだ。強い夜風にふたりして髪を遊ばせながら、ゆっくりと歩く。これから世界を守るための戦いを迎えるというのに、賢者とその魔法使いのまわりに、穏やかな空気が漂う。
「たしか、オーエンはカインと一緒ですよね」
 この戦いでは、二十一名の魔法使いたちの相性を考えて、国を問わずふたり以上で行動するように決めている。オーエンとのペアに自ら名乗り出たのは、カインだった。
 オーエンが「飼っている」ケルベロスは強力であるが、他の者ではコントロールのしようがない。トランクに押し込められている恨みで、オーエンさえも襲うことがあるほどなのだ。誰彼構わず襲ってもおかしくない魔物を操る仲間と、共に行動をするのは危険も伴う。
 ひとりでいい、そのほうが好きにやれる、と言ったオーエンに、待ったをかけたのが、かの騎士である。
「騎士様も、ばかだよね。僕と一緒に組むなんてさ……命を惜しいと思わない、愚か者だよ」
「そうでしょうか。私は、カインが立候補してくれてよかったなと思っていますよ」
 五カ国和平会議の前に起きた、ある事件。公にはせず、賢者とその魔法使いだけの秘密としたその出来事の際に、カインはオーエンに殺されかけたのだという。事件の首謀者に囚われ、賢者はその場を見ていないけれど、医者であるフィガロが駆けつけるのが遅ければ、石になっていたと聞いている。
 ふたりの間に、何があったのか桑染園希は知らない。聞くつもりもなかった。けれど、そこがなにかしらの転換点になったのであろうことは、なんとなく感じていた。
 みなの賢者であるのならば、詳細を知っておくべきなのかもしれない。けれど、その後のオーエンとカインに、わだかまりのようなものは感じられなかった。当事者のあいだに気にするようなものがないのであれば、きっと立ち入る必要はないのだ。
「気をつけてくださいね」
「誰に言ってるの? それは、騎士様に言うことでしょ。僕は前の厄災との戦いだって、生き残ってるんだ。気をつけるのは、騎士様みたいに百年も生きていない若い魔法使いや、賢者様のほうでしょ」
 小馬鹿にしたように、オーエンは鼻で笑った。一見高慢な態度には見えるけれど、そうではない。北の国で何百年と生きている魔法使いとしての、自負だ。
「それもそうですね。それなら、オーエン」
「なに」
「私を、守ってください」
 隣を歩くオーエンが、賢者へと視線を向けて、目を見開いた。刹那の、無防備な表情だった。
「……オズと一緒なんだろ。守って欲しいなら、僕じゃなくて、オズに言えよ」
 すぐにしかめっ面で塗り固めたオーエンが、ぶっすりとした声をあげた。もう、視線はそらされている。
「そうですね、たしかに私はオズと一緒に行動しますし、オズならきっと、最後まで守りきってくれます」
「それなら──」
「でも、オーエンに守ってもらいたいんです。オーエンが、いいんです」
 立ち止まり、オーエンを真っ直ぐに見つめる。人気のない魔法舎の外れは、風音と、二人の声しか聞こえるものはない。
 賢者の一歩先で立ち止まったオーエンが、振り返る。月光を受けた血とフリージアの色の瞳が、園希を見つめ返した。
 じっと黙する魔法使いに、賢者が繰り返す。
「それに、オーエンも言ってたじゃないですか」
 決起集会ともいえる日に、この魔法使いは煽るようにして言ったのだ。「おねだりしたら、守ってあげる」と。
「はじめて夢の森に行った時みたいに、私を守ってくれませんか、オーエン」
「──僕に、約束をさせたいの」
 返事は、ハッとするほど静かな声だった。
「そんなつもりは……! でも、約束になってしまうのなら、このお願いはなしにします。忘れてください」
 魔法使いにとって、約束というものはとても重い意味を持つ。交わした約束を違えた時、その魔力が失われるからだ。だから、魔法使いは約束をしない。
「わがままを言って、すみませんでした。もし怪我とかしたら、ちゃんとフィガロを頼ってくださいね。オーエンなら大丈夫だと思いますが、くれぐれも無理は──」
「──代償をくれるなら、いいよ」
「──え?」
「約束はしないけど、代償をくれるなら、守ってあげる」
「……え?」
 ぽかりと口を開けて、賢者はオーエンを見上げた。
「はは、間抜け面。ほら、僕に守ってもらうために、賢者様は何をくれるの?」
 覆いかぶさるように、ずいと身を乗り出して、オーエンが目を細める。喜色に満ちた表情だった。
「あ、ありがとうございます! えっと、そうですね……オーエンは、何が欲しいですか?」
「腕」
 間髪入れずに、北の魔法使いは答えた。
「う、腕……?」
「そう。賢者様の、腕。ふたつあるんだから、ひとつくらいいいでしょ? もいで、ちょうだい」
「いえいえいえ、それは無理です! 私が叶えてあげられることでお願いします……!」
 物騒な要求に、賢者はぶんぶんと首を横に振った。揺れる髪にあおられ、まわりで瞬く火花が散る。
「つまんないの。じゃあ、賢者様が考えてよ。僕が納得する、僕が喜ぶものを、僕のために考えて、僕だけにちょうだい」
「それは……かなり難しい要望ですね……」
 すぐに思いつくものは、甘いものだ。けれど、ありきたりすぎるように思えた。もっと意外性のある、普段とは違う特別なものでなければ、納得してはもらえないだろう。対価が必要とはいえ、この魔法使いが進んで願いを聞くと言うのだから。
「うーん……」
「ふふ」
 腕を組んで悩む賢者に、オーエンは楽しげに笑いをこぼす。
 ──《クアーレ・モリト》
 不意に呪文が唱えらた。ムルの魔法の花火を押し除けるように、賢者の身体を細かな光の粒が包む。
「あ……」
 幻想的な、まさしく魔法の光が闇に溶けると、オーエンはにっこりと微笑んで見せた。
「ああ、楽しみだな。賢者様は、僕に何をくれるんだろう」
「えっと、いろいろ考えておきます! 期待に添えられるかどうかわかりませんが……でも、気に入らなかったからって、腕をもいだりはしないでくださいね……?」
「さあ、どうだろう? それは賢者様のがんばり次第じゃないの」
「ぜ、善処します!」
 気概を見せるように拳を握った時、魔法舎の方から賢者を呼ぶ声が聞こえた。
「賢者様ー!」
「どーこー!」
「ムルと、クロエだ」
 気がつけば、園希のまわりで弾けていた火花が、消えている。オーエンの魔法によって、打ち消されたのだろう。それに気がついたムルとクロエが、賢者を探しに来たのだ。
「西の魔法使いはうるさいなあ……。それじゃあ、せいぜいオズの足手まといになってね、賢者様。僕はもう行くから」
 にぎやかな空気から逃げるように、姿を消そうとするオーエンに、園希はあわてて言葉をかけた。
「オーエン! ありがとうございます!」
 姿を闇に溶かす直前、魔法使いはとびきりの笑顔を浮かべて見せた。



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