くすんだ真鍮のドアノッカーを鳴らすと、扉の向こうで慌ただしく気配が動いた。扉が開かれるのを待ちながら、訪問者であるフィガロは吐息混じりの笑みを浮かべた。己を出迎える者が誰であるか、姿を見るまでもなくわかっているのだ。
「──スノウ様、ホワイトさ、ま──……」
内側に開いたドアの向こう。フィガロの姿を認めた途端、明るい声が尻すぼみになり、凍りついた。それは、この北の国が厳しい寒さの中にあるせいではなかった。
「残念、俺だよ」
しんしんと静かに降り続ける雪を背に、出迎えに現れた魔女へフィガロが笑みを向ける。彼女はやや顔色を青ざめさせながら、唇を震わせた。
「ねえ、中に入れてくれないかな。こんなところで立ち尽くしていたら、俺でも凍えてしまうよ」
「あ、は、はい……! どうぞ、フィガロ様」
魔女──ソノキは、まるく小さい頭を深く垂れると、扉を大きく開き、フィガロを中へと招き入れた。
「スノウ様とホワイト様は、留守?」
外套に薄く積もった雪を魔法で消しながら、フィガロは素知らぬふりをして尋ねた。師匠である双子の魔法使いが不在である時を狙ってここへ来ているのだから、今、ここにいるのは彼女と己だけだと知っているというのに。
「はい、お二人は、西の国へ、出かけてらっしゃいます」
答えながら、魔女の白い手が差し出される。フィガロの上着を催促しているのだ。家主の双子に対していつもそうしているのだろうということがわかる、慣れた仕草だった。
「そう。いつ帰ってくるんだい」
重ねて尋ねると、上着を預かったソノキの動きが、ぎくりと軋んだ。
「……わかりません」
フィガロに向けられた顔は、泣き出しそうなのを堪えた、ぎこちなく、不恰好な笑顔だった。フィガロの、嫌いな顔だった。
「ふうん。また、置いていかれたんだ?」
意地悪く、けれど悪気のない口調で尋ねると、彼女はうつむきがちに返す。
「私の魔力では、北の国を抜けるのは大変ですから」
「ああ、おまえは北の魔法使いとは思えないほど、魔力弱いからね」
きっぱりと述べられた事実に、うなだれた魔女からの返事はなかった。
この魔女、ソノキは、フィガロの師匠であり、世界で最も古い双子の魔法使いのスノウとホワイトに庇護されながら、生きている。
北の国は、人間も獣も生きていくには厳しい地である。体温を視界を奪う吹雪に、肺腑の中から凍てつく空気。雪に覆われ実り少ない大地では、食うものを手に入れるのも容易くはない。魔法使いの庇護がなければ、とても人間が生きていけるような土地ではない。
そしてそれは、弱い魔法使いも同じだった。
魔法使いであれば、人間と違い、魔法で風雪をしのぐことが可能ではある。けれど、それだけではこの北の国では生きてはいけないのだ。北の国の魔法使いは、己が生きていくために、容赦なく他者を蹴落とすからだ。
魔法使いを殺し、その後に残るマナ石を食べる。そうしながら生きているのが、北の国の魔法使いなのである。ただ、普通に生きることを許さない。生き延びるために、他者を殺せる強さ──。それが、この地の魔法使いに求められるものだった。
だから、北の国では人間も魔法使いも関係なく、弱い者から死んでいく。人間の場合は苛烈な自然に淘汰され、魔法使いの場合は、より強い者の手で石にされる。この雪と氷と風の大地は、知性ある生き物の営みではなく、動物じみたルールで成り立っている。
生きていくには、生存の淘汰に飲まれない強さが必要で、それには人間にも、魔法使いにも、動植物にまで等しく求められている。
そして、それでも弱いものが弱いまま生きていこうとするならば、強い何かに頼り、縋り、守ってもうしかない。それが、双子の魔法使いが作った、この街だった。
長く生きていて暇なのか、道楽なのか、スノウとホワイトはテリトリーとしている北の国で街を作っては、頼ってきた人間たちを庇護している。そして、その中には少ないけれど、この魔女のように一人では生きていけない魔法使いがいることもある。
部屋の奥にある暖炉で、ちろちろと燃えている炎が爆ぜた。オレンジ色は、人間が使う薪と炎のものではない。それに似せた家主──スノウとホワイトの魔法である。雪深い街の、最も大きく広い家に一人で残る、この魔女のためにかけられたままの魔法だった。
「──紅茶を、淹れますね」
暖炉の炎を見つめていたフィガロに向けて、魔女が取り繕うような声音とともに、顔を上げた。その瞳に滲んでいるのは、あきらめと、わびしさだった。フィガロが、この魔女に透かして見るのが好きなものだった。
有象無象の魔法使いたちから「フィガロ様」と呼ばれる大魔法使いは、一等やさしく、やわらかい表情を浮かべる。
「ありがとう。ミルクもつけてくれるかな?」
暖炉の横、幾何学模様が織り込まれたカバーのかけられたソファに深く沈みながら、フィガロはミルクも砂糖も入れていない紅茶に口をつけた。
「いい茶葉だね」
ふわりと鼻腔を通り抜けた香りは、高級品だとわかる深みがあった。
「中央の国の、王室御用達のものかな。北の国では、まず手に入らないような一級品だ。どこで手に入れてくるのやら」
「お二人は、よく揃ってお出かけをしますから、その時でしょうか。私は、そんなにいいものだとは知りませんでした」
ソノキは驚いたように、手元のカップに視線を落とした。価値を教えられず、当たり前のように使っているのが、北の国から出たことのないこの魔女らしかった。
「でも、おまえの淹れ方が上手いのもあるよ。随分紅茶を淹れるのが上手くなったね。前よりずっと、おいしくなった」
そう褒めてやると、魔女ははにかんだ笑顔を見せた。頬に、艶やかな赤みが差している。嫌いではない、表情だった。
「最近は、どう? スノウ様とホワイト様とは、仲良くやれてる?」
紅茶にミルクを足して濁らせながら、フィガロは尋ねた。
「仲良く……という表現は、恐れ多いですが、変わらず、よくしていただいています」
「おまえがスノウ様とホワイト様に拾われてから、何年だっけ。六百年くらい?」
「八百年近くになると、思います」
「あれ、そんなになってたんだ。スノウ様とホワイト様に拾われたばっかりの頃のおまえは、今よりずっと痩せっぽちだったな」
双子の師匠に呼び出され、顔を合わせたときのことは、八百年がたった今でも鮮明に覚えている。幼い姿をとっているスノウとホワイトよりも、さらに幼く、みすぼらしいほどに痩せていた。二人に拾われていなければ、きっと雪に埋もれるようにして死ぬか、飢えた狼に喉笛を噛み切られ、石になっていた。そんな想像ができるような、身なりだった。
「背は、あまり伸びなかったね」
ソノキの容姿は、庇護者であるスノウとホワイトより少し年上に見える程度の、少女の姿だった。
魔法使いは魔力が最も強くなった頃の姿で成長が止まる。魔法で姿を変えることもできるけれど、この魔女の魔力のピークは、少女の頃に迎え、それ以来、止まっている。
「ねえ、俺が他の国に連れて行ってあげようか」
濁った紅茶に口をつけないままテーブルに置き、フィガロはソノキの顔を覗き込むようにして、誘った。
「留守番ばっかりじゃ、おまえも退屈だろう。俺ならおまえを箒に乗せて、中央の国だって、西の国にだって連れて行けるよ」
フィガロ程の魔法使いであれば、魔女一人連れて飛ぶことなどたやすい。北の国の雪山さえ、簡単に超えられる。
──いい提案だと、思った。
この魔女は、拾ってもらった恩義を忘れず、忠実に双子に仕えている。置いていかれた今だって、ただ主人の帰りを待つばかりで、北の国どころか、双子の作った街からもろくに出たことがない。
中央の国の朝のにぎやかな市場も、西の国の通りを歩く人たちの華やかな服装も。東の国の深く静かな森も、南の国のどこまでも広がる荒野も、ソノキは見たことがない。
雪と氷以外の景色を見た時、この魔女はどんな表情を浮かべるのか。やさしく微笑む大魔法使いは、知らない世界を見た時のソノキの顔を、見てみたかった。
「ありがとうございます、フィガロ様」
「なら──」
「──それなら、スノウ様とホワイト様がお戻りになられてから、四人でお出かけが、したいです」
フィガロに誘われたことを素直に喜んで見せながら、魔女は双子の名前を出す。どこまでも、彼女の「一番」はスノウとホワイトだった。
すう、と冷たいものがフィガロの胸を通り抜ける。北の国の吹雪よりももっと、冷たく鋭い風だった。
「俺と二人きりは、いや?」
人当たりの良い笑顔の下に冷えたものを隠して、フィガロは首を傾げる。魔女は、慌てて首を横に振った。
「いえ、そういうわけじゃ……! ただ、スノウ様とホワイト様も一緒の方が、楽しいと、思って……」
「そうかな? 俺とおまえ、それからスノウ様とホワイト様と四人で出掛けたって、あの二人はあの二人としか過ごさないよ」
穏やかな口調で、けれどきっぱりと告げると、魔女の表情がわずかに歪んだ。傷ついた、顔だった。あまり好きな表情ではないけれど、自分の発言で浮かべさせたものだと思うと、悪い気はしなかった。
ソノキが手にしたままの、ティーカップの中の紅茶がさざなみのように揺れている。泣くだろうか、と伏せられたまぶたを見つめるけれど、しずくが頬を伝うことはなかった。
「そんなに、スノウ様とホワイト様のことが好きなのか」
尋ねているようにも、独り言のようにも聞こえる声音で、フィガロは言った。
どうしようもないことなのだ。今さらな話なのだ。命の恩人で、生活をともにしている双子と、気まぐれに訪れるフィガロでは、好意の大きさに差が出るのは当然のことなのだから。
もしも、この魔女を救ったのが、フィガロだったのならば。吹雪の中、死にかけの真っ青な唇を「たすけて」と震わせ、凍傷をおこした指先で縋られていたら、この大魔法使いは一も二もなく手を差し伸べていたは。そうして、片時も手放さず、常に側に置いていただろう。
命を救ったのが師たちではなく、自分であったならば、ソノキの信頼と情は、すべてフィガロに向けられていたはずなのだ。
最初に出会ったのがフィガロだったのなら、控えめな笑顔も、素直に向けられる好意も、疑うことのない親愛も、自分のものになっていたかもしれなかった。
──どうしようもなく、そして、くだらない考えだった。弟弟子の、世界で最も強い魔法使いでさえ、時間を巻き戻すことはできないのだ。
「──ねえ」
不自然なほど雰囲気を明るいものへ変えて、フィガロは微笑んだ。人間だけでなく、魔法使いからも特別な存在のように敬われるフィガロには、よく慣れたものだった。笑顔を見せれば、人間も魔法使いも安心したように肩の力を抜くのだ。
しかし、魔女ソノキは、そうではなかった。やさしげな笑みに気圧されたようにわずかに身を引き、身体を強張らせている。
「フィガロ、さま──」
「ねえ、やっぱり、二人で出かけよう」
やわらかく、それでいて有無を言わせないような重みがあった。魔法をかけられた暖炉で暖かいはずの部屋が、どこか薄ら寒い空気に変わる。
ただ、頷けばいいだけだった。「はい」と一言答えれば、それでフィガロは満足だった。実現するかどうかは関係なく、ソノキが言葉に従いさえすれば、それだけで満たされる──。
はず、だった。
けれど、ソノキは首を横に振った。なおもティーカップを両手に包んだまま、フィガロの視線から逃げるように目を伏せ、細い声で答える。
「──スノウ様と、ホワイト様に、黙って出るのは──……」
それは、不安を抱いた子供のような姿だった。フィガロの誘いを断ることにではなく、主人を裏切るような行為を、躊躇うような。
「……ふうん」
隠せないのではなく、隠さなかった苛立ちが、冷ややかな相槌に滲み出る。ソノキは小柄な身体をさらに縮こまらせた。見て取れる怯えが、さらにフィガロの神経を逆撫ですることも知らずに。
「随分と頑なだね。おまえがあの二人のことを心の底から慕っているのはよくわかったよ」
笑みを貼り付けながら、フィガロは低いテーブルの上で忘れ去られていたティーカップへ手を伸ばした。たっぷりのミルクを入れた紅茶は、すっかり冷め切っていた。
「でも、おまえのその愛情も、どこまでが本物なのかな。刷り込みじゃない、と言える?」
命の恩人、という理由から生まれた好意でないと、本当に言えるのか。弱い者が強い者を頼り、縋り、助けを求める姿は飽きるほどに見てきた。人の好意に打算がないと、フィガロは思っていない。思えない、のだ。
「感情なんてものはね、いくらでも変わるし、変えられるんだよ。おまえのその忠誠心も、魔法できれいに塗り潰せる。俺なんか、そういう魔法が得意だしね」
フィガロは他者の心、感情を操作することに長けている。好意を抱かせることも、恐怖を植え付けることも、記憶を消すことも、架空の思い出を作り出すことも、なんの造作もない。
魔力が強い魔法使いならば抵抗もされるけれど、フィガロほどの魔法使いとなれば、それが叶う者の方が少ない。ましてや、このあえかな魔女に抵抗などできるわけがない。塗り替えることは、易々とできるだろう。
ミルクティーを一息に飲み干し、カップをソーサーへ戻す。磁器と磁器が触れる音にさえ、ソノキは怯えたように身体を震わせた。
「俺が怖い? そんなにびくびくされたら、傷ついちゃうなあ」
ソファを軋ませて距離を詰め、うつむく魔女の頬に手を伸ばす。触れる瞬間に大げさに肩が跳ねたけれど、拒絶されることはなかった。
「ソノキ。俺はね、おまえを置いて行ったりしないよ。ひとりぼっちにさせたりしない」
ゆっくりと頬を撫でながら、そっと顔を上げさせる。戸惑いの色を浮かべる瞳は揺れながらも、フィガロの顔を捉える。ようやく、少しだけ胸の隙間が埋まるような気がした。
けれど、一度空いた穴が、完全に埋まることはないのだ。フィガロは魔女のすべらかな頬から手を離し、髪を耳にかけてやりながら言い聞かせるように口を開いた。
「スノウ様にはホワイト様、ホワイト様にはスノウ様がいる。スノウ様はホワイト様が、ホワイト様はスノウ様が一番で、それ意外のことを望んではいない。二人の側にいる限り、おまえはいつまでもひとりぼっちだよ」
──薄いガラスにヒビが入る瞬間は、きっとこういう感じなのだろう、とフィガロは思った。
大きな瞳を見開き、息を呑んで硬直したソノキの髪を撫でながら、フィガロは同情するように眉尻を下げる。
庇護のもとでしか生きられない弱さは、北の国という厳しい地には向いていない。そして、彼女の庇護者はフィガロよりも長くこの地で生きている。他者を切り捨て、踏み付け、食い散らしながら生きてきた証拠である。
お互いさえいれば、その実なんだっていい。煩わしくなれば壊し、捨て、二人きりになったところで手を取り笑いあう。スノウとホワイトという双子は、幼い姿に気まぐれと残酷を隠した、正しく北の魔法使いらしい魔法使いなのだ。
──だから。
「もう一度、言おうか?」
魔女は、ひどく傷ついた表情で凍りついたまま、フィガロを見上げている。
「スノウ様とホワイト様は、おまえのことをそれほど大事には思ってはいないよ。たしかにかわいがってはいるけれど、あれは自分たちよりか弱い生き物に情けをかけているのと同じだ。その辺の小鳥や小鹿をかわいいと思うのと同じだ」
人間と違い、百年、千年と生きている魔法使いが、真っ当な価値観をもっているわけがない。ましてや、この北の魔法使いともなると。フィガロは、そのことをよく理解していた。
「村を、街を作っては捨てているのを、おまえだって見てきただろう。おまえはほんの少し、他より気に入られているだけで、いつあの二人に見捨てられたっておかしくないんだよ」
突きつけるように再度繰り返すと、凍った湖面がひび割れるように、くしゃりと顔が歪んだ。瞳の奥で、感情が激しくざわめいている。目の縁からは、涙があふれそうだった。
胸がすくような気持ちを隠して、優しい表情を浮かべて見せる。
「傷つけたかな。ごめんよ。でも、事実だ。おまえだって、薄々気がついてはいるんだろう? あの二人の気まぐれで、今まで生き長らえていることは」
雪ウサギのように臆病で、弱いけれど、この魔女は愚かではない。自分が置かれた立場を理解しているはずだし、その上で、長く生きる双子の魔法使いに自分の生存権を預けているのだ。
「あの師匠たちは、まったく快楽主義で無責任だよ。でも、俺は違う」
やさしく、あまく。髪を指で梳きながら、とびきり大事なものに触れるように、言葉を紡ぐ。
「おまえが俺を頼るなら、俺はおまえを絶対に守ってあげるよ。いつ捨てられるかなんて、不安を抱かせたりもしない。おまえか俺が死ぬ時まで、ずっと一緒にいてあげる。それこそ、スノウ様とホワイト様の二人みたいに」
約束ではない。けれど、望まれるのなら、約束をしたってよかった。手を握り、縋って、乞うのであれば、フィガロはこの魔女を「特別」にしてもよかった。
──けれど。
「……いいえ、フィガロ様。私はこのままで、いいのです」
フィガロの手から逃げるようにうつむいて、声を震わせながらそれでも魔女はそう答えた。
「……へえ。俺の誘いを、断るんだ」
びくりと、魔女の丸い肩が跳ねる。フィガロの声が、さぞかし冷たく、暗く、恐ろしく聞こえたのだろう。そしてそれは、決して気のせいではなかった。
部屋の空気が、重たいものへと変わる。それは力あるものがにじませる、威圧と同じだった。
決定的な決裂、断絶となった表れだった。
「まあ、おまえはあの二人にべったりだからな。今さら離れることもできないとは思っていたよ。だから、これは俺からの贈り物。できればあげなくて済むとよかったんだけどな」
まとう空気は重いまま、軽やかな口調でローブのポケットをまさぐり、フィガロは取り出したものを手のひらの上で見せた。七色に淡く輝くその石は、魔力の源になるマナ石だった。
「俺のとっておきのマナ石だよ。小さいけどね、質はいい。ここからもう少し北に行ったところで、最近力を上げて来ていた魔法使いがいただろう? これはあいつのマナ石だ。これを手に入れるのはそこそこ骨が折れたよ。だから本当は一人占めしたいところなんだけど、おまえはほら。俺にとっても、それなりに特別だから」
再び、魔女の身体が凍りつく。それに気がつかないふりをして、フィガロは笑顔でマナ石を突きつける。
「意地を張ってないで、おまえも少しは強くなるべきだ。そうすれば、スノウ様とホワイト様に捨てられる可能性に怯えて生きることも、ないだろう?」
新雪よりも白い顔をした魔女は、フィガロの手のひらの上の石くれを見ながら、必死で首を横に振った。マナ石は、食べない。そういう意思表示だった。
「──はあ……。おまえもなかなか強情だな」
魔法使いが強くなるには、マナ石を食べることが一番の近道である。魔力の扱い方を磨き、使用できる魔法の幅を広げるよりも、魔力そのものを強くすれば、それだけ大きな魔法が使えるようになるのだ。
魔力の塊であるその淡い七色の石は、魔法使いの魔力そのものである。そして、魔法使いが体内へと取り込めばその身の魔力の源となる。
だから、きたの魔法使いたちはマナ石を奪い合うのだ。より魔力を求め、殺し合って。
「たしかにマナ石は、元々は生きていた魔法使いだ。でも、こうなったらただの魔力の塊だろう。血も流れてはいないし、生温かい体温もない。外で積もっている雪や氷とそう違わないっていうのに、なにがそんなに嫌なんだ」
ため息をついて落胆してみせても、魔女はただ首を横に振る。それは許しを乞うようで、フィガロの胸の奥の方で、また凍えた風が吹き抜ける。
「まあ、いいよ」
立ち上がり、一歩、距離を詰めて、魔女の顎に指をかける。抵抗はなく、小さな顎が戦慄いていた。
──《ポッシデオ》
静かに呪文を唱えると、今度こそ魔女の身体は凍りついた。指一本動かすことも出来なくなり、ソノキは瞳だけでフィガロへ訴えかける。
いやだ、こわい。ゆるして、おねがい。
「おっと、効きすぎちゃったか。おまえは魔力が弱いから、加減が難しいよ」
──ほら、口を開けて。
そう指示をすれば、血の気の失せた唇が、わなわなと震えながらゆっくりと開く。石くれをふくめるほどに口が開くと、その口腔内がよく見えた。青ざめた顔とは違う、赤い舌、喉。体温と柔らかさを持つ、粘膜の色。
「──いい子」
甘やかすように褒めて、焦らすようにマナ石を唇に当てると、ソノキはとうとう泣き出した。ぼろぼろと涙をこぼしながら、いやだ、いやだと出せない声で叫ぶ。
「少しの我慢だ」
どうしてこれほどマナ石を忌避するのか、フィガロにはどうしてもわからない。死んだ魔法使いが遺すものとはいえ、元の姿も留めていない、ただの魔力の塊、石でしかないのだ。
この北の国では、生きるためには奪うことも、殺すことも、躊躇ってはいられない。強さこそが正しさで、力こそが信じられるものなのだ。
だから今こうして、ソノキはフィガロにねじ伏せられている。貞操を守るかのように拒んだとしても、力がなければ抗えない。貞節など、暴力的な強さでもって紙切れよりも簡単に破ける。
「これでおまえも、今よりは強くなれるね」
せまくやわらかそうな口腔にマナ石をねじ込み、指先で顎を持ち上げて唇を閉じさせる。そのまま顎から喉をたどるように撫ぜてやると、本人の意思を無視して、喉が上下した。
「──どう? 初めてマナ石を食べた感想は」
覗き込んだ瞳は、ずたずたに傷つけられた色をしていた。ぞくりと背筋に甘い震えが走り、胸が締めつけられる。もっとひどく泣かせてやりたくて、同時にどこまでもやさしくしてやりたくてたまらなかった。
喉元から指先を離すと、魔女はその場に崩れるようにして蹲った。子供のような嗚咽が、フィガロの足元で小さく跳ねまわる。
「う──、う、うあ──あ──」
「ああ、泣くなよ。おまえに泣かれたら、どうしたらいいかわからなくなる」
嘘ではない。本心だった。泣かせてやりたくて、それでいながら笑って欲しいのだ。誰よりも何よりもやさしくしてやり、取り返しがつかないほどひどく傷つけたい。矛盾しているようなその願望は、どちらも嘘偽りがない剥き出しの本音だった。
隣に腰を下ろし、丸まった背中を撫でてやる。不規則に震える背中は、嗚咽だけではなく、嘔吐感も混ざっているらしかった。
どんなに吐き戻そうとしたって、無駄なことだというのに。一度飲み込んでしまえば、その身にマナ石の魔力は宿る。食事のように吐き出し、なかったことにはできない。
今、この魔女の身体の中には、顔を忘れ名も知らない魔法使いの魔力が、流れ始めている。
──途端に、殺した魔法使いが憎らしくてたまらなくなった。
なんの恨みもなく殺した魔法使いだったけれど、かなうのならばもう一度殺して粉々に砕いてやりたかった。
けれど、この魔女が強くなるということは、そういうことなのだ。不思議の力を持つ者が強くなるということは、他の魔法使い、魔女の魔力をその身に流すということに他ならない。
「……ごめん。俺が悪かった。ごめんね。もう二度としない、約束する」
小さな背中を撫ぜながら、フィガロは自分自身へも約束をする。
他のやつらの魔力をその身に流すくらいなら、弱く、強情で、強い者に縋って生きてもらった方が何倍もいい。その相手がフィガロではなく、師匠の双子なのだとしても。
「……ごめん、ごめんよ」
嗚咽と、繰り返される言葉の合間で、暖炉の炎が大きく爆ぜる。庇護の炎が、赤く揺らめく。
雪が音を消すのか、窓の向こうはしんと静まりかえっている。雪が枝から落ちる音も、獣の鳴き声も聞こえてはこない。ソノキを守る魔法使いは帰ってこないし、魔女がフィガロの手を取ることもない。
「……ばかなことを、しちゃったな」
ぽつりとつぶやかれた声は、冬の灰色の海で、岸壁に砕ける波音のようだった。蹲って泣く魔女の耳に、届いていたかはわからない。
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