北の国の海には、季節というものがない。時期によって多少の変化はあるが、それは積雪の厚さであったり寒さの度合いで測るもので、他の国にあるような四季の移ろいというものを感じることはできない。
今は初夏だというのに肌を切る冷たい風が吹き荒び、海を望む断崖にはほとんど草木が見られない。岩肌にしがみつくようにして緑が点在しているだけで、それが夏を迎えていることを示すわずかばかりの彩りである。
頭上の空は厚い灰色の雲に覆われ、切れ間から時たま顔を出す太陽が暗い海に弱々しい日射しを投げては、再び隠れるということを繰り返していた。ここ数日で言えば、まだ天気がいい方だった。
天も地も灰色で染めたような無骨な断崖を、フィガロはひとり歩いていた。人の気配はおろか、動物の気配もしない。動くものと言えば、風にあおられてはためくコートの裾くらいのものだった。生物を拒むような、枯れた海沿いの崖。そこが、今のフィガロの拠点だった。
フィガロはこれまでもその時々で住処を変えてきた。それは生まれ育った北の国だけではなく、栄えて賑やかな中央の国、法典遵守で静かな東の国、享楽的で華やかな西の国、未開拓の地が多く手付かずの自然が見られる南の国、その全てにまたがっている。
何度目になるかもわからない引越し先をこの詫びしい崖に決めたのは、魔法使いにも、人間にも、動物にさえも関わるのが面倒になったからだった。
魔法使いであれば、環境はそれほど問題ではない。風雪を防ぐ頑丈な住まいを建てることも、物資の調達や保存も魔法を使えば容易く済むからだ。凍えるような海風と灰色の空と海と岩、色彩を欠いたこの土地は、他者との関わりを極力断つには都合がよかった。
朝に起き、昼を好きに過ごし、夜に寝るという淡々とした生活は、眼前で横たわる大海のように代わり映えがなかったが、フィガロにとっては存外心地よいものでもあった。
海も、空も、陸も、くすんだ景色がどこまでも広がっている。まるでフィガロ自身のようだった。
フィガロは胸中に湧いたものを自嘲で吹き消し、靴底で岩を踏み締めるように歩を進めた。
ここでの生活は穏やかなもので気に入っているというのに、時々こうして自分の中を寒々しい風が抜けていく。それはいつどこにいようと、思い出したように吹くのだ。まるで、空っぽの自分を知らしめるかのように。
――今日はやけに、感傷的だな。
曖昧になっている海と空の境界へ目を向けて、他人事のように自分を捉える。
久しぶりに人里へ降りてみるのもいいかもしれない。適当に人間の役に立って感謝でもされれば、気分転換にもなるだろう。普通に生きるということさえ困難な北の国では特に、魔法使いは重宝されるのだ。
そうと決まれば早いほうがいい。彼方へ向けていた視線を此方へ戻したところで、魔法使いの目がそれを捉えた。
冷たく硬い岩肌に、同じような色をした塊が転がっている。それは風に乗って飛ぶものであるのに、石ころにでもなったように動かなかった。
「――渡り鳥か」
繁殖と子育てのために、南と東を行き来する渡り鳥だった。数十年ほど前に道楽で南の国の開拓を手伝った時に、見たことがある。北の国に渡る鳥ではない。そもそも北の国は餌になるような動植物に乏しく、環境も過酷だ。それだというのに、この鳥は群れからはぐれでもしたのかこの地へ流れ着いて力尽きたようだった。
近づくと、羽がかすかに動いた。風によるものではない。それは、見逃してしまいそうなほど些細ではあったけれど、意思があった。まだ息があったのだ。
煤けた羽根は砂埃にまみれ、みすぼらしい。かつて空を自由に飛んでいただろう面影すらもない。
フィガロは目を細めて、その塊を見下ろした。その胸の内には、一滴ほどの不快感があった。
渡り鳥ならば、渡り鳥らしく群の中にいればいいのだ。怪我か、病気か、もしくは嵐にでも巻き込まれたか――。原因はどうであれ、群れで生きる鳥が、たった一羽で生きられるわけがない。ましてや、航路を大きく外れた北の地では。
「……ここは、お前には寒いだろう」
かたわらにしゃがみ込み、ボロ切れのようになった身体に手をかざす。フィガロが短い呪文を唱えると、淡い光の粒が鳥を包むように降り注ぎ、すぐに消えた。
この生き物は、なにをどうしたところで助からない。もう間もなく死ぬ運命にある。けれど、その最期が穏やかなものであるように、と願ってのことだった。
どうせ死ぬ生命なのだから、放っておいてもよかった。むしろ、不愉快なものを見てしまったという気持ちさえあった。その気が変わったのは、こういうものを見過ごせない魔女の顔が、頭の中をよぎったせいだった。
北の国の魔女とは思えないほど弱い彼女――ソノキなら、きっとこうしただろう。助からないとわかっていても、なにかをしようとしたはずだ。それが無駄なことだとわかっていても。ソノキとは、そういう魔女なのだ。
身動きもできない渡り鳥が、今何を考えているのかはわからない。動物と会話ができる魔法使いならば最期の言葉を聞いてやることも出来たのだろうが、フィガロはずっと、人間や魔法使いの声ばかりを聞いて来たのだ。鳥の言葉などわからない。
一際強い風が、海の向こうから吹きつけた。それがきっかけ――最期の一押し――となったのか、フィガロの目の前で渡り鳥はその生命を終えた。風に乗って去るような、鳥らしい終わりだった。
「――おやすみ」
ささやくようにそう言葉を落として、魔法使いは立ち上がる。
ここには埋めてやる土もない。屍肉を食らう獣もいない。渡り鳥は、大地の肥やしにも野生動物の血肉にもなれず、海風と雨と雪にさらされながら自然に還るしかない。
はぐれたりしなければ、こんな寂寞とした場所でその一生を終えることもなかっただろうに。
これが望んだ最期だったのかどうかはわからない。ただせめて、寒い思いをせずに死ねたのであれば、いいと祈った。
潮風にコートを遊ばせながら再び歩き出すと、遠くに風景にそぐわないものがあることに気がついた。
植物でも鳥獣でもないそれは、遠目にもわかる人の形をしていた。この地へ来て十数年、初めて見る人影だった。
すぐに、魔法使いだと確信する。ここは実りもない不毛の地で、人間がやって来るような場所ではない。であれば、魔法使いしか考えられない。
なぜこんな辺境の地へやって来たのかはわからないけれど、面倒なことだった。世界最強の魔法使いのオズほどではないにしても、大魔法使いフィガロもそれなりに名が通っている。この地にいることが知れたら、多少なりとも煩わしいことが舞い込んでくることは確実だ。そうなると、この地へ来た意味も無くなってしまう。
適当に記憶でも消して、帰ってもらおうか――。
億劫な気分になりながら人影へ向かって近づくにつれ、フィガロはそれが見知った存在であることに気がついた。思わず足が止まり、視線を縫い付けられたようにその姿を見つめる。
防寒としては頼りない薄手のコートを羽織った、少女。灰色の海を見つめる横顔のその輪郭を、フィガロが見間違えるはずがなかった。ソノキ、だった。
――どうして、ここに。
驚愕に近かった。強い魔法使いに庇護されなければ生きていけないような魔女が、一人きりでこんなところにいる。北の国の老獪な双子が気まぐれに作っては捨てる街しか知らず、それをよしとしているはずなのに。
ソノキは一心に海原を見つめている。冷たい海風を受け止めてか頬は白く、それに反して鼻が赤くなっている。幼いその横顔は、フィガロの存在に気づきもせず広がる海にばかり向けられている。
海を初めて見るかのような姿だった。そしてそれは間違っていないはずだった。何百年と生きてきて、彼女は今、初めて海を目の前にしているのだ。
「――ソノキ」
驚かさないようにとやわらかく呼びかけると、びくりと肩を跳ね上げて魔女が振り向いた。全身に一瞬でまとった警戒と怯えが、フィガロの姿を認めてゆるむ。海を焼き付けていた瞳は大きく見開かれていた。
「――フィガロ、様――」
「ひさしぶりだね。――うん、本当に」
会うのは十数年ぶりだった。何百年と生きる長命の魔法使いからすれば短く、久しいと感じるような年月ではない。それなのに、なにを話せばいいのかわからなかった。相手が人間だろうと魔法使いだろうと、言葉をかけることは得手だというのに。
予想外の出来事に戸惑っているわけではなかった。その程度で言葉をなくすほど、フィガロは拙くない。――ひとえに、これが魔女ソノキだからだった。
取り繕うように――けれどそれが絶対悟られることはない――微笑を浮かべると、同じようにぎこちなく微笑んで見せたカソノキが口を開いた。
「その……フィガロ様も、お元気そうですね。なにより、です」
「お前のほうこそ。相変わらずだね――ああ、すっかり冷たくなって」
ゆっくりと距離を詰めて白い頬に手を伸ばす。触れる瞬間、彼女の顔が強張ったことには気づかないふりをして。頬は雪のように冷たかった。
「ほら、シュガーを食べて」
広げた手のひらにシュガーを作り、差し出す。
魔法使いが作るシュガーには、体力の回復や精神安定の効果がある。それに加えて守護と身体を内側からあたためる魔法もかけてやった、特別製のシュガーだった。
黙って手を差し出し続けていると、ソノキは遠慮がちに礼を述べて星の形の砂糖を一つつまみあげた。やはり遠慮がちに、その口の中へシュガーが送られる。
「――……はあ……」
小さく喉を上下させて息をついた魔女の頬に、じわりと赤みがさしていく。血色のよくなった顔に、フィガロは作り物ではない笑みを浮かべた。
「ほら、もうひとつ。口を開けて」
「でも、あの、もう十分……」
「シュガーのひとつだけじゃ、効果もたかが知れてるだろう。いいから、口を開けて」
有無を言わさず迫ると、魔女は弱りきったような表情のまま、おずおずと口を開いた。細く開いたその唇の隙間に落とすように、星粒を口に含ませる。
そのやり取りに、胸のあたりがざわついた。押し込めていたものが溢れるようなそれがなんであるか、身を切られるほど知っている。
――淡い虹色に光る石のかけら。
――震えながら開かれる唇。
――嘔吐感の混じった嗚咽。
――どうしようもない――愚かな後悔。
十数年程度では風化することのなかった記憶の再現は、フィガロを最低で最悪な気持ちにさせた。それでいながら同時に、魔法でねじ伏せなくとも従うソノキの姿に全身を包む浅ましい高揚感もあった。
「楽になっただろう?」
「はい……」
「真冬ではないとはいえ、北の海は寒い。お前は襟巻きと手袋もしたほうがいいよ」
「そうですね……海が、こんなに冷たいとは思いませんでした」
そう言って、ソノキが視線を海へ向ける。その瞳は、小さな海をたたえてふるえていた。
フィガロも同じように、無彩色の海原へ目をやる。冷たい海は変わらずそこに広がっている。二人の魔法使いを気にも留めず、ただそこにあるだけのわたつみ。
海を見つめる魔女に、問いただしたいことがあった。それだというのに、喉につかえたように言葉が出てこない。いや、出てこないのではなく、問いを口にすることを拒んでいるのだ。それが、自分に都合よく状況を捉えようとしている証であることはわかっていた。その上で、あえて気づかないふりをしていることも。
全身を包んだ高揚が冷め、苦いものがじわりと広がっていく。
ソノキがここにいるのはおかしいのだ。居合わせたのが彼女でさえなければ、僻地での偶然の遭遇と言えただろう。けれど、相手がこの魔女であるということが、その可能性を否定する。
魔女ソノキは、庇護者の元から頑なに離れない――離れようとしない。ゆえに、こうしてたった一人でこの場にいることはあり得ないのだ。
それが表す意味は一つしかなく、推測や仮説を立てるまでもなく明確だった。
スノウとホワイトか、オズがここを突き止めたのだ。
ソノキの庇護者でフィガロの師匠でもある双子か、世界を意のままにする力を持つ弟弟子のオズならばフィガロを探し出すことは難しくない。フィガロ自身も、その気になればスノウとホワイト、オズが今どこにいるか知ることは可能なのだ。力のある魔法使いならば、魔法を使った痕跡を丁寧に消したとしても探し人を見つけ出すことができるからだ。
しかし、一人では到底北の国を生きていけないような魔女には、不可能なことである。
ソノキがここにいる。
ただそれだけの事実が、フィガロのささやかで淡い期待を粉々に打ち砕く。
ソノキは一人ではここへ来ない。来られない。たとえこの魔女がフィガロの居所を突き止めることができたとして、一人でどこへでも行ける力を持っていたとしても、だ。
それに、海ならばもっと美しい場所がある。百年ほど前に見た西の海は青く澄んでいて、人間にも魔法使いにも評判だった。初めての海に、こんな灰色の海原を選ぶ理由もないのだ。
虚脱感にも似た諦念が、フィガロの中に満ち満ちる。何度も味わい、骨身に染みて、よく知っているものだった。
「――スノウ様とホワイト様は、どこに?」
凪いで穏やかな声で尋ねると、
「ゆっくり海を眺めるといい、とおっしゃって――」
ソノキが向き直り、視線がフィガロを捉える。それは一瞬のことで、瞳は彼を通り越した先に焦点を結ぶ。追うように振り返ると、曇り空に二つの黒点があった。
点はこちらへ近づきながら、そのディテールをはっきりさせていく。鏡に写したようにそっくり同じ姿形。この世界で最も長く生きている、双子の魔法使いだった。
「ソノキ」
「海はゆっくり見られたかの?」
「海をじっくり楽しめたかの?」
箒から岩肌へ降り立ったスノウとホワイトが、まとわりつくようにソノキの両脇を固める。フィガロが目に入っていないかのようだった。
ソノキは二人の小さな手に両手を取られながら、はにかんだような笑みを浮かべる。そこにあるのは安堵だった。
庇護者が側にいることに安心したのだと、わかっている。けれど、フィガロには見せないその表情に胸中がさざなみを立てる。
「――スノウ様、ホワイト様。お久しぶりですね。ご健勝で何よりです」
貼り付けた笑みを浮かべて挨拶を述べると、ようやくスノウとホワイトがライム色の瞳をフィガロの方へ向けた。
「おや、フィガロ」
「いたのか、フィガロ」
「気付かなんだ」
「見えなんだ」
「すまんのう」
申し訳なさそうに声を揃えた二人の白々しさに、乾いた笑いが出そうだった。フィガロの背後から来ておいて、姿が見えないわけがない。とぼけた態度は、フィガロを不愉快にさせることを目的とした純粋な悪意である。
「三人揃ってこんなところへ来て、どうしたんです」
話題を変えるように尋ねると、同じ作りの二つの顔がまったく同じ角度で首を傾げた。
「こんなところでとは、おぬしもじゃろう」
「おぬしこそ、こんなところでどうしたのじゃ」
わかっていることをわざわざ質問してくる性根の悪さに、思い切り顔をしかめてやりたかった。
少女の姿のソノキよりもさらに幾分幼い容姿をしていながら、スノウとホワイトの中身は狡猾な老人のそれだ。力は当然として、知恵があり計算高い。一筋縄ではいかないからこそ、この二人は最も長く生きる魔法使いと存在しているのだ。
「今はここを拠点にしているんですよ。この海沿いの一帯は俺の庭と言ったところですね」
素直に答えると、彼の師匠はつまらないというように表情を冷ややかなものにした。弟子の心に爪を立てることに失敗して、興醒めしたと書いている。
「我らは旅行なのじゃ」
「三人でお出かけなのじゃ」
「――旅行」
噛んで飲み込むように言葉を繰り返したフィガロに、双子が紅顔を喜色で彩った。
「たまには三人でお出かけをしようと思っての」
「ソノキには留守番をさせてばかりだからの」
「海を見たことがないと言うから、ここへ立ち寄ったのじゃ」
「行き先と方向は違うが、寄り道は旅の醍醐味じゃからな」
「どうかの、ソノキ」
両腕に抱きついて問う二人に、ソノキは目尻と口元をゆるませた。それはお決まりの微笑ではなく、飾らない無防備な笑みだった。
「楽しい、です。海が、こんなに広いなんて思いませんでした。なにもなくて、どこまでも続いているのが不思議で――」
常より多い口数が、彼女の興奮と喜びを示していた。おもしろみのない暗い海だというのに、ソノキは楽しいと言う。その弾んだ姿は、見た目にたがわない無邪気な少女のものだった。
「連れ出した甲斐があるのう」
「連れて来た甲斐があるのう」
スノウとホワイトのはしゃいだ声を聞きながら、フィガロ胸の内は焼け爛れるようだった。
双子は今、屈託ない子供の顔の下でフィガロをせせら笑っている。フィガロでは引き出すことができない表情を、ソノキが見せたからだ。
ソノキは自身がどんな顔をしているのかも気付かず、初めて見た海にいかに感動したかを主人へ伝えようとしている。たどたどしくも沸き立ったその声はたしかに聞こえているのに、フィガロへ届く前に砕けてこぼれ落ちていく。
ほんのりと色づいた頬に、小鳥のさえずりのような声音。雪解けの春に咲いた花のような、破顔。従順で自己主張をせず、息を潜めるようにひっそりとしているソノキが、ここまで感情をにじませた姿を見るのは初めてのことだった。
「せっかく来たのじゃ、もう少しゆっくりと海を見るがいい」
「時間ならたっぷりあるからの。旅はのんびり行くとしよう」
愛でるような声で庇護する魔女へそう言った双子が、くるりとフィガロの方へ目を向ける。弧を描く小さな唇と反して、二揃いの瞳は酷薄な侮蔑の色で塗られていた。
「不肖の弟子に会うのも久しぶりじゃからのう」
「我らはこやつと積もる話でもしよう」
「――のう、フィガロ」
鈍く光る金色の目を細めて、双子が笑う。いたいけな見目の下に隠した本性をちらつかせた、有無を言わせない脅しであった。
にわかに張り詰めた空気を感じ取ったソノキが、戸惑ったように両脇の魔法使へ交互に目をやる。その表情は、すっかり常通りの萎縮したものへと戻っていた。
「――あ、あの、スノウ様、ホワイト様――」
「そう不安そうな顔をするでない」
「遠くへ行きはせぬ」
「しばし散歩でもしておればよい。先程の続きじゃ」
「そなたが呼び掛ければ、すぐに駆けつけてやろう」
「そうじゃ、心細く思う必要などない」
「我らがそなたを捨て置いたりするわけがなかろう」
宥めるように、スノウとホワイトがソノキの頭を撫でる。ソノキはまだ心細そうでありながらも、こくりと頷いて恭順を示した。庇護される側である魔女は、この双子の言葉に従うしかないのだ。
「いい子じゃな」
「いい子じゃの」
――《ノスコムニア》
声を重ねて、スノウとホワイトがソノキの両頬に唇を寄せると、鱗粉のような光がソノキを包んで消えた。過剰な程の、強い守護の魔法だった。
頬に口付けられたソノキは俯いて恥じらい、その仕草に気を良くした双子の甲高い笑い声が灰色の空を突き抜けるように上がる。その様子を、フィガロはただ見ているしかなかった。
「――さて」
「――さあ」
断崖に沿って歩きながら海を見るというソノキを送り出して、スノウとホワイトがフィガロへ向き直った。その顔からは表情が抜け落ち、凍てついている。
「ゆっくり話でもしようかのう、フィガロや」
「言いたいことも聞きたいことも、積もるほどあるぞ、フィガロ」
とぼけても無駄なことはわかっている。言いたいこと、聞きたいことがなんであるかも。だからフィガロは、黙って二人が言葉を続けるのを促す。
「我らが留守の間に、随分と勝手をしてくれたのう」
「我らがいぬ間に、随分とおいたをしてくれたのう」
「あやつから見知らぬ魔力を感じて仰天したぞ」
「我ら老体であるからな、魂消るかと思うたわ」
「――のう、フィガロ。どう申し開きをする?」
匂い立つかと思うほどの怒りが、二人からは感じられた。殺気に近いそれは、弾けた瞬間にあたりの岩肌を割り、えぐり、穿つだろうと想像させる。
けれど、フィガロは。
「――いいえ、何も。申し開きも、言い訳もありませんよ」
一切を認めるように、淡々と答えた。
師は言葉の裏を、心の内を探るようにじっと弟子を見つめ、やがて蔑むように鼻を鳴らした。
「可愛げのないやつじゃ」
「神妙な態度をとりおって」
「返答次第では、手足の二、三本ねじ切ってやろうと思っておったのじゃがな」
穏やかではない発言に、フィガロは思わず苦笑をもらした。それが冗談ではないことは、弟子である彼自身がよくわかっていた。石にされないまでも、それなりの「仕置き」をされることを承知で、申し開きはないと返したのだ。
けれど、弁解も弁明もないというのは本心でもあった。
十数年前、不在の隙をつくように彼らの根城を訪れたのは意図してのことだったのだ。
留守を任された魔女と、二人きりで話をしたい。それだけのことだった。庇護者に邪魔されることなく、ソノキと話がしたい。フィガロの訪問は、そんなささやかな望みでしかなかった。
――二人で出かけよう。
あの時の誘いにソノキが頷いてさえいれば、フィガロはそれを冗談としてなかったことにしていた。笑い話にして、終わりのはずだったのだ。
お気に入りの魔女を、双子が手離すことはない。わかっていて、その上で「もしも」を欲しがったのだ。嘘でもその場しのぎでも、ソノキから一言「はい」と聞ければ、満足するはずだった。
けれど、魔女の忠誠心は揺るがなかった。
臓腑が燃えるようで皮膚が凍りつくような激情が込み上げ、フィガロを暴力的にさせた。手に入らないのなら、いっそこの手で壊してやりたい。傷つけて、刻み付けてやりたい。――彼女の中に、自分という存在を深く打ち込みたい。
そんな気持ちがあったのだろうと思う。だからフィガロは、庇護者である彼らに自己弁護すらしない――できないのだ。
双子を頼らずに生きられるようになれば、ソノキは一人でどこへでも行けるだろう。それはきっと、彼女自身のためにもなる。そんなもっともらしい理由もつけて、拒むソノキに無理やりマナ石を食わせた。
ひどく傷ついた顔。
怯え切った瞳。
嗚咽と嘔吐感混じりの泣き声。
そうしてソノキを踏み躙った後、フィガロはここへ住処を移した。誰にも何も告げず、世界から消えるようにして。いずれ、この時がやってくることを知っていながら。
「……三人で旅行だなんて、急ですね。一体どういう風の吹き回しですか?」
向こうを歩く、小さな人影に目をやって師匠へ尋ねる。
「風の吹き回しも何も、先程言った通りじゃ」
「ソノキには留守を任せてばかりじゃからのう」
嘯く二つの顔に、今度こそ乾いた笑いがこぼれた。聞くだけ無駄なことだった。あどけない少年の皮を被った老人たちは、フィガロへの当て付けのためにここにいるのだ。
「――人形遊びがしたいなら、ご両親がいるでしょう」
双子の魔道具は人形だ。スノウが「母様」を、ホワイトが「父様」を持ち、その人形でたびたびごっこ遊びもしている。戯れの人形なら、二人はもう手にしているのだ。――それなら。おもちゃのひとつくらい――。
「――ほっほっほ!」
砂つぶのようになったソノキに目を向け続けていると、ぴったりと重なった耳障りな笑い声が弾けた。双子がフィガロの顔を覗き込むように見上げてくる。
「ソノキが欲しいんじゃな」
「おぬしがあやつをそれほどに気に入っていたとは思わなんだ」
「我らとおぬしの仲だというのに、水臭いのう」
「それならそうと言えばよかろうものを」
大袈裟な抑揚をつけてまくし立て、双子はにたりと口角を上げた。
「じゃが、おぬしにあれはやらん」
「あれは我らのものじゃからな」
そう言い、双子はまた「ほっほっ」と楽しげに笑い声を上げた。
これが、双子がソノキを連れてここへ来た本当の目的だ。三人での旅行など、薄っぺらい建前である。
お気に入りに手を出されたことへの怒り、不愉快。それを晴らすため、ソノキが誰のものであるかを知らしめるためにやって来たのだ。
「あれは我らが見つけた子じゃ」
「ゆえに、あれは我らの子じゃ」
「我らがいぬ間に盗めるとでも思うたか?」
「我らさえいなければかすめ取れると思うたか?」
「残念だったのう、あれは我らのものじゃ」
スノウとホワイトが、酷薄な嘲笑を浮かべて繰り返す。
どうあがいても、ソノキは双子の元から離れない。絶対に破られることのない、約束のようなその事実を再確認させる冷笑だった。
双子はソノキを意思を持つ生き物としては見ていない。自分たちが拾った所有物として扱っている。お互いさえいればそれで満足する双子にとって、他人の存在は玩具程度の意味しか持てないのだ。
ソノキ自身も、そのことには気がついている。弱く、臆病で、従順だけれど、決して愚かな魔女ではない。
それだというのに、ソノキは双子の側を選ぶのだ。与えられる愛情が見せかけで、お気に入りの人形――物――に向けられるものと変わらないのだとしても。
フィガロの隣、ではなく。この二人の隣、なのだ。
「わかればよい」
「二度はないぞ」
不肖の弟子へよく言い聞かせるように釘を刺して、スノウとホワイトが箒を出した。軽やかにまたがると、悠々と空へ上がる。その後ろ姿は、とうにフィガロへの興味をなくしていた。
二人はゆったりとした速度で、けれどはっきりとした目的を持って遠ざかっていく。初めて海を目にしている魔女、ソノキの元へ向かって。行き先がある、渡り鳥のようだった。
遠く離れた点が、すうと地上へ下降する。と思うと、すぐにまた灰色の空へと飛び上がった。
さらに遠ざかっていく黒点は三つではなく、二つだけだった。スノウとホワイト、どちらかの箒にソノキが乗っているのだ。北の国どころか、双子が作る街から出るのも初めての魔女だ。長く空を飛ぶことに慣れていないことを考えれば、必然のことだった。
染みのような点は、曇り空に飲み込まれるようにして瞬く間に消えた。後には、群れからはぐれたようなフィガロだけしか残されていなかった。
草もまばらな固い岩肌。吹き荒ぶ風。のし掛かるような厚い曇天。漠とした海沿いの断崖は、フィガロそのもののようだった。
去っていった影たちと同じように、フィガロも空を飛ぶことができる。この世界のどこへでも行けて、どこででも生きていけるだけの力も持っている。
それだというのに、どこにも行けないような気がしていた。自分の意思でやって来たこの地も、もう居続けられる場所ではなくなった。ここへ留まる限り、この日の出来事をまざまざと思い出し続けることになる。
――だからといって。
どこへ行けばいいというのだろう。どこへでも行けるということは、留まる場所がないのとどう違うと言うのだ。
群れからはぐれ、冷たい北国で命を終える場違いの渡り鳥。ソノキと会う前に見た、ボロ切れのような鳥が、フィガロのまぶたの裏に映し出される。
「――ああ――」
吐息と漏れた声は、聞き取る者もなく海風に掻き消された。
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