瞬きの瞬間に、世界が入れ替わった。直前まで部屋の片付けをしているところだったというのに、虫干しをしていた古い本も、整理されていない紙束も、薬に使うための瓶詰めの薬草、魔法の媒介となる鉱物といった、工房を埋める雑多な品々全てが幻のように消えていた。
その代わり、フィガロの目の前には見知った弟弟子が魔道具の杖を手に立っていた。師匠であるスノウとホワイトから譲り受けたその杖は人の背丈ほどあり、先端に大きな赤い宝石が飾られている。
豊かな長い黒髪を後ろに流したオズは、北の国の凍った湖のような無表情で唇を固くひき結んでいた。無感動な冷たい佇まいと反するように、瞳は、燃える炎の色をしている。
啞のように黙り込んでいる弟弟子の姿を認めてすぐに、フィガロは現在の状況を悟った。オズが魔法でフィガロを呼びつけたのだ。世界を意のままに操れる、この世で最も強い魔法使いなら容易いことであったし、これまでにも度々同じことが行われている。
けれど、呼び寄せられた場所はオズの根城ではなかった。色鮮やかなステンドグラスで彩られた窓を見れば、ここが師匠たちの城であることは一目瞭然だ。
「一体――」
何の用だと、双子の姿を探そうと首を巡らせたところで、フィガロは言葉を失った。
見知った内装の館の、年月を感じられる濃い色のよく磨かれた床板。そこに倒れている、幼い姿の少女。投げ出された細い手足は細く、白い。いつも主人たちに着せ替え飾られている仕立ても作りも良い服は、歪に欠けた脇腹から流れ出した血を吸い、黒く湿った染みで汚れていた。
衣服ごと抉り取ったように欠損した脇腹は床板にも血溜まりを作り、煤けた黒い煙を立ち上らせている。身体から細く上がる煙は、漏れていく命そのものだった。その傍らに転がる人間大の石が、淡い虹色の光の輝きを放ち場違いに浮いている。
悪趣味な夢を見せられているのかと思った。壊れた玩具のように、少女――ソノキはぴくりとも動かない。その傍に膝をついてさめざめと泣いているスノウとホワイトも、下手な芝居を演じる役者のように見えて滑稽だった。
「フィガロ、ソノキを助けろ」
「絶対に石にしてはならん」
けれど、目の前の光景は悪夢でもなければ茶番でもなかった。濡れた双子の声は切迫している。これはこの通りの現実なのだ。
フィガロは返事もせず、すぐに少女の元へ歩み寄った。硬い床に横たわる魔女の顔は、新雪の色をしている。相当な血液が失われているのだ。うっすらと開いた口元に手をかざすと、掌に微かな吐息が触れた。細く、今にも途切れてしまいそうだが、息はある。何より、まだ石にはなっていない。骨と肉と、血と内臓と皮膚で作られた人の姿をしている。
――それなら、まだ助かる。
「退いてください」
ソノキに縋り付いていた師匠たちは、フィガロの言葉ですぐに下がった。今にも固く冷たい石へと姿を変えてしまいそうな魔女の命を繋ぎ止められるのは、フィガロしかいないとわかっているからだ。
フィガロは膝が汚れるのも構わずに、血に濡れた床に膝をついた。冷えて冴えた頭が、淡々と状態を判断する。スノウとホワイト――オズが、フィガロを呼び出したのは実に正しかった。もう少し遅れていたら、この魔女は虹色に光るマナ石へと姿を変えていた。そこに打ち捨てられている、七色の石のように。
双子も弟弟子も、治癒することには長けていない。奪い、壊し、殺すことしかしないからだ。
――《ポッシデオ》
抉り取られて欠損した脇腹に手をかざし、短い呪文を唱える。
「助かるんじゃろうな」
「助けられるんじゃろうな」
「助かりますよ。助けます」
言われるまでもなく助けるつもりだ。そして、己が治すのだから助かるという自負もあった。
空いたもう一方の手で、多量の失血で色の失せた冷たいソノキの指先をきつく握りしめる。触れた肌の境界が溶けて繋がり、そこから体温を分け与えるイメージをしながら、ゆっくりと魔力を送る。
細く撚った糸が切れないように、一針一針通すように。強い魔力を急激に、大量に流し込んだりしようものなら、この魔女を殺す後押しになるだろう。北の魔法使いでありながら魔力の弱いソノキにとって、強い魔力は毒にもなる。
ゆっくりと、長く息を吸い、同じだけの時間をかけて、吐く。黄金色の瞳を涙で潤ませる師匠たちも、黙したままの弟弟子も、フィガロの意識から追い出される。
――ソノキ。お前を石になどさせない。
――冷たく硬い石になど、させるものか。
フィガロはただ、それだけを考えていた。
絹のシーツは白く、清潔を象徴する色をしていた。ベッドに寝かされた魔女は、リネンと同じ白い顔で瞼を閉じている。それでも、頬には幾分か血色が戻ってきていた。
「助かったんじゃろうな」
「助けられたんじゃろうな」
「そう言っているでしょう。もう大丈夫ですよ。傷痕も残らないくらいに、綺麗に治ります」
ソノキは今、眠っているだけだ。死の淵に立つ程の怪我を負ったのだ。深い眠りの底から戻って来るには、まだ時間を要するだろう。けれどもう、冷たい石へと姿を変えるような恐れはない。他ならぬフィガロが手を施したのだから。
スノウとホワイトも、フィガロの治癒魔法の力はよく知っているはずだ。だからこそ、オズにフィガロを呼び出させたのだろう。何度も、念入りに確かめているだけだということもわかっている。けれど、疑われているようでいい気分にはならない上に、いい加減煩わしかった。ソノキが助かったことは、こうして人の形のまま眠っていることが何より示しているのだ。
「何があったんです」
フィガロは暖炉の側から移動させた揺り椅子に腰を下ろし、低く無感動な声で双子に尋ねた。大凡の検討はついている。その予想が正しいか、今度はフィガロが確認する番だった。
「つまらん魔法使いのくだらぬ逆恨みじゃ」
「我らには太刀打ち出来ぬと、ソノキを襲いおった」
予想を違わない答えに、フィガロはため息を飲み込んで背もたれに身体を預けた。ロッキングチェアが、揺り籠のように揺れる。
オズはもちろんのこと、最古の魔法使いであるスノウとホワイトもその名はよく知られている。特に、北の魔法使い達の中では厄介な存在として。
スノウとホワイトは姿こそ幼い子供だが、その内側は老獪で冷酷だ。一見可愛らしい見目を、最大限に活用もする。油断させることにも、騙すことにも、そうしてから蹂躙することにも、なんの躊躇いを持たない。狡猾に知恵を使いながら、沢山の、それほど山になるほど魔法使いを石にしてきた。そうでなければ、ここまで長く生きてはいない。
当然、恨みを買うことも多い。それでもなくとも北の魔法使い達は、己の強さ、益のために殺し合うことが常識なのだから。
――きちんと後始末をしないから、こうなるのだ。フィガロは吐き捨てたい言葉を喉の奥に飲み込んだ。中途半端に恨みを買うようなことをするくらいなら、息の根を止めてしまえばいいのだ。そうすれば、つまらない復讐に煩わされることもない。八つ当たりの自暴自棄の道連れとして、ソノキが殺されかけるようなことも、ないのだ。
己の強さを誇示し、彼我の差を知らしめるのならば、逆らおうと思えなくなる程徹底的にするべきなのだ。そうでなければ、そもそも生かさなければいい。死ねば、反抗しようなどと考えることもないのだから。
この双子は詰めが甘いのだ。最年長の魔法使いということが、驕りに繋がっている。二人だけならば、それでもいいだろう。けれど、見ての通りだ。その慢心が、ソノキを石にしかけたのだ。
――俺だったら、きっと。
何度も考え、そしてその度に捨てて来た考えが乾いた胸に去来する。もしもなど、繰り返すだけ不毛だとわかっているのに。
視界すら奪う強い吹雪が止むのを待つように目蓋を強く瞑った時、ノックもなく寝室の扉が開いた。目を開けると、オズが立っていた。口数の極端に少ない弟弟子は、黙ったまま師匠と兄弟子を見つめる。
「スノウ様、ホワイト様。オズはもう帰してもいいでしょう?」
「ああ、そうじゃな」
「手間を掛けさせたのう」
オズは、フィガロを呼び出すために双子に呼び出されたのだろう。役割を果たし、ソノキが助かった今、帰りたくて仕方がなかったのだ。
弟弟子はこの世界から愛されているくせに、世界のあらゆるものに興味がない。顔見知りであるソノキの生死にだって、関心がないはずだ。急に双子に呼び付けられて働かされたことに対して、僅かばかり面倒に感じた程度だろう。
「お前が俺を呼んだおかげでソノキは助かったよ。ありがとう」
フィガロがそう声をかけても、オズな何も答えなかった。やっと解放されとばかりの表情になり――ほとんど変化はなかったが――挨拶もなく姿を消した。
「まったく……いつまでたっても愛想がない」
フィガロはため息をつき、双子の方へ目を向けた。
「俺はもう少し居させてもらいますよ。石にこそなりませんでしたが、容態は気になりますから」
「もちろんじゃ」
「茶を用意しよう」
「ああ、それから、あの石は俺がもらってもいいですか」
退室しかけたスノウとホワイトへ、フィガロは付け加えた。立ち止まって振り返った双子が、そっくり同じ不愉快そうな表情を浮かべる。
「どうするつもりじゃ」
「譲ってもいいが、あの石はソノキを殺そうとしたのだぞ」
「――食うつもりじゃあるまいな」
二つ重なった声は、並の魔法使いならば聞いただけで臆し、怯えたかもしれない。けれど、フィガロには慣れたものだった。
「まさかでしょう。あんなゴミ屑のようなマナ石を食べたところで意味はないじゃないですか。磨り潰して、家畜の餌に混ぜてやるんですよ。――いや、ドブに撒く方がいいかな」
食べるつもりなどさらさらない。かといって、他の魔法使いにやるつもりもなかった。石になっていなければ、考えうる限りの苦痛と恥辱を与え手ずから石にしてやりたかったが、フィガロがここへ来た時にはすでに石になっていたのだ。できることといえば、他の魔法使いの魔力となることもなく、無益で無駄な死にさせることくらいしかない。
「食うのでなければ好きにせよ」
「あのような石、我らは触りたくもないわ」
双子は嫌悪感を露わにしたが、それも一瞬のことで、すぐに興味を失ったようだった。「お茶会じゃ」などとはしゃいだ声を上げながら、部屋を出て行った。しつこい程に容態を確認していたのが嘘のようだ。一命は取り留めたとは言え、お気に入りの魔女が死にかけていたことはもう、二人にとっては既に終わったこととなったのだ。
揺り椅子に身体を沈めたまま、フィガロは深いため息をついた。耳をそば立てると、目の前の隣のベッドからソノキの細い寝息が聞こえる。固く閉じられた目蓋を見ながら、すぐには目を覚さないだろう、と思った。
――今の内に。
立ち上がり、そっと部屋を出る。双子からの許可は得た。未だ床に転がっているであろう石を、早急に処分してしまいたかった。
血溜まりの中に横たわるソノキのそばで光り輝いていたマナ石を思い出すだけで、腹の内側が重たく黒い渦を巻く。
魔法使いは死ねば等しくマナ石へと姿を変える。その輝きは魔力によって変わることはなく、強いも弱いも関係なく同じ虹色の光を放つ。その事が、今はどうしようもなく腹立たしい。靴底で踏み付け、砕き、割り、すぐにでも粉にしてしまいたかった。
生きていたのなら、指を切り落としては繋いで何度でも苦痛を与えてやりたかったし、頭の中を弄って心をぐちゃぐちゃにしては正気に戻してやりたかった。
生きたまま殺す――あるいは、殺しながら生かす事は出来るのだ。けれど、死んでしまっては生かす事は出来ない。死者を蘇らせる事は、弟弟子でさえも不可能なのだ。
粉にしたマナ石は、どうしようか。廊下を歩きながらフィガロは考える。
家畜の餌に混ぜる事も考えたが、家畜とはいえ生命の糧になるのは許し難く思えてきていた。同じように、肥溜に撒くのも無しだ。糞尿は肥料となり、この世界に循環する。それは有益で意味がある物事であり、フィガロはソノキを殺そうとした魔法使いをその循環に加えてやるつもりは一切なかった。
塵も残さず無にする事も不可能ではない。けれど、それよりもっと屈辱的な「処分」がしたいのだ。
そう考えると、やはりドブにでも撒くのが一番なのかもしれない。確か西の国に、貧民窟のような場所がある。北の魔法使いからすれば、縁もゆかりもない土地の薄汚い街で、何の糧にもなれず無意味に終わるのはそれなりに屈辱的だろう。それでも贅沢なくらいだが、これ以上の辱めは望めそうにはない。
生きていたなら、もっと出来る事はあったというのに。すぐに殺してしまった師匠たちの事が、恨めしかった。
◆ ◆
ソノキは一夜が明けても目を覚さなかった。薄く開いた唇から苦しそうな息を漏らしながら、未だ眠りの檻の中に捕われている。
「熱は下がるのか」
「大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ。これ以上熱が上がる事はないはずです」
額に置いた手を下げて、フィガロは答えた。深夜に熱が出て来たのだ。
原因はわかっていた。魔法で強引に治療を施した事だ。フィガロの魔力も注いでいる。今になって、拒絶反応のようなものが出て来たのだ。それも身体が自力で回復し始めたからこそで、順調に治っている証拠とも言える。
フィガロは手のひらに魔力を集めてシュガーを作り、熱い息を漏らすソノキの唇の隙間に落とした。眠り続けていて、水も飲んでいない。体力の回復と解熱目的のシュガーだった。
「我らもシュガーを与えよう」
フィガロに倣い、スノウとホワイトも同じように眠るソノキにシュガーを含ませた。細い喉が小さく上下すると、少しばかり呼吸が落ち着いたようだった。
「ソノキはいつ目を覚ますのじゃ」
「このまま眠り続けたりはせんだろうな」
「だから大丈夫と言っているでしょう。俺が処置したんですよ。疑うんですか? まだ寝ているんだから、静かにしてください」
唇へ湿らせた綿を当て水分を与えてながら、フィガロは素っ気なく答えた。
朝が来ると同時に、再びソノキの状態を尋ねるようになった双子にフィガロはいい加減辟易していた。
――石になったらなったで、すぐに忘れてしまうくせに。
彼女が生きているから、石になっていないから、確認するのだ。
フィガロには確信があった。これほど心配して見せている双子は、けれど、ソノキが石となったらすぐに忘れてしまうだろう。泣き、悲しんで見せるのはそれこそ一瞬だ。
この魔女はスノウとホワイトの「お気に入り」ではあるけれど、それは特別ではない。双子にとっての特別は、互いだけなのだから。死んでしまえば、壊れた玩具と変わらない。その時だけ惜しがり、すぐに忘れてしまう。
この殊勝な態度も、ぐっすりと寝て目を覚まし「そういえばそういうこともあった」というように思い出しただけなのだ。
「お二人にいつまでも心配されたら、ソノキも目を覚まし難いでしょう。起きたら呼びますから、外してください」
追い払うようなフィガロの物言いに、けれど二人は素直に従って部屋を出た。自分達に出来る事がないとわかっているのもあるだろうが、看病に興味がないだけだ。看病をしている自分――優しい自分を演じる事は楽しめても、それはあくまで演技であって本心ではない。
興が乗れば甲斐甲斐しく面倒を見るだろう。けれど、そうでなければこの双子はどこまでも無関心なのだ。
――それだというのに。
それでも、この魔女はスノウとホワイト選ぶのだ。
忠誠心なのか、恩義なのかはわからない。あるいは、双子以外を選ぶ事で、彼らの機嫌を損ねる事を恐れているのかもしれない。庇護されて生きているソノキは、己の命を握られているようなものなのだから。
ただ一つだけ確かなのは、ソノキがフィガロを選ぶ事はないという事実だけだ。それは自然の摂理のように、揺るぎがない事だった。
ソノキのうっすらと汗ばむ額に張り付いた前髪を、そっと除ける。彼女に意識があれば、怯えた反応を見せたかもしれない。けれど、眠る今の魔女はされるままだった。
フィガロはそっと、指先を頬へ滑らせた。死にかけていた時の冷たさが嘘のように熱い。
ソノキの脇腹に穴を開けた魔法使いに対して、そうなる遠因を作った双子に対して、淀んだ感情が渦を巻く。
時を巻き戻せない事は、死者を蘇らせる事は出来ない事は分かっていても、この手で石にしたかったという考えは消えていない。砕き、磨り潰し、これ以上ないほど細かな粉にした。それでも尚、飽きたらなかった。憎しみは憎しみのまま、フィガロの中で揺らめくままだった。
師匠達についてもそうだった。我が物のように扱っている魔女一人も守れない。その癖庇護者の顔でソノキを縛り付けている。片割れか魔女かどちらかの選択を迫られた時、迷う余地もなく己の分け身を選ぶというのに。
――俺なら。俺なら、きっと、こんな目に遭わせたりはしない。
痛みからも、明日生きていられるかという不安からも、心を悩ませる出来事からも物事からも守ってやれるというのに。
それでも魔女がフィガロを選ばない事は、分かっている。まるで約束でもしたかのように、ソノキは双子の側に居る事を望む。フィガロは、魔女の小さな手を取る事が出来ない。
分かっている。最も憎いのは、粉々に磨り潰してやった魔法使いでも、半身の姿しか見ていない双子の師匠でもない。誰でもなく自分自身なのだ。
ソノキの身に降りかかる災い全てを退けてやりたいと思っている。己であればそれを叶えられるという自負もある。けれどどうだ。ソノキは、冷たく硬い石になりかけた。
何が大魔法使い、フィガロ様だ。人間だけでなく、魔法使いたちからさえも恐れられ、敬われ、偉大な魔法使いと讃えられても、たった一人を守る事も出来ない。
「――う……」
不甲斐なさに、自嘲が溢れそうな時だった。細く開いた唇が震え、小さな声が漏れた。薄い目蓋が、ゆっくりと開く。熱に浮かされて潤んだ瞳が、ぼんやりとフィガロに焦点を結んだ。
「大丈夫だよ」
やさしく聞かせるように言って、フィガロはソノキの頭を撫でてやった。
「俺が治したから、お前は石になんかならない」
ソノキはぼうっとフィガロを見つめながら、息を吐くような微かな声でフィガロを呼んだ。
「……なかないで……」
――泣かないで。
フィガロは耳が拾った言葉の意味を理解してすぐに、ソノキは朦朧としているのだな、と判断した。
「泣いてなんかいないよ。目が覚めたばかりで、寝ぼけているんだな。今はもう少し、おやすみ」
もう一度頭を撫でてやると、ソノキが身動ぎした。触れられるのを拒まれたのかと思ったが、それは違っていた。肩まで掛けられていた軽く暖かい羽毛布団の下から、のろのろとソノキの手が現れる。白く小さい手が、フィガロの方へ伸びる。思わず握ってしまった手は、熱を持ってうっすらと汗ばんでいた。生きている、と、思った。
「フィガロ、さま……」
「なぁに。どうしたの」
出来るだけ優しい声音で、耳を貸す。ソノキの指先に弱く力が込められる。
「て、を――……」
言葉は途切れて音にならなかったが、何を訴えたかったのか察せられないフィガロではなかった。けれど、どうしてそのようなことをフィガロに頼むのかが、わからなかった。手を握って欲しいなど、フィガロではなくスノウとホワイトへ向けられる願いのはずだ。
手を握ったまま、フィガロは途方に暮れたような気持ちになった。迷子にでもなったようだった。そんな幼い自分は、過ぎ去った遠い日に置いて来たはずだというのに。
けれど、戸惑いは瞬間の出来事だった。フィガロはすぐにソノキの手を離した。いつまでも繋いでいていい手ではないのだ。
「分かった、スノウ様とホワイト様を呼んで来るから――」
「――フィガロ、さま――が――……」
けれど、ソノキは切れ切れの声でフィガロを引き留めた。発熱でぐったりとしながら縋る姿は切実で、哀れにも見えた。
きっと、この手を振り解いて、双子を呼んで来るのが正しいのだろう。フィガロは、己の立場を痛いほど知っている。
けれど、フィガロは床に膝をつき、ソノキの手を握り返した。その熱を幾ばくか譲り受けるように、しっかりと。
「分かった。お前の望むように、側に居るよ」
あやすようにやさしく囁くと、ソノキは口元を緩め、目蓋を閉じた。揺り籠に揺られる赤子のような、無防備な寝顔だった。
――石になりかけたからだ。熱で朦朧としているから、だ。
眠るソノキの顔を見ながら、フィガロは自分自身に強くそう言い含めた。
ソノキがフィガロを求めたのは、自分が注いだ魔力が影響しているのだ。死の寸前まで追いやられる怪我を、魔法と魔力で治したのだ。与えた影響は大きい。故にソノキは、身の内に満ちる魔力の大元である、フィガロに助けを求めただけなのだ。
手を握ることを求めたのも、フィガロに縋ったのも、ソノキ自身が望んだことではない。それはもっと本能的なもので、ソノキの意思によるものではないのだ。
熱も、明日にはすっかり引いているだろう。再び朝を迎えて目を覚ました時、この魔女は今の出来事を覚えていないはずだ。
酷い気持ちだった。助けられた事に、石にさせずに済んだ事に安堵しているというのに、それを塗り潰す程の惨めさがあった。熱に魘される中で見た恐ろしい夢のように、忘れる事など出来ない。解けない呪いを掛けられたようなものだ。
それなのに、一握りの、淡い期待を手放す事が出来ない。
「――約束したって、いい」
眠るソノキに届かないと分かっていながら――分かっているからこそ――フィガロは独白を漏らす。まるで、罪を懺悔するようだった。
「本当に、約束したっていいと思っているんだ。お前が俺を選んでくれるなら――俺は、お前を脅かす凡ゆるものから守るのに――……」
この世界を敵に回すことだって恐ろしくはない。ソノキが手を取ってくれるなら。
老獪で狡猾な、最古の魔法使い達でも。
世界で最も強い魔法使いである弟弟子でも。
お前を守るためなら、相手にだって出来るのだ。
城を囲う森の隙間から、朝日が差し込む。白く積もった雪で明るさを増した日差しは、カーテンの隙間から室内を突き刺す。
手を握られながら眠る魔女は、答えなかった。
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