土方(♀)
先程までがやがやとうるさかった教室が、チャイムが鳴った途端に静まりかえり、先生の声だけが響き渡る。
今日から始まった教育実習で校内には見知らぬ若者たちが増え、慣れない教師ごっこをする。
教壇に立った大学生のおにいさんは、大学で古典を専攻しているらしい。普段私たちに古典を教えてくれている土方先生は教室の後ろの方で、授業の様子を見守っていた。教室の一番後ろの席にいる私の背後を、時折先生は歩いているようだった。
今日から新しい単元に入った授業は紫式部の『源氏物語』。
それじゃあ、一回先生が読んでみます、と言って先生が教科書を読み始めた。
若いけれど、落ち着いていてどこか艶のある声は耳あたりが良い。心地の良い声のおかげで、授業が始まったばかりだというのに、クラスメイトの中には睡眠という航海に乗りだそうとしている人たちがいる。
私は教科書には目を通さず、ずっと教卓で緊張しながらも懸命に朗読している先生を見つめていた。
「(この声すきだな)」
私は授業が終わるのを待って、先生に声をかけた。
声で一目惚れしてしまった私は、直ぐに先生にアプローチすることにした。
高校卒業後は大学で古典を勉強したいと思っていたから、話題には事欠かなかった。
大学生と高校生なので、学校の先生達ほど年が離れていないのもあって、案外早く先生と”良い感じ”になることができた。実習期間は毎日会うことができるし、毎日あの声を聴くことができた。
放課後に二人、空き教室で先生の声を聴くのがとても心地よかった。
そんな二人の逢瀬を土方先生に感づかれた。いや、私が空き教室に入り浸っていることがばれた。
別に付き合っていることがばれた訳ではないし、ばれた所で、とも思うが色々あってちょっと後ろめたい。
いつもの様に待ち合わせ、帰りのHRが終わって空き教室に向かう途中に「苗字」と声を掛けられ、先生がいつもいる国語科研究室につれてこられた。
「最近ここの隣にある教室に入っているな?」
語尾を上げているのに是非を問うていない質問に、はぐらかすことは不可能と判断した私は素直に頷いた。
やはり、という先生は続ける。
「あそこは使われてない教室だ。何をしている?」
「・・・勉強をしていました。人が居るところは嫌なので」
「図書館があるだろう」
「人、いるじゃないですか」
「うるささの問題ではないということか・・・」
「はい」
「ならば一人であの教室にいるんだな」
少しどきりとしたが、すぐに「はい」と返すことができた。
先生の表情からは怒っているのかどうかが上手く読み取れない。けれど、その目はどこか私を問い詰める気だと思わせた。
「・・・・・・少し前までは私のところにしょっちゅう来ていたから不思議に思っていたが、そういうことか」
少し考えた風の先生は、悪さをしなければそれで良い。もういいぞ、と言って私の退室を許可してくれた。
失礼しました、と言って部屋を出で後ろ手に扉を閉めると、そのまま隣の空き教室へと向かう。
私は教育実習が始まるまでは、いつも土方先生の後をついていた。高校に上がり、初めて土方先生の授業を受けた時からずっと、土方先生の声が好きだった。ずっと先生の声を聴いていたくて、特に用事がないのに先生の後を追いかけ回し、先生の研究室にも入り浸っていた。
そんな毎日を過ごしていると、いつしか声だけでなく、先生の存在全てが愛おしくなった。何歳も年の離れた男の人。教師と生徒。端から諦めていた想いはひた隠しに、教育実習が始まるまでは、声が好きという理由だけを全面に出して接していた。
少しどぎまぎしながら誰も居ない廊下を歩いて行く。隣だというのに遠く感じた。
気持ちを切り替えて中に入ると、すでに彼がいた。今日もまた、最近お気に入りの『宇治拾遺物語』の一節を先生に朗読してもらう。
「今は昔、一条摂政とは東三条殿におはします。御かたちより・・・・・・」
ああ、やっぱりいつ聴いても良い声だ。
地の文を読んでいても素敵な声だったが、特に好きなのは和歌を詠むときの声。
人知れず 身はいそげども 年を経て
など越えがたき 逢坂の関
逢瀬を重ねていた高貴な身分の姫君には厳しい父親がいた。彼が自分の娘と噂になっている男がいるという噂を聞いてしまったがために、母親お味方にした藤原伊尹が父親に送った歌。恋の悩ましい音色と先生の声はとても相性が良く、どうしてもいつも恋の歌が載っているものを読ませてしまう。
さあ次はこの歌に対する父親の返歌(姫君を装って男を振る為に書いたやつ)。
私が和歌の時だけいつもより余計に耳を澄ませて聴いているのを知っている先生が、丹念に読もうと、すぅっと息を吸い込む。
トントン
誰かが扉をノックする音がした。その直後に扉を開け、誰かが入ってくる。
一瞬の静寂に突然現れた私たち以外の存在にビクリと驚く。もしや先生にばれただろうかと、恐怖で振り向くことができない。目の前の先生も硬直したまま、扉の方を見ている。
やましいことはしていない、けど、どうしよう・・・、と思っていると、
あづま路に 行きかふ人に あらぬ身は
いつかは越えん 逢坂の関
この学校生活で聞き慣れた声に思わず振り向くと、そこには勝ち誇ったような顔の土方先生が立っていた。
「そんな声で満足か?」
入学してから追い続けてきた先生の声がする。
ああ、なんて、どうしよう。
「私からはこれをやろう」
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆえに
乱れそめにし われならなくに
気付かれていた、気付いてくれていた、受け入れてくれていた。
私は後ろを振り返ることなく、土方先生の声に聞き入る。
声を発しているのに静かと言えるほど透き通り、それでいて深みのある美しい声。ずっと聴いてきたはずなのに、私の耳を、脳を、心を、この声が私の全てを支配する。なんて美しいのだろう。
この日以降、あの空き教室に入ることはなくなった。
参考・『宇治拾遺物語』35話・51話
・小倉百人一首 歌番号 14