※夢アンソロジー『黄金夢騒動』に寄稿した作品を修正したものです。
義妹の倅が大分賢くなったというので、店はその子と義妹に任せようと考えているらしい。杉村の家に貰われた彼女は、己に与えられた機会を逃さぬ為にと必死になって勉学に励んだそうだ。夜も手元が見えるようにと葬式用の太い蝋燭を使っていたと。それも菊灯の針が黒く汚れてから亦一本と換えていくそうな。家から工面して貰った彼女は帝都の製薬学科を修業し、正々堂々薬舗主を名乗って家業を継いだ訳である。
元々素養があって貰われた訳だから、女だてらに高等学問を受けて薬局を開業することなぞ不思議ではない。されどもこうして札幌にまで新たに店を構えようとは、あくまで彼女の質は変わらず「商売人」なのであろう。
偶にはと街へ出かけたのが良かったのだろう。化粧や衣服が乱れるのは嫌だったので、休憩がてら最近出来たばかりという喫茶店でくつろいでいた。漸く雪も解け、ほのぼのとした陽気に人々は浮かれているのか、顔に笑みを浮かべた者が多い。歪んだガラス越しに腕、頬、唇と値踏みをしながら、外を見つめて過ごす。丁度昼時でもあった為か、店内が混み始めてきた。私より先に座っていた客達に相席を頼む声が段々と近づいてくる。ああ、そろそろだと思い、ここは優雅に、女性らしく賑やかに快諾すべきと顔を上げて応対すると、安堵した店員の顔が見えた。そして、その顔色を良くした店員の後ろにいたのが彼女だった。畑仕事でもしていたのだろうか。袖をたすき掛けした老女は、しきりに礼を言いながら私の右隣へと座った。
ホテルの近くならまだしも、このように一見年の離れている老女は知り合いにいない。そう、いないはずだ。だが、私は何故かこの老婆が気になって仕方がなかった。私に話しかける口調というか、仕草というか。どうも既視感がある。老婆が日よけの為に被っていただろう手ぬぐいを取った時、釈迦の様だとからかっていた思い出が蘇る。そして違和感の正体に気付いた。
「永子?」
「・・・ん?どっかでお会いしたかな・・・・・・?」
窓の外がチカリと瞬いたように感じられた。
久しくこの身に宿った昂ぶりをそのままに、自身の「名」を告げると、あとはもう時間なぞあっという間であった。彼女は大きな目をこれでもかと開いて驚いた様だった。それでも彼女は「私」だと知った途端に、形の良い唇からハキハキとした音達を流れるように零していく。長いこと会っていなかった私への多くの問いかけ、そして彼女自身の歩み。驚きよりも嬉しさ。彼女の性格がよく分かる。
時計の短針が二時を指した頃、しばらくして彼女が小樽で暮らしていた話を聞かされた。何十年も前から遡った話だったが、飽きもせずそれら多くの音を丁寧に全て拾い上げた私も亦ある意味ではきっと、変わっていないのだろう。なんだか、まるで忘れていた幼子の頃の日記を開いてしまった気分である。
「わざわざ札幌くんだりになぞ、開かなくてもよいでしょう?」
なんとか永子が来る前までのペイスを取り戻したくて、いやに素っ気ない言葉を零したと思う。何年も会っていなかった私たちの間で流れて良い言葉ではなかった気がする。
けれどやはり彼女は気にしないようだ。カラカラと相も変わらず笑いながら、私の見た目に似ぐわぬ言葉に応えてくれる。
「くんだりなんて、小樽の方が下ってるじゃあない。こっちは向こうとは亦違った街だ。人も多いし、色だってある。私の頭を使うにはもってこいさ。」
「色・・・ねえ。薬局以外に花も売るつもりですか。この雪の地に。」
「そりゃあ女の子は花が好きだからねえ。少しはやろうかと思っているけども、・・・・・・よく分かったねえ。栽培してるって云ったかい?」
「永子と逢う少し前に、珍しい花を貰ったというお客さんがいたんです。もしやと思って。」
「ああ、あの子かな?旅をしてるっていう。珍しいったって、最近は結構色んなのが入って来ているんだけどね。まあここでは私くらいか。・・・・・・ああ、そういえばまた新しい種を買ったんだよ。」
案外、昔の様に話せるものだ。すっかり忘れていた彼女との会話も、話す感覚や息遣いも、ノオトの頁を捲っているように自然だ。
「何の種を買ったんです。」
「マアガレット。昔、教えたかな?今度植えるから、五月になったら見に来るといいよ。」
マアガレット。異国の花の名を聞いた途端に、私の心はどこか遠くへと逃げていった。けれども彼女の笑顔を絶やさぬため、私の口の端も上げ続けたまま、コクリと頷き賛意を示す。
「私好きなんだよねえ、マアガレット。まさか君に見せられる日がくるなんて!」
棒手振りをやっていた彼女は、時折私の家へと訪ねては花を置いていったものだった。初めてお茶を差し出した日には花菖蒲を、口論になった翌日にはコデマリを。何処で仕入れたのか分からぬ「花言葉」と共に私へを与え続けた。花の表す意味なぞ、髪の毛の一本ほども関心の無かった私だったが、親しくしている友が教えてくれるものは、嫌でも覚えてしまう。
マアガレットが好きなことも、私はずうっと知っていた。西洋の神話で、女神に献上されたという花だそうだ。その地の言葉で「真珠」。美しい宝物から「美しい容姿」の花言葉を与えられたマアガレット。我が国に自生していない花を、どうして彼女が知っていたのか。仕入れ先から教えてもらったのだろうか。この花だけは、いつものように花をみせず花言葉も教えなかった彼女に興味を惹かれ、出来うる限り蘭書を漁ったが見付からなかった。
維新の後に今上天皇の治世になり、彼女とも何年も会わなくなった頃、欧州のエゲレス出身だという外人教師と話すことがあった。日本と欧州の文化の違いやら医学やらで盛り上がっていたが、ふとした切っ掛けで、欧州では花言葉というものがある、と永子がかつて私に教えてくれた事を話すではないか。好奇心が甦り、胸が弾む。永子は花言葉を私に伝える前に別れている。何時また会えるかは分からない。今が好機とその外人にマアガレットの花言葉を尋ね、漸くその意味を示す処を知ることができたのだった。
その瞬間の緊張と昂揚、落胆といったらないが・・・・・・まあ緊張と昂ぶりは、正直もはや忘れてしまった。なぜなら彼女が望んでいるものを知ってしまったから、彼女が望んでいたものが外見であったという失望感が勝ってしまったから。
信じたくなかったのだ。彼女はそのような俗な欲望を抱かないと。だがそれよりも、私は己にも失望したのだ。彼女に自分の理想を押しつけていたという事実に。
彼女は博識だった。私の知らない事を知っていた。見た目の美醜など、彼女には必要ない。非現実的な発明やらを教えてくれ、己の目指す向きとは違えど、まるで賢者か聖人かといった彼女はもう、それだけで完成していた。まるで仙人だと、何度も思ったことか。それが、どうだ。「美しい容姿」だなんて。私のような人間ならまだしも。そう、思ってしまったのだ。彼女も俗人に過ぎないのだと。
「ほらほらこっち。ああもう、足下気をつけなさいな。ひょろっこいんだからさあ。手え貸すって云ってるのに。」
踵の高い靴では、柔らかな土の上はやはり歩きづらい。また、五月と雖も今日は少し風がある。涼しくてなによりだが、髪が視界を遮って中々に進むのが大変だ。永子に心配されながら、ふらふらと彼女の元へと向かって行く。
店が建ち並ぶ間にぽっかりと拓けた空間。道の側からその空間に入っていくと、少し奥の方に色とりどりの花が植えられていた。何時ぞやのコデマリも、少し咲いている。今は趣味で植えているこの畑は、薬局用の建物ができてもそのまま残し、綺麗なものを店先で売るつもりだそうだ。流石に昔の様には売り歩けないかと思いながら畑を見て居ると、一番手前の畝に、見たことのない白い花がある。
「これは・・・。」
「それがマアガレット。シンプルで良い花でしょう?」
これが、あの。
綺麗な花ではある。だが私には、あの花言葉が適切なようには到底思えなかった。いや、確かに均衡の取れた美しさもまた、容姿を気にすることに繋がるだろう。だが寧ろ、彼女本来の質というべきか、簡素であって美しい。内に秘めるものをこの花は表しているように感じた。
「・・・・・・美しい容姿。」
「・・・?・・・・・・何が?」
「・・・この花言葉なのでしょう?欧州の知人に聞きました。」
「・・・・・・ああ。なるほど。確かにマアガレットの花言葉さ。」
彼女なら知っているだろうと呟いた言葉は、彼女が思い描くマアガレットとは異なるらしかった。けれど、と彼女は続ける。
「花言葉はね、その花の色によっても違うんだよ。」
ふわりと袖を風に揺らせ、皺の深く刻まれた指でマアガレットの茎を摘む。畑には同じ花弁の色違いがいたが、彼女が摘んだのは白いマアガレットだった。その背の高い茎は真っ直ぐと、彼女の背を真似ていた。
「そうだねえ。私だったら、やっぱり・・・。」
風に揺れる彼女の髪は、もうすっかり白くなっている。目元だって笑い皺があるし、口元も随分と線が入っている。花の世話をしている為か、肌だって少し黒くなっていて、昔のような健康的な肌とは少し、違う。今の私であれば忌避するだろう容姿だ。
「そりゃあ、見た目が良いことには越したことがないさ。人間だもの、欲があってなんぼでしょう?けども、花言葉には自分の理想を重ねたいのよ。チカちゃんがどうやって今の様な見た目をしているのかは分からんけれど、こうして話をしていると、昔となあんも変わってないね。とくりゃあ、尚更この花をあげたいんさ。」
目の前にいた筈の老婆は、いつの間にか姿を消し、花行商の娘が一人立っていた。仕事終わりの永子が、私に向かって微笑みかける。胸元の高さまで摘み上げられた白い花が、永子の左胸の辺りで揺らめいている。
ああ、心はどうやったら美しくできるのだろう。この人の心臓を喰らえば、あるいは、あの白い花を。どうか早くこの花言葉を。
どれをとっても貴女に相応しい