雨上がる
桜屋敷の件から一ヶ月あまりが経つ。わかばは彦四郎の自室の中で大量の帳票を前に唸っていた。隣では別の書類を片付けている彦四郎がいた。
「うう、彦四郎先生、わかんないよー」
「はいはい、みせてごらん?」
わかばは彦四郎に帳票を渡す。それは今福塾に通う子どもたちの親から集めた要望書、つまりアンケートの事だった。事細かに項目が別れており、項目別に集計をしてもらうように彦四郎はわかばにお願いしたのだが、苦戦しているようだ。
「まず、漢字がわかりません!」
「あぁ、僕が教えてあげるから、わからないところがあったら聞きなさい」
「集計の内容多すぎです!」
「まず、項目を上げて書いて、そこから正の字を一角ずつ書くんだ。そうすればきちんと分けられる」
なるほど、とわかばは彦四郎の言われたとおりに項目を集計用紙に書き始めた。
こんなふうに二人は共に過ごす時間が多くなった。
事件の後虎谷城は柏派と桜派の実情が上層に知れ渡り、体制の見直しが行われ、柏屋敷、桜屋敷ともに駐在所の役割を一時停止してる状態だ。わかばもその影響をうけ、桜屋敷の奉公を辞めざるを得なくなってしまった。彦四郎に今福塾に通えなくなった旨を伝えると彦四郎はある提案をした。
「なら、今福塾の事務でもやるかい?」
「じむ?」
わかばは事務の意味さえもわからずにいたが、彦四郎が役割を説明し、今福塾の事務に就いたのだった。それにともない、わかばは今福塾を通うことをやめて彦四郎の元で住み込みで働いている。しかし、事務という仕事はなかなか細かい作業がおおく、大分知識は身につけたものの文字や計算は若干不慣れである。
(勉強もできて、お金ももらえて、生活もできる。助かるけど、先生は私をどう見てるんだろ)
彦四郎はあの告白のあと、何事もなかったかのようにいつもどおりに接してくれる。それがわかばにとって安心はできるが妙に物足りない気持ちにもなるのだった。
「先生、私本当にここにいていいんでしょうか?」
「え?どうしたの?」
彦四郎は作業の手を止めてわかばを見る。わかばは筆を置いてじっと集計用紙を見つめていた。
「先生の邪魔になってるだけかも」
恐る恐るわかばは彦四郎へと視線を向けると彦四郎は勢い良く首を横に振った。そして立ち上がりわかばのそばへと寄る。
「そんなわけないだろ?前も行ったけど、教師をしながら忍びの仕事もするなんて、僕一人じゃ絶対にうまく行かないと思う。でも君がいるなら、頑張れるから」
彦四郎はそっと微笑んだ。実際のところ、表向きでは教師、そして時として忍者として活動するためには近くに協力者がいた方が動きやすかった。
桜屋敷は停止してしまったが、その後庵餅から今後の動きを偵察するように彦四郎は忍者として雇われることになり、現在も続いている。気まぐれに伝七も協力してくれており、彦四郎は忙しい毎日を過ごしている。
「うふふ、彦先生のそういう前向きなところ好きです」
「こら、先生をからかわない!」
先生、と呼ばれ続けている彦四郎だったが、わかばが事務を始めてから彼女は今福塾の生徒ではなくなってしまい、教師と生徒という関係ではなくなってしまった。ただ今更関係を変えるというのも、妙な恥ずかしさがあり未だに先生と生徒、というような立場は変わらずにいた。
「おい、彦四郎。僕だ」
ふと外から声が聞こえる。戸を開けると伝七が正面の門から来ず、塀を乗り越えて井戸のある裏手からやってきたようだった。
「伝七、来たのか」
「ああ。なんだ、邪魔だったか?」
「伝七、君も僕をからかうのか」
伝七は彦四郎を冗談混じりにからかいながら自室へと上がり込む。三人はいるとちょっとしたきゅうくつさがある。わかばが棚から湯飲みをとりだしあらかじめ沸かしていた茶を淹れる。伝七は軽く会釈してその茶を受け取った。
「何しに来たんだよ」
「ふむ、仕事の話をしにきたんだが・・・。それよりもお前達まだ先生だの生徒だのと言い合っているのか?」
「言い合ってはないけど」
彦四郎の答えに伝七はバカにしたように鼻で軽く笑う。二人の関係をみる限り、わかばと彦四郎は明らかに生徒と教師の関係ではない。それを互いに無自覚に言い合っているのが単純に滑稽だったのだ。
「気づいてないのか。まあ、僕が言うことではないと思うが、一応言ってやろう。彦四郎、このアホはきちんと言わないとずっと”先生止まり”だぞ」
「うっ・・・」
伝七の指摘に彦四郎は赤面して視線を反らす。わかばは伝七の言った真意を理解できず首をかしげた。一瞬彦四郎はあーだのうーだの唸りながら視線をさ迷わせている。その間伝七はそしらぬ顔して茶を黙って飲んでいた。
「えーっと、うん。わかったよ。わかばさん」
「はい。彦先生」
彦四郎に呼ばれてわかばは背筋を伸ばして正座を直す。彦四郎は言葉を考えて歯切れの悪い様子でわかばに言った。
「あの・・・その”先生”なんだけどぉ・・・ええっと、ぼっ僕のことは普通に呼んでほしいというか」
「彦先生」
普通にわかばは彦四郎をいつものように呼ぶ。頭を抱えたのは彦四郎で隣で伝七は声を殺して笑っていた。
「先生は、いいんだよ。あっあの、名前で呼んでくれないか」
ようやく言いたいことを言った彦四郎はやはり顔が真っ赤になっている。生徒にたいしてこんな自分勝手な願いを言っていいものかと彦四郎は言ったそばから内心後悔し始めていた。しかしわかばはその言葉を聞いて笑顔を見せた。
「彦四郎さん、ですね!」
「う、うん。わかばさん」
「伝七さん!」
不意に名前を呼ばれた伝七は顔をあげるとわかばの細い指がにゅっと軽く伝七の頬をつまんだ。突然頬をつままれた伝七はぽかんと口を開けてわかばの手をつかんで避けた。そして心底嫌そうににらむが心なしか少し照れた様子だった。
「子どもみたいなことするなよな。まったくこんな子のどこがいいんだか・・・」
「彦四郎さんを困らせないでください!あと、アホじゃなくてわかばです」
「だからお前は怒るところが毎度ずれているんだよ!このっ」
伝七もお返しとばかりにわかばの頬を軽くつねった。じゃれあいのような喧嘩をする二人をみて彦四郎はじとりと伝七をみた。伝七は自意識が高い一面がこのように悪い方向に出てくることがある。二人の頬をつねる手を掴んで彦四郎は間に入った。
「こら、伝七。彼女をいじめるなよ。わかばさんも、気持ちは嬉しいけど僕はなれてるから大丈夫」
「彦四郎、甘いぞ。ちゃんと常識を教えなればいけないぞ。先生なんだから」
「さっきと言おうとしてることが逆だぞ。でも・・・」
ちょっと伝七が羨ましく思ってしまい彦四郎はふとつかんだわかばの手を離してそのままわかばの頬へと触れた。わかばは急に彦四郎に触れられて少し恥ずかしそうに身を縮めた。
「あわ・・・ひこせんせ・・・」
「あっ、また言った」
そのまま優しく撫でるようにほんの少しわかばの頬をつねると次はわかばが真っ赤になってしまう。伝七はやれやれというようにあきれた様子で肩をすくめた。
「あー、やっぱり来るんじゃなかった。お腹一杯だな」
伝七は立ち上がり懐から一枚の文を取り出した。それをそのまま彦四郎に手渡す。そのまま身を翻して伝七は一言言って立ち去っていった。
「それに次の仕事が書かれている。読んだらすぐ燃やせよ」
「あ、うん・・・ありがとう。伝七」
立ち去ろうとした間際にわかばは不思議そうにとっさに言った。
「お茶一杯でお腹一杯になるなんて、よほど伝七さんって少食なのね」
「はあ。やっぱりまだお勉強が必要だな」
とぼけたことを大真面目に言うわかばをみて、彦四郎は再び頭を痛めた。
すみません、と少し気まずそうに謝るわかば。そんなわかばの手を彦四郎は再び繋いだ。暖かく、心地良い加減に彦四郎は意識を鮮明にしていく。かかっていた靄は溶けるように消え始め、空から光がさしたように感じられた。彦四郎は獅子竹城の城主、清之助の笑顔を思い出す。屈託のない晴れ晴れとした笑顔。その顔を彦四郎はやっと思い出すことができた。手に染み付いていた人を刺す感覚は消えている。前に進めと、誰かに言われたような気がした。
──その日から、彦四郎が悪夢を見ることはなくなっていた。愛しいものと明日を待ちわびる希望が、彼の胸に再びやってきたのだった。
雨上がり(完)
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