彦四郎の影
三日後、わかばは朝の屋敷の仕事を終え、昼までの暇の間彦四郎の家に戻っていた。家主である彦四郎は先程町内の回覧板を回しに出かけてしまった。入れ違いに彦四郎は留守を頼むと言い残して外出していった。
「うふふ、"留守をお願いします"って!なんか夫婦みたい」
部屋を掃除しながらわかばは心を躍らせる。一通り部屋を掃除し終わったとき、ふと書斎が気になった。以前覗いたときは彦四郎は几帳面なのか本を丁寧に並べていた。あれからしばらく立つので乱れてないか気になったのだった。様子を見ようとどんでん返しに手をかけたとき、外から声がした。
「彦四郎、いるか?」
それは以前も聞いたことのあるような男の声だった。急いで門の前に出ると小袖をきれいに来た袴姿の長身の男が立っていた。男はわかばと目が合うと少し驚いたようだった。
「女の子?」
「あ、あの、彦四郎さんは今外に出てます」
「君は誰だ?彦四郎とはどんな関係だ?」
男の質問にわかばは答える。自分は今福塾の生徒であること、訳があって今は彦四郎の自宅に仮住まいをしていることを説明した。男は納得したような腑に落ちないような難しい顔をした。
「ふぅん?あいつが君みたいな人をねぇ」
「私みたいって、どういうことですか」
「アホっぽいってことさ」
突然失礼なことを言う男にわかばはムッと男を睨んだ。そんな視線も無視して男は高らかに言った。
「僕は伝七。彦四郎の友人で、まぁ、いわゆるエリートってやつさ!」
「えりぃと?」
「優秀な人物ってことだ。そんなことも知らないのか?彦四郎のやつ、なんでこんな子と一緒にいるんだ?」
「あ、彦四郎先生の事を馬鹿にしないでください!」
的はずれな言葉に伝七はずっこける。
「お前、怒るところはそこじゃないだろ!」
「私はわかばです。お前じゃないです」
この妙に高慢ちきな伝七という男は本当にあのおっとりと優しい彦四郎の友人なのかと思う。伝七は彦四郎がいないと知ると少し困ったような顔をした。彦四郎は回覧板を隣の長屋の大家に私に言っただけなのでそのうち帰ってくるだろう。わかばはこの客人を部屋にいれるべきか迷っていた。そして、先日の夜に思いふけたあることを思い出す。それは彦四郎についてだった。
「あの、伝七さんって彦四郎さんのお友だちなんですよね?」
「ん、あぁ。まあ、友人と言えば、そうだな。どうかしたのか」
「えぇっと、彦四郎さんってどんな人なのかなって気になって。あまり自分の事を話さないんです。だから、ちょっと・・・知りたいって言うか・・・」
わかばは彦四郎の事を今福塾の教師であること以外知らない。わかばの言葉を聞いて伝七はわかばからふっと視線をはずした。そして悲しそうに目を少し伏せて小さな声で呟いた。
「そんなに、忘れたいのか?」
「え?」
「いや。なんでもない。あいつの事なら色々知ってるぞ」
伝七にとって彦四郎は級友であった。つまり伝七も忍の人間なのである。彼にとって今福塾の教師である彦四郎の顔はほんのちいさな欠片に過ぎない。そして教師である仮面しか知らないわかばをみて伝七は一瞬迷った。彼女はなぜ彦四郎の事を知りたがるのだろうか。好奇心か、好意か、人の弱味を握って陥れるような人物には見えないが本当に彦四郎の事を知りたいのだろうか。伝七はわかばにきいた。
「君はただの彦四郎の生徒なんだろ?なんであいつの事なんて知る必要があるんだ?」
「だって、先生私にいつも優しくしてくれるんです。でも、先生にありがとうっていっても、勉強してほめられても、先生はいつも悲しそうなんだもの。それが心配なんです」
「・・・・・・」
伝七は今一度目の前の女性をみる。彦四郎が彼女を可愛がる理由がわかったような気がした。たしかに自分と比べれば理知は乏しいかもしれないが、人として大事なものを、わかばは持っているような気がした。
「いいだろう。あいつのこと、おしえてやってもいい。中に入ってもいいか?」
「はい!」
わかばは伝七を彦四郎の自室へと招き入れた。今はわかばが寝床にしているところだが普段は囲炉裏と長机が並ぶ質素な部屋である。そこにどこからかひっぱりだしてきた座布団を敷いて、わかばは囲炉裏に火をたき茶を沸かし始めた。
「まず、僕と彦四郎は学校が同じだったんだ。そこで一緒に勉強していた。仕事も、同じだった」
「教師のお仕事ですか?」
わかばがそう聞くと伝七は首を横に振る。やはり、とわかばは思う。「城」という言葉を聞いていたので、彦四郎はずっと教師であったわけではないのだろう。
「あいつの元の仕事は城勤めだった」
「彦先生は兵士だったのですか?」
「兵士・・・か。まあ、そこはあいつに聞いてくれ。とにかく、あいつは子供のときから不器用で、人がよくてまっすぐだったから、今思えば割り切りの機会が多い城勤めなんて仕事は彦四郎には不向きだっただろうな」
わかばには城など行ったこともないしそこで勤める者がどんな人なのか想像ができないが、彦四郎は昔から優しかったのだと知ってわかばはどこか安心した。伝七は少し考えていたが、決心すると一言言った。
「驚くかもしれないが、彦四郎は人を殺したことのある男だ」
「え?」
思いもしない言葉を聞いてわかばは背筋が凍る。乱世のこの世、しかも兵士かもしれないという話をしているのだから、そんなことは当然だと思っていたが。教師という一面しか知らないわかばにとって、先程の話を聞いていてもその実感がわかなかったが、伝七にはっきりと言われて戸惑った。
「あいつは、大事な人を自分の手で殺した事に、ずっと後悔している。教師になったのも、自分のしたことを悔やんで、考えないようにしてる為さ。彦四郎が君になんていったかは知らないが、あいつは教師なんて奴じゃない。それは仮の姿で、ここにあいつの気持ちなんてこもってはいない。君は彦四郎の事を、何も・・・」
「それ以上先生を悪く言うのはやめて!」
わかばは思わず立ち上がった。胸が張り裂けそうに苦しく、目頭が熱くなっていた。
「先生は、先生だもの。気持ちがこもってないなんてないわ。だって、私はここにいるんだから・・・本当にからっぽの人が、そんなことするはずない」
伝七は顔をあげてわかばをみた。彼女の頬に静かにこぼれていた涙は誰のためだろうかと伝七は思う。そしていままで思っていた疑問を思い出した。
「そういえば、なんで君はここに住み込んでいるんだ?」
「それは・・・」
「ちょっとみないところで人のことを勝手に話すんじゃない。伝七」
わかばが説明しようとしてふっと降りた声に顔を上げると険しい顔をした彦四郎がいた。手には隣の長屋の大家からもらったのだろう菓子折りを持っていた。伝七は驚いた風もなくすました顔で言った。
「大事な教え子に何も話してないお前が悪い」
彦四郎は立ち上がったわかばの側へとよって手拭いをとりだして頬に当てた。涙に気づいたわかばはとりつくろうために彦四郎に背を向けた。そんなわかばの様子に改めて彦四郎は伝七を睨む。
「言わなくてもいいことを話してるじゃないか。伝七、友達ならもっと他に言えるだろ?」
「彼女にありきたりなことをいってもわかばは納得しないと思ってね。お前のこと、よく知ってるみたいだったから」
涙を拭ったわかばは伝七の言葉の意味がわからずに振り返る。自分は彦四郎のことが知りたくて聞いたことだったが、伝七は自分はすでに彦四郎のことはよく知っているという。彦四郎はその言葉を聞いてはっとわかばの方をみた。
「僕のことなんて・・・いや、そんなことより、伝七”あの件について”来たんだろう?その、少し待っててくれ」
「なんだよ。追い返すような勢いだな」
「お前のせいだろ。彼女を泣かせて・・・いくら伝七でも、ダメだ」
キッと一際鋭く伝七を睨むと一言彼は「わかった。すまなかった」といって静かに立ち上がった。どうやら今日のところは帰るようだった。
「でも、僕が言わなかったところで、お前が言うとは思えないな。彼女はそれがわかっていたから僕に聞いてきたんだ。・・・彦四郎、わかるだろう?」
「わかった」
彦四郎が素直に頷くと、そのまま伝七は「失礼するよ」と相変わらずすました様子で彦四郎の家を出ていったのであった。
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