気持ちの変化
わかばが彦四郎の元に仮住まいをするようになってからしばらくが過ぎた。わかばが住み始めてまわりは注目し、彦四郎との関係を疑った。あの真面目で誠実な塾講師が同棲をしていると大人たちの間ではもちきりだ。先日も隣の長屋の大家に「先生、生徒に手を出すなんて、やるね」なんて言われてしまい、わかばは「手をだしたらなんで褒められるんですか?」と右手を差し出していた。彦四郎は真っ赤になって「わかばさんは黙ってて!」と彼女に言っていた。いろんな噂はたっているが、生活自体は平和に過ごせている。
「先生、最近宿題が難しいです」
ある日、夕暮れも過ぎた晩。夕餉が終わったあと、仕事から帰ってきたわかばが寝間着姿で机に向かってぶつくさ言っている。彼女は屋敷の仕事をしつつ彦四郎宅に帰っては今福塾の宿題をしている。難易度の高い問題を出されるようになりわかばは苦戦しているようだ。
「それがスラスラできるようになれば一人前です。頑張ってください」
そんなわかばにはっきりと言う彦四郎。はじめこそヒントを言っていたものの、上級の問題になればそれもなくなっていた。じっと本に目を通す彦四郎をみつめて、ふとわかばは気になっていることを聞いた。いつも思っていることだが改めて彦四郎という人物が知りたくなったのだ。
「先生はなんで先生になろうと思ったんですか?」
「え?そうですね・・・」
突然の質問に考えて、彦四郎は忍びをしていた頃のことを思い出した。ひたすらに感情を殺して城主に忠誠を誓ったあの頃、教師になろうなどとは一寸も考えていなかった。そんな自分がなぜ忍びから足を洗いこの道を選んだのか。その問に彦四郎は自嘲を含めた薄ら笑いをする。
「自分助け、ですかね」
「人助け?じゃなくて?」
「結果的にそうなれば私も救われます」
城主の介錯をしたあの後、教師になることなどに理由はなかった。ただ過去に背を向け、忍びの自分を消してしまいたかったのだ。先生などと言われているが、本当は自分にはそのように呼ばれる資格がないのだと彦四郎は思う。
「そうなってますよ!」
わかばの言葉に彦四郎は本を閉じた。そしてなぜか恐る恐る、わかばの顔を見る。わかばは笑顔だった。
「私、先生のこと見て、ここにしようって思ったんです。今福塾じゃなかったら、勉強しなかったかもしれないし、お嫁さんになることも諦めてたかも・・・」
「ありがとう。わかばさんこそ、どうして結婚したいって思うんだい?」
わかばは照れたようにはにかみ、彦四郎に言った。
「私ずっと一人だったから、でも結婚すれば一人じゃないんですよね?家庭に憧れてるっていうか・・・あの、やっぱり無理ですか?」
無理、という意味合いが理解できず首を傾げる彦四郎。自信なげにしゅんとしてわかばは続けた。
「私みたいな教養のない女の子なんて、みんな嫌がるかしら・・・」
「そんなことはないと思いますよ。その、わかばさんは努力してますし、私の身の回りも良くしてます。きっと嫁入り先はすぐ決まるでしょう」
「ほんとうですか?うふふ、彦四郎先生みたいな人がいいな」
彦四郎はふとわかばが結婚したら、と考える。その時はもうこんなふうに近くで話すことなどないのだろう。その事に心底残念に思う自分がいることに、彦四郎は気が付かなかった。
「そのためにはその問題を解かなければなりませんね」
「うーん」
話を戻すと難しい顔に戻ってしまったわかば。そんな彼女をほほえましく見守りつつ、彦四郎は本を読むしぐさをしながら別の事を考えていた。それはわかばがここに仮住まいをすることになった原因の、柏派と桜派の事である。彦四郎はあの後、しばしば柏派と桜派の調査を行っている。屋敷の関係者を尾行したり、辺りの情報収集を行っている。両者互いに緊迫状態を保ったまま北と南の関係を続けている様子だ。ただ、一点気になったことがある。
(どうも、わざとらしいんだよな)
そう、これ見よがしに柏派は桜屋敷を焼くなど噂を立てる不自然さもあり、彦四郎の忍の勘が別の思惑があると言っていた。そして彦四郎の脳裏に、柏の屋敷へ入っていったある一人の桜派の背中姿が思い出された。
「できた!先生!できました!」
そこまで考えてわかばの声にはっと顔をあげた。わかばが笑顔で彦四郎を見ている。わかばは彦四郎の側に寄り宿題を見せた。それを手にして彦四郎は答えを見る。答えは正解だった。彦四郎は微笑んでわかばを見やった。
「よくできました」
「うふふ。先生、私もう一人前ですか?」
「もうひと踏ん張りです。でも、これがすらすら解けるようになったらうちの塾も卒業が近いね」
わかばはその言葉に少し悲しそうな顔をした。そして宿題の紙を自分の手に戻し、それをじっとみていた。わかばは彦四郎に誉められて嬉しい反面、今福塾に通わなくなる事を考えていた。こんな風に彦四郎に誉められることも怒られることもなくなる事が、なぜか寂しく感じられる。教養を学び、結婚するという夢も叶えられるというのに、彦四郎の言葉を聞いて素直に喜べなかった自分に戸惑っていた。
「彦先生」
「はい」
「先生は、夢ってありますか?」
今日は何故だか質問ばかりだと彦四郎は思う。夢と聞いて学生だった頃の事を思い出した。学生といえどそこは忍者の学校で、彦四郎はそこで六年間学んで忍びになった。あの頃は常に勉強して、ひたむきに忍者になることを考えていた。しかし、今はあの頃のような明白な夢というものがない。自分に目標がない一日一日は、妙に霞がかかったような、ぼんやりしたように思えた。
「君がちゃんと夢を叶えることが、夢ですかね」
「私の?」
「塾に来る子達は、夢を持ってくるから。私は彼らの夢を叶えるのが、目標なのでしょう」
紛れもなく本心であり間違いではなかったが、やはりどこか空っぽに、言い訳じみた風に聞こえた。そうなのだと自分に言い聞かせているようにも思える。とことん自分と向き合うことが苦手なのだと思った。わかばの眼差しをみると彼女はまっすぐにこちらを見返していた。その視線に、彦四郎はどこか息をつまらせたような胸の苦しさを感じた。
「先生ってお仕事は、いつも人を想うのね。私自分の事ばかりだから。彦先生、尊敬します」
「・・・・・・」
その言葉に彦四郎はなにも言い返せなかった。尊敬などと言われれば、返す言葉などいくらでもあった。しかし彦四郎はその言葉が釘のように刺さってしまったのだった。なぜなら自分はいつも本心を隠していたからだ。あの時、本心を言っていたらなにかが変わったのだろうか。城主であった清之助に、生き延びてほしい、死なないでほしい、自分がとどめをさすなど、身を裂く思いであると言えば、なにかが変わったのだろうか。彦四郎は目の間にいる華奢な体つきの女性を見る。なにか伝えなければならないと口を開けたが、やはりなにも言葉は出せなかった。
「彦四郎先生?」
「ごめん。僕・・・少し考え事があるから。もう部屋に戻るね」
彦四郎は素の自分に戻りつつあった。そんな彼にわかばは妙にしおれた雰囲気さえする彦四郎に違和感を感じたが、黙って頷いた。彦四郎は立ち上がりどんでん返しを動かしてのそのそと書斎へと戻っていく。わかばはそれを心配そうに見送っていた。そして心である疑問が浮かんだ。
(やっぱり、彦先生って、どんな人なんだろう。気になるなぁ)
それは教師としての彼ではなく、一人の人物としての疑問だった。これまで塾の時間でも度々思うことで、いつも落ち着いていて穏和な表情の彦四郎だが、その過去については全く知らなかった。そういえば、ふと以前いた彼の友人の事を思い出す。彦四郎は彼に「城」という言葉を言っていた。
(あの人、またこないかな)
なぜか彦四郎本人に聞くのがためらいがあったわかば。次会うことがあれば話しかけてみよう。そうおもって、宿題を片付けて用意した寝床につき明かりを消した。
──しかしわかばがその友人と話す機会が来るのは、案外すぐにやってくるのだった。
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