op.01
渚のローレライ


「南イタリアはカラブリア州の海沿いに位置するちいさな村に、アクマが出現した」

 コムイさんからそう聞かされたのは、前回の任務の傷もほとんど癒えたころのある日、朝食を食べ終えたあとの事だった。
 任務がないなら1日体術の訓練でもしていようかな。昨日やっと左腿の包帯がとれたから、そろそろ休んだぶんの勘を取り戻しておかないと。なんて考えていたところに舞いこんできた任務の話だ。

 いつだってどんよりとした暗い雰囲気の教団の空とは裏腹に、持てあましていたヒマな時間が終わりを迎える事に僕の表情は自然と明るくなった。
 べつにやろうと思えばもっと前から食堂でのアルバイトや、足に負担を与えないていどの鍛練ならできたんだけど、包帯がとれるまでは眼光炯々とした婦長の視線が刺さるものだからあまり大っぴらな事はできないでいたのだ。

 書類がなんとか避けられ僅かばかりの道となって露出している白い床を気をつけながら進む。指令室の壁となっている隙間なくぎゅうぎゅうに本が押し込められた本棚の棚板に刺さったピンに、ロールスクリーン状の地図を引っかけていたコムイさんが早かったね、と笑って迎えてくれたのがついさっきの事だった。


「村の北側には切りたった崖があってね。その頂上の崖岸にはさびれた教会が、村から取り残されたように手入れもされずぽつんと建っている。ふだんは誰も近づかないんだけど、2週間ほど前に偶然夜遅く、その近くを通りがかった村人が聴いたそうだよ」
「……な、なにをですか?」

 怖い話を聞いている気分になって、続きをうながす前に思わず唾を飲みこんだ。

「歌だよ。夜になると時折、教会から歌が聴こえてくるようになったそうだ」

 波が崖を打つ音だけしか聞こえない荒廃した夜の教会。聴こえる歌声。仄暗いなにかを連想させるには打ってつけの題材だろう。
 怖い話の定番すぎる流れに鼻で笑いたい気持ちと裏腹に、背筋を冷たいものが走った気がした。

「それは女性のたいそう美しい声で聴くものを惹きつけるが、声の主を一目見ようと教会のなかを覗いても影一つ見当たらないんだとか。それでもどこからともなく歌う声だけが聴こえ続ける」

 神秘的な歌声を想像するべきなのか、亡霊の歌声だなんてと身震いするべきか。ホラーな気分にはなるになり切れないところのある内容だなと胸中あいまいな感想を生む。
 いや、僕の顔色が悪いだなんて気のせいですよ。コムイさんったらやだな、はは。

「とはいえ奇怪というほどの現象でもないし、良くも悪くもそれだけだったから一応探索ファイ部隊ンダーを向かわせるだけ向かわせておこうかなって結論を出したのが5日前。初日はたしかに噂の声が聴こえたらしいんだけど、原因究明には至らずでね」

 それがイノセンスの起こす奇怪現象ではないかとコムイさんは考えていて、今回僕がすべきはその奇怪を解いてイノセンスを回収してくる事なんだなと見当がついた。けれどそれは当たらずも遠からずというべきか、すこしばかり違ったらしい。

「調査も2日目に入ったところで、どうやら伯爵側もイノセンスの可能性を見出したようでアクマが出現しだしたそうだ。歌声も初日以降は聴こえないままらしくてね。ひとまずは夜に数体うろついているらしい村人の皮を被ったアクマを破壊するのが君の任務。今のところ数は3体、すべてレベル1。歌声の謎も解けそうなら解いてきて」

 そんな投げやりな。脱力しそうになったけど、何気にはじめての単独任務だ。たった3体のアクマだなんて軽視せず、気を引き締めていかないと。


 ◇


 交通の便の悪いちいさな村は、美しいマリンブルーを臨む黄土色の家々が自然と調和し立体的に配されたひとつの山のような集落だった。
 汽車の停まるひとつ手前の町まではまだ日も高かったのに、そこから鬱蒼とした山をこえて目的の村に着くころにはもう薄暮れも迫っていた。マリンブルーのはずの海にもすでに赤や黒が垂れこんでいる。あともう少しだけはやく着いていれば、今日は快晴だったから黄昏にかがやく美しい海を見られただろうに。

 現地調査をしていた探索部隊のアニマトと落ち合うと、ここまで案内をしてくれた探索部隊のシーヴォはどうやらこのまま別件の調査へと向かうらしい。もう暗くなるから明日の朝にすればいいのにと思ったけれど、ガタイのいいおじさんであるシーヴォが笑顔で豪快に手を振ったので、こちらも感謝を口にしながら手を振りかえした。

 今回の探索部隊は2人ともお喋りなほうらしく、移動中もただただ険しい道を進み続けるだけにはならなかった。
 ひょろ長いアニマトは用心深い性格らしく、非戦闘員にもかかわらず気配に敏かった。だから、アクマにも気づかれずに済みました。フードを被っているために見えない後頭部をかくようにして彼はそう言った。
 じつはちょっとだけ霊感的なものもあるんですよ。だなんて得意げになって付け加えだす。
 アクマにはとくに思うところはないんスけど、あの教会にはなにかありますね。アクマじゃないなにか。自分の霊感が反応してます、出ますよあそこ。すがたは今のとこ視えないですけど。
 ウォーカーさんはアクマの魂が視えるんですよね?もしかしたら自分より霊感あるんじゃないスか?声の正体も視えちゃったりして。いやきっと視えますよ!
 おいおいそれ以上は止めてくれ。


 今日までに確認できたアクマはコムイさんから聞いたときと変わらず3体。日中はふつうに村人として生活をして、夜になると教会をうろつきイノセンスを探しているようすだという。
 時折噂を聞きつけたらしい村人が夜の帳とともにすがたを消し、翌朝教会のちかくで衣服だけが見つかると村では問題になりはじめているらしい。
 十中八九教会をうろつくアクマの仕業だろうけど、もしかしたら歌声もアクマが村人を誘いだすためのもので、イノセンスを探しているのではなく単に興味本位で訪れる村人を待っているのかもしれない。いや、奇怪現象になぞらえることで、派遣されてきたエクソシストを殺す事こそが目的だとしたら……?これは罠かもしれない。
 いやでも、それだとアクマが出現するようになってからは歌声が聴こえてこないというのはおかしい。最初のころは歌声を聴くほど近くまで行った人たちも、ふつうに帰ってきていたようだし。

「………………ダメだ」

 考えるのをやめよう。複雑に考えたところで、情報が足りなさすぎてとうてい結論には辿りつかない。用心だけして足を運ぶしか、結局のところ解決策はない。
 夜が更けるまでに村人たちからもう少しだけ情報収集でもしようかと聞きまわっていると、なにやら噂は不穏なほうへと変わりつつあるようだった。

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