op.02 クラシック界の女神
ヨーロッパのとある場所、切り立った崖はその頂上を雲がおおうほどに高く、それを隠すにはうってつけだ。
いつだって薄暗い空になじんで監視カメラと呼び鈴がわりのゴーレムたちがそこかしこでパタパタと羽音を鳴らしている。頂上目前の小道までたどり着くと唐突に手すりがつくが、手前は断崖絶壁なので意味があるのか分からない。
そもそも関係者や手順を踏んだ正式な客ならば表からは分からない水路を使うので、正門前といえどもこんな道ですらない経路をたどるのは、それを知らないような歓迎されていない客、つまりは厄介避けのようなものなのだろう。
まあ、その手順を知らないうえに師匠の雀の涙ばかりの良心である紹介状も机の肥やしにされてしまっていたらしい僕に関してはここへきた当初、素直に断崖絶壁を登りきったうえでとうぜんのように一悶着あったわけだけれど。
自室のベッドをソファがわりにして硬い壁に背をあずけたまま僕は呆けていた。
霊の歌声が人とアクマをいざなった南イタリアでの一件からは5日が経っていた。そのあいだに僕は任務をもう一件こなしていて、その時できたケガのために服に隠れてはいるものの身体にはいくつか大げさな包帯が巻かれていた。
体調悪いの?とあたらしい任務について説明の最中コムイさんに。
ほんとうに大丈夫ですか?と任務までの道すがらで探索部隊に。
挙げ句はぼさっとしてるなとアクマとの交戦中に神田にまで言われて、その結果がこの体たらくだ。
それでもいまだ気にかかるのは直前の任務での失敗ではなく、歌声の主である少女に関してだった。
「ほんとうに死んでいたか、か」
あの時のアニマトの言葉がやけに引っかかる。たしかにその幽霊はアクマの魂を映しだせる僕の呪いの左眼を通さなければ視えないし、その僕も含めて触れる事はできない。浮いていたし、むこうの景色が透けていた。幽霊には間違いないけれど、それは口を開けばどこまでもふつうの反応を返し笑い、怒り、悲しんだ。死人だと納得してしまうのは少々早計というものだった。
当の本人が目の前から姿を消してしまっては、それも確かめようがないのだけど。
「でもミーア……どこにもいなかった。天国にでも行っちゃったんですか?」
あんなに急に。問題となった歌声は聴けずじまいで、まだ話だって途中で消えてしまって。そのままなんてひどいじゃないか。
「行かないよ?」
「うわっ!」
とつぜん近いところから高い声が聞こえた。僕のほかには言葉を交わせないゴーレムのティム・キャンピーしかいないはずの部屋で、それは本来ならあり得ない事だった。
大げさに飛びあがったせいでベッドが悲鳴をあげる。おなじように跳ねたティムがそのままベッドから転がり落ちた。
ごめんね、そんなに驚かれるなんて思わなくて。神出鬼没の幽体はいきなり声だしちゃダメね。失敗失敗。……ってそれだと私一生しゃべれないじゃんやっぱり却下で。
さいしょから反省の色はとくにない声色で、すらすらと淀みなく話すものだから口を挟むタイミングがない。けれど可愛らしいその声には覚えがある。それどころか、この声を僕は待ち望んでいた。
「なっ、えっ……ミーア!?」
「アレンやっほ。また会ったね」
見えやすくするためかしっかり部屋の中央にどこからか移動してきたその姿はやっぱりむこう側の壁が透けていて、彼女の軽快に挙げた手にはそのむこう、僕が壁に貼りつけたW今月の借金返済目標Wの文字がうっすら映りこんでいた。
海を思わせる澄んだ碧眼といかにも柔らかそうにふわふわと波打つプラチナブロンド。変わらない容姿はけれども、5日前とまったく同じではなかった。
前と同じ足首までのワンピースは幽霊的な白ではなく紺色で、白に近い水色で百合のようなおおきな花が女性らしくあちこちに描かれている。ホルターネックの首元から胸元まではこちらも紺で彼女自身のように透けたうすく細かい網目状の素材(ドットチュールというらしい)が使われていて、全体的にずいぶんと華やかな装いをしている。
着替えをする幽霊だなんて前代未聞だ。
「ところでココどこ?あの村じゃないよね」
部屋を物珍しそうに見まわす彼女の口ぶりから、ミーアの意思でここに来たわけではないらしい。
状況判断ができていないのは僕も同じだけど、ひとまずここは黒の教団であり、この部屋は僕アレン・ウォーカーの個室だという事を教えてあげた。
「えっ……私誘拐されちゃった?」
触れもしなければ、とつぜん消えてしまった人をいったいどうやって連れ去るっていうんだ。わざとらしい声色をした彼女にじとっとした視線を送れば、やだな冗談でしょ、と笑われた。
「てことは、アレンが必死に説得して連れてこようとしてたのはここなんだね」
「必死にはなってませんよ」
「えーそうかな?まあいいや」
それじゃ、覚悟決めちゃいますか!言葉のとおり、なにかを決心したというように分かりやすくポーズをとったミーアに、おもわず首をかしげる。いまの流れでなにか意気込む事があったろうか。
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