家の隣の敷地にある剣道場での稽古が終われば、引き続き父の指南を仰ぐ奏とは別れの挨拶をして、次は母が家元をしている離れで華道の稽古に移る。
そうしてようやく誰もいない母屋にただいまを言う頃にはぼんやりとした薄明が訪れようとしていた。
今日は学校から稽古場までが慌ただしく、私服まで取りに行く時間が無かったので高校の制服に着替え直していた。右手に学生鞄、左手には道着と着物がそれぞれ入ったお稽古鞄。それらを一度玄関の脇に置き、鞄から鍵を取り出す。
すると鞄の中の紙袋とぱちりと目が合う。行きつけの本屋のロゴを見つけると共に一度は忘れていた早く読みたい気持ちがむくむくと湧いて出るのを自覚してぐっと堪える。母が戻るまでの間に夕食の下拵えくらいは最低限終わらせておきたいところなので、休んでいる暇はない。
就寝の準備まで終わらせてから、眠る前にゆっくりと読もう。最初からそのつもりでいたのだから問題ない。
就寝前に読んでしまうと頭が冴えて眠れなくなってしまうかもしれないけれど、読まずにそわそわしている方がきっと眠れないに違いないし、是非とも明日奏と感想を言い合いたい。
明日も放課後は剣道の稽古があり、その後は茶人の母とお茶を嗜む。これは数年前の時点で既に免許皆伝の太鼓判を押されている。月に2回ほど華道教室の予定が空いている日に、作法を忘れない為に行なっているので新しく何かを学んだりする訳ではない。
とは言え今日とほとんど変わりないタイムテーブルで動く事になるのだから、明日の昼休みを逃せば後は明後日の休日まで奏とゆっくり話す時間は無さそうだ。やっぱり今日中に読む事にしよう。
さて、この思考はここまでにして、今日の夕飯の献立に頭を切り替えなければ。鍵を回しながら冷蔵庫の中身を思い出すけれど、残念ながら一つとして思い浮かべる事は叶わなかった。
手を掛けた引き戸の向こうから、不意に耳慣れた呼び鈴の音が届いた。来客を示すそれに振り返れば、門の向こうには確かに誰かが立っているようだった。門扉の上の高いところをアーチのように囲う松の木に顔の上半分が隠れてしまっているから、それなりに長身で、背格好からは男性の印象を受けたけれど、薄明かりなのもあってそれ以上の情報は分からない。
宅配かなと思いながら短く返事をする。踵を返しそちらへ歩き出すと、どうも私服を着ているらしい事が伺えた為業者では無さそうだった。
父の門下生かもしれない。そうだとしたら父はまだ道場の方にいると伝えてあげなければ。けれどこのシルエットに該当しそうな人が思い当たらなかった。
「……っえ、どうして」
どなたですかと尋ねようとして口を開くより早く、手のひらが勢いよく伸びてきた。門のへりに足を掛け始めた時点で反射的に歩みを止めたものの、少し遅かったらしい。
咄嗟のこともあり私の肩程の高さの門から上半身を乗り出した状態での腕からは逃れる事は出来なかった。薄暗い中ようやくひとつだけ分かったのは、目の前にいるのは帰宅途中に寄った本屋の、あの店員だったということ。
どうして家を知ってるのかなんて考える余地すらないまま、吐露した声が不安と混乱に圧されて上擦った事を自覚する。
「は、離し……」
「待ってって言ったのに無視なんて酷いなあ。せっかく勇気出したのに台無しだよ」
今度は逃げないでねと念を押されたけれど、到底逃げられる気のしない程にはしっかり腕を掴まれている。
浮かべられた笑みは昼間と同じようでいて、目だけが笑っていないせいだろうけれどただただ恐怖心しか沸いてこない。あの時と今では雰囲気がまるで違った。
顔見知りの店員さん程度なのでこちらが素なのかと考えても分かりようがないけれど、これまで同じように声を掛けて来た人達は皆一様に態度が豹変する事が多かった。一方的な声掛けでも、こちらがお断りするのは許されないらしい。恐怖心にその身を隠しながらも、心の隅でまたかという諦めが息衝く。
奏は今いない、まだもう暫く父に稽古をつけられている時間だ。隣といえど大声を出したとしてもさすがに稽古中の物音の中届きはしない。
母も片付けを終えるにはもう少し時間が必要だろうし、むしろこれまでの経験から危険な目に遭わせてしまう可能性は十分にあるからその方が都合が良い。そうなると当然華道教室の離れには戻れない。
通行人もこの辺りは多くないから、偶然通りがかった人に助けを求めるという選択肢は望めない。
頭の中でどうにか訪れる可能性のある助けを考えるけれど、残念ながら助けは多分、来ない。それなら自分で行動を起こす事を考えなければいけない。
でも、私ひとりでどうすれば良い?
腕を掴まれたこのままの状態では大して身動きは取れないけれど、幸い相手との間にはまだ門扉があるから振り解く事は難しくないかもしれない。
けれど玄関戸口の横に鞄ごと置いてきてしまっている携帯を取りに行ったとしても、誰に助けを求める?警察を待てるほどの時間はない。
家の中に身を隠す?換気に開けている窓を全部閉めるより、外から侵入される方がきっと早い。この人のいる玄関を一度通らなければ、隣の剣道場にも外にも行けない。
考えの纏まらない思考は鼓動の煩さも一因かもしれない。
ずっと幼馴染みの優しさに甘えて来た。
このままじゃだめだと思いながらも、ずっと何もせずにいた。
“このままじゃだめ”なのは今もそう。
けれど逃げる事も誰かに頼る事も出来ないのなら、恐怖に立ち向かうしか道は無い。
「離して、下さい」
やっぱり声が上擦っている。なるべく手短に終わらせてしまいたいのをぐっと抑えて、聞き取り漏れで聞き返される事がないように、明確な発音を心掛けてゆっくりと意思表示をする。
「あ、貴方とお友達になる事も、週末どこかに行く事も、お付き合いする事も…………私、出来ません」
立ち向かうと決めたものの続いて口をつく言葉が出て来る気配はなく、次の反応がどう来るのかはただただ怖く、不安でしかない。落ちていく視線を誤魔化すように目を瞑れば、ふと掴まれていた腕が解放された。
もしかして、分かってもらえた?
一縷の希望を胸にそっと瞼を開く。
そこまでは良かったのだけれど、開けた視界に飛び込んで来た景色その全てが、何故だか昔のモノクロ映画かのように色という色を失っていた。
唐突過ぎるそれに数秒固まりつく。
時が止まったように目の前の人物は微動だにせず、腕を掴んでいたその手すら目を瞑る前と何ら変わりない形で止まっている。離してもらえたというよりは、こちらの手だけがそのまま擦り抜けてしまったかのよう。
元が閑静な住宅街ではあるけれど、それとは一線を画して一切の音が聞こえないここはまるで本当に周囲の光景が画面越しの、自分とは関係の無い次元にある映像か写真のようで、異様としか言えない。
けれどそれも束の間の事で、みるみる内に無彩色は渦を巻くようにして白は黒へ、黒はより深い黒へと変化してゆく。
目の前の人物も、見慣れた門や松の木も、後ろの我が家も黒に塗り潰されて全てが綯い交ぜとなった一筋の光すらない空間で、今度は地面すら無くなってしまったかのようにぐんと重力に引っ張られる感覚がした。
慌てて藻掻いても声を上げても最早地面はどこにもなく、自分の声すらも闇に吸収されたように全く聞こえない。ひたすら落下し続けているような感覚だけが恐怖を助長する。
私の決意を全く足りないと嘲笑っているかのようなタイミングで起こったこれは、天罰だとでも言わなければ説明が付きそうにない。
いつかこの闇が晴れた先で、私の身体は地面に激突してしまうんだろうか?
それとも気の遠くなるほどの黒に呑まれ続けて、このまま…………
嫌な想像しか生み出さない黒から目を背ける為きつく瞼を閉ざすと、突然その先に光を感じた。驚くほど急速に胸の中の恐怖と不安が溶けてゆく。恐る恐る目を開けば、変わらない黒の中にたった一つぽつんと、けれど眩しいほどの光が存在していた。
それは光を何方向にも反射するよう複雑に加工された宝石のように光を受けて白に、そして闇を受けて黒に輝く。まるで私を取り巻く黒は闇では無く、黒い光だとでも言いたげなその美しさに目が反らせない。
「黒いダイヤモンド……?」
自然と漏れた声は自分の耳にも届き、先程と違い声が通っている事に気が付く。落ちている感覚はもう無く、けれど地に足を付けている感覚も無い。
まるで無重力かのように不安定な動作しか出来ないものの、さっきまでと打って変わって危機感というものは自分でも不思議なくらいに感じない。思考の鈍りはまるで微睡みの中にでもいるかのよう。
────Are you all right?
遠くから聞こえるかのように小さな声がふと耳に届く。
焦りを含む声はけれども夢の中のようにくぐもって、その声色に反して私の心はやけにゆったりと凪いでいた。
糸のようだった目の前の無数の光が声を合図にしたように徐々に自分から見て天へと昇るように集束していき、扇状になったそれは例えるなら映写機のようだと思った。光の先のスクリーンではなくその光自身が薄っすらと模様を浮き上がらせるかのように白と黒で分かれ始める。
────what should I do…….
Aww,Please don't cry.
またしてもモノクロ映画のように映し出された何かは、どうやらひとりの人物を形作ろうとしていた。
ぼんやりと塗り分けられたその殆どが白に近く、肌よりも明るく表現された髪は肩までは届いていない。
自分とは対照的な明るい色のショートヘアと言うと軽率に幼馴染みの姿を思い浮かべたけれど、彼女にはない頬を縦に走る赤が、そこだけ色を思い出したかのように鮮やかに色付く。
幼馴染みでは無いけれど、その赤には既視感がある。
「…………アレン?」
まるでそう、近頃凝っている物語の登場人物その人の容貌をしている。そう思い至り、声に出した途端に遠ざけようとするかのように光が再びぐにゃりと歪み出した。
微睡んでいた頭がそのまま比例するようにくらくらとして重みを増していく。
消えてしまうのが惜しくて、揺らぐ視界と酷く気怠い身体を突き動かして恐る恐るその光に手を伸ばせば、存外近いところにあったらしいそれは呆気なく指先に触れたような感触を与えた。次の瞬間、それが一体何なのかを確認する間も無く訪れた明転。
私はその眩しさから、もう一度きつく目を閉じたのだった。
2020.08.16
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