熱い雲から大粒のみぞれが降る朝だった。
城の正面には、凍えるような寒さにも関わらず、マフラーを巻き寒さに唸りながら外へ向かう生徒で溢れている。
そんな生徒の波から少し離れた場所で、アリアは白い息を吐いた。風に流されていく吐息をなんとなしに見送る。冷えた指先が窓の隙間から舞い込んできたみぞれの粒に触れて、アリアは裾の中に指先を隠した。

「あら、ホグズミードへは行かなかったの?」
「……ディリグロウト」

朗らかな声を無視して合言葉を唱えれば、太ったレディは気を悪くしたようで、フンと鼻を鳴らして道を開けた。室内の暖かな空気が心地よく肌を包む。
ほとんどの生徒はホグズミードへ出かけて行ったので、いつも賑やかな談話室も今日ばかりは静かだった。部屋の隅で1年生が数人お喋りしている他に人影もない。
アリアは暖炉の前の、一番ふわふわなソファに腰かけた。こんな日でもない限り座る機会のない場所だ。背凭れに深く沈み込んで、借りてきたばかりの本を膝に乗せたまま、目を閉じる。
新学期が始まって1ヵ月半が過ぎた。状況はたいした変化も進展もなく、ただ膨大な課題に追われるだけの学生らしい生活。授業で顔を合わせる以外、ドラコともほとんど接触していない。彼にとってはその方が都合がいいのかもしれない。だがアリアも、この状況のままで黙っているつもりはなかった。

目を開けて、重たい本を持って立ち上がる。この本をベッドに置きに行って寮を出たら、ちょうどいいくらいの時間だろう。時計を確認して、アリアは女子寮へ続く階段へ足をかけた。



再び廊下へ出て数分。アリアは変身術の教室から少し離れた廊下の隅で、ルーン文字のポケット辞書を開いて時間をつぶしていた。弱い風が吹き抜けるたびに首元にローブを手繰り、肩を窄めてページを捲る。
10分も経ったころ、扉がきしむ音でアリアはようやく視線を上げた。変身術の教室の古い扉が開いて、隙間から不満そうな顔が現れる。凭れていた壁から背中を離すと、同時に苛立ったグレーの目と視線が絡んだ。

「アリア……?」

持っていた辞書をポケットにしまい、冷たい壁に熱を奪われてすっかり冷えてしまった背中を伸ばした。下を向いていたせいで少し肩が重い。深呼吸しようと息を吸うと、そのままくしゃみが出た。少し身体を冷やし過ぎたのかもしれない。
そうしているうちに、目を丸くしたドラコがさっと傍へ歩いてきた。その顔を見上げて、ふっと微笑む。

「罰則、お疲れ様」
「ホグズミードへは行かなかったのか」
「いつものことだけど、ひとりで行ったってつまらないもの。特に買いたいものもなかったし」
「……ザビニが君を誘ったって聞いた」
「その誘いを、私が受けると思っていたの?」

くすりと笑いを零して、アリアはドラコの手を引いた。ドラコの手は温かかったが、アリアの冷たい手に触れられても、彼はその手を払いはしなかった。
目的も告げず歩き出したアリアにドラコは疑問の声を上げるが、アリアは応えない。黙ったまま足音のひびく廊下を進み、廊下の先の空き教室へ入る。きしむ扉を閉めるころ、アリアの笑顔はすでに消えていた。

「私がなにを聞きに来たか、わかってるでしょう?」
「…………」

真っ直ぐ見つめて問えば、ドラコは口を噤んで眉を寄せる。音のない時間がしばらく続いた。大粒のみぞれが窓にあたる微かな振動だけが空気を揺らして、吐く息を白く濁らせる。ドラコは口を開かないまま、何度かまばたきを繰り返した。

「……時間は、まだある。いろいろ試しているんだ」
「何度聞いても何も教えてくれないのは、私に関わってほしくないと思ってるから?」

絞り出したような言い訳に、間を置かずそう問いかける。ドラコが視線を上げてアリアを見た。戸惑いながらも、責めるような目だった。彼自身も戸惑っているんだろう。
けれど、いつまでも答えの返ってこない問答を繰り返すつもりはない。

「これで最後にする。だから話を聞いて」

ダンブルドアを殺して「あの方」の期待に応える。言葉で言えば簡単だが、考えるだけでもこんなに恐ろしい。こんなにも恐ろしいことに、彼は挑もうとしているのだ。その危険を省みもせずに。

「あなたがそんなに私に関わってほしくないんだったら、その理由を教えて」

冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
未だ渋い顔のドラコに向かって、アリアは勢いのままに言葉をつづけた。

「冷静に考えて。正直言って、あまりに無謀だわ。あなたが未熟だからじゃなく相手が悪すぎるからよ」
「……僕に与えられた使命だ」
「私には教えられない?」
「もうこれ以上口出ししないでくれ!君に助けを求める気はない!」
「ドラコ、私があなたを心配する理由がわかる?」

しきりに逸らそうとする彼の顔を両手で包んで、視線を合わせる。

「生きていて欲しいからよ」

はっきりそう言ったつもりだったのに、出てきた声は予想以上に小さく、震えていた。
下手をすれば、明日にでも命を落とすかもしれない。下手をして捕まって、アズカバンへ送られるかもしれない。その危険性をドラコはちゃんと理解しているのか。それが一番不安だった。
逆らうことは出来ない。生き残るためには成功するしかない。なら、少しでも成功の確率を上げるために力になる。それが今自分にできる精一杯なのに、肝心のドラコが助力を拒む。
拒まれたら、私は、あなたのために一体何をすればいい。

それ以上ドラコの顔を見ることも出来ず、気付けばアリアは視線を落としていた。震える手を合わせてギュッと握る。思いきり握りしめたはずなのに、力が出ない。熱くなる目頭に力を込めたとき、震える手がドラコの手で包まれた。
けれどアリアが顔をあげたときには、すでにその手は解かれていた。視線を合わせることもなく、ドラコがアリアの脇をすり抜けた。

「っ待って、」
「上手くいけば今日にでもあいつは死ぬ」

「死ぬ」。その言葉に心臓が跳ね上がる。
扉に手をかけて振り返ったドラコが、眉を寄せてアリアを見た。怒っているような、怯えているような、迷いながらも言い聞かせるような表情だった。

「何も心配しなくていい。僕が君をこちらに呼び戻す。君は僕の傍にいるべきなんだ」
「……どういうことなの?なにが……」
「僕が君をここへ呼び戻す!父上や母上じゃない、僕は僕の力で君を守れるんだ!」

叫ぶようにして最後の言葉を放ったドラコが、勢いよく扉を開け、その向こう側へと消えた。大きな音を立てて扉が閉じられ、その残響が室内に木霊する。部屋は一瞬で静かになり、冷えた空気だけがアリアとともに残された。
自分の指先が震えているのが分かった。この震えは、きっと寒さのせいだけじゃない。
「もちろん僕も望んでる。でも、僕は君に何もしてやれてない」
いつか、温かいあの部屋で涙越しに見たドラコを思い出す。無意識に、両手で口元を覆った。ひどく息が苦しい。まるで不安がまるごと寒さとなって押し寄せてきたようだった。


気付けば部屋を飛び出して、周りになど目もくれず廊下を駆けていた。走って、角を曲がり、階段の手すりを滑り降りる。階段を一段ずつ降りることすら煩わしい。
ミセス・ノリスが廊下の先で鳴いたような気がしたが、振り返らなかった。大広間前の階段を降り窓のない道へと進む。走り進むたびに、備えられた蝋燭がちらちら揺らめいだ。
ようやく目的の場所へたどり着いて、アリアは腕を上げた。乱れた呼吸も整えないまま扉を叩く。コンコンコン、という音が廊下に響いて消えた。心臓の音と自分の呼吸以外、何も聞こえない。ノックの後の数秒が、数十分にも感じられた。
そして、ゆっくりと扉が開く。

「……何の用だ、ミス・ラジアルト」

数十センチの扉の隙間から、細められた黒い目がアリアを見下ろした。

「すみません先生、大事なお話で」
「君にとっての大事が、我輩にとってもそうだと言えるかね?」
「ドラコのこと、先生はご存知ですよね」

扉が更に少しだけ開いて、奥にいたスネイプが身を引く。その、人ひとりようやく入れそうな隙間に、アリアは体をねじ込んだ。廊下と大差ない冷えた部屋へ足を踏み入れると、ふり向く間もなく扉が閉まる音がする。
ようやく面と向かって見上げたスネイプは、探るような目でアリアを見下ろしていた。

「……承知している」
「全てですか」
「今の君よりは事態を把握していると言えような」

扉に鍵をかけて歩き出したスネイプを追うように、アリアはその背中に向かって早口に言葉をつづけた。

「ドラコがひとりで事を進めようとしてるのは、お父上のためだと思っていました。ルシウスおじ様の名誉を取り戻すためだと」
「違うと?」
「彼が頑なに私の助けを拒むのは、私が関わっているからですか?」
「…………」
「あの人との……あのやりとりの中に、私の処遇も含まれているのでしょうか?」
「実に突飛な発想だ。なぜそう思う」

振り向いたスネイプと視線を合わせるが、その目からスネイプの考えを読み取ることは不可能だった。黒い目はなにも映さず、ただ怯えた自分の姿だけが鏡のように映っているのが見えた。震える両手を合わせて握る。
さきほど声を荒げて言った彼の言葉が、怖いくらい頭を支配していた。


「……「君をここへ呼び戻す」、と……彼が」


霞むほど小さい声しか出なかったが、雑音のない静かな部屋では思った以上に響き渡った。
しばらくは何の音もしなかった。自分から答えを聞きに来たのに、アリアはスネイプをまっすぐ見ることも出来ずに俯いた。事実を知るのが、ひどく恐ろしいことに思えた。

「助力を拒まれたと言ったな。君はどこまでドラコの計画を知っている?」
「……目的以外は、何も聞かされていません」
「そうか」

スネイプはそれだけ聞くと、アリアの脇を抜けて再び扉へ足を向けた。その手が扉に掛けられ、重い音とともに廊下の冷えた空気が部屋に舞い込む。

「せ、先生、」
「憶測に付き合う時間はない。我輩は君の推理の答え合わせを任されているわけではないのでな」
「スネイプ先生、教えてください。ご存知なら……」
「寮に戻りたまえ」

有無を言わせぬ、鋭い声。言葉を失ったアリアの背を押して、スネイプは廊下へとアリアの体を押し出した。

「そしてドラコの言うとおり、今後この件には関わらぬことだ」

目の前で閉じられた扉をただ呆然と見つめた。この感覚には覚えがある。
入学したての頃、5年前、校長室で味わったあの絶望感。縋ろうと手を伸ばした瞬間するりと離れていった、父の姿。ほんとうに、自分にはどうしようもないところから、抗いようのない事実が押し寄せてくるような感覚。

足が、竦む。










ようやく足が感覚を取り戻したころには、降り続いていた霙が吹雪となり、窓をガタガタと騒がせていた。階段を上がり、蝋燭の炎に照らされる薄暗い廊下を寮に向かって歩く。ちらちら揺れる炎は弱く小さい。こんなに不安定ではため息ひとつで消えてしまうのではないかと、冴えない頭でぼんやり考えた。

「(情けない……)」

意気込んで寮を出たのに、何も知れないばかりか、不安だけが今まで以上に重い。ドラコの顔を見ることさえ、今は怖いとしか思えない。頭の奥の方が、鈍く痛んだ。

   もしも、本当に彼が私の為にあんな無謀な計画を遂行する気でいたらどうしよう。
   もしそうなら、たとえどれだけ迷惑でも彼の所へ行って、彼のプライドを気付つけてでも、そんなこと必要ないと叫んで解らせるべきだ。
   そして今すぐ彼を逃がそう。『あの人』の手の届かないところへ。

無理だとわかっていても、そんな事ばかりが頭を巡る。
稚拙な考えだ。16歳の未熟な子供がどれほど知恵を絞ったって、あの人から一生逃げ続けるなんてできない。それに彼の両親を見捨てていくことも出来ない。堂々巡りだった。
右手を上げて甲を額に押し付ける。手が冷えているのか、額が熱いのかも分からない。

頭痛に思わず目を閉じて、壁に手を付いた時だった。廊下の先から言い争うような声が聞こえて、アリアは重い瞼を持ち上げた。それが聞きなれた声だと気付いたのは、かなり近づいてきてからだった。声の主は三人、ポッターとウィーズリー、それにグレンジャーだ。
ただでさえ具合が悪いのに、これ以上嫌な気分になるのは避けたい。寮までは遠くなるが、東側の道で戻ろう。そう思ってアリアは踵を返した。けれど、今度こそはっきり聞こえてきた彼らの会話に、アリアは踏み出そうとした足を止めた。

「ハリー、マルフォイはホグズミードにいなかったのよ!」
「なら共犯者を使ったんだ」

ポッターの迷いのない声が、重い脳に突き刺さったようだった。


「クラップかゴイル……それとも、考えてみれば死喰い人だったかもしれない。マルフォイにはクラップやゴイルよりもっとましな仲間が沢山いるはずだ。
マルフォイはもうその一員なんだし    


一瞬で血の気が引いた。
その意味を理解するが早いか、膝から力が抜けてアリアはがくんと石の廊下に両手をついた。すぐそばにあった燭台をひっかけて、燭皿が大きな音を立てて廊下へ転がった。

「アリア!?」

音に気付いて駆け寄ってきたグレンジャーの声すら、かなり遠くから響いているように聞こえた。
頭痛がひどい。それでも思考ははっきりしている。
たった今生まれたその可能性に、これ以上はないと思っていた不安を更に煽られた。

「ちょっと、アリア、あなた大丈夫!?顔色が    
「っ……触らないで!!」
「おい!態度を改めろってば    
「うるさい」

伸ばされた彼女の手を払いのけて俯く。今にも涙が零れそうなのを、彼らに見られたくはなかった。
立ち上がろうと両腕に力を込めるが、身体が動かない。
俯いたまま壁に肩を預けて、未だに煩くわめくウィーズリーの声は無視した。

     死喰い人
ああ、どうして気付かなかったんだろう。その可能性は十分あったのに。これまで確認する機会だってたくさんあったのに。

私はどこかで、ドラコを被害者にしたいと思っていたんだ。
彼が、父と同じ場所にいるだなんて、考えたくもなかったのだ。

熱くなる瞼を抑えて、せめて涙が零れないように手で覆った。生きていて欲しい。ただそれだけなのに、その為にどう動けばいいのかわからない自分が悔しい。
絶望ともいえる不安の渦の中、立ち上がることすら出来ない。眩暈に耐えながら、アリアは気付かれないように泣いた。





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