ポッターが幸運の薬を手にしてからというもの、魔法薬学の授業でのアリアは酷く不機嫌だった。
昨年度までとは別人のように調合が上手くなったポッターは、今学期まだ一度も鍋の底を焦がしていないし、異臭をまき散らしもしていない。それどころか毎回アリア以上の仕上がりで薬を提出するので、スラグホーンは大喜びでポッターを絶賛した。
時々ポッターが教科書の手順とは違うやり方をしているのには気付いていたが、手元にあるのはアリアと同じ教科書だけ。
別の本を隠し持っている様子もなく、アリアはますますポッターに対する不信感を強めていった。

けれど幸いなことに、ポッターに対する苛立ちを感じていられる時間は短かった。
魔法薬学に限らず、どの授業もOWLに比べてかなり難易度が上がったせいで、アリアも休憩時間の殆どを課題に費やした。
新学期が始まってまだ2週間と経たないのに、6年生全体が膨大な量の課題に追われていた。だが、勉強量が増えたことは、必ずしも状況が好転するきっかけにはならなかった。

第一の理由が、やはりドラコだ。アリアの思うかぎり、彼はほかの誰よりも目に見えて窶れていっている気がしてならない。相変わらず彼と話せる時間は多くなく、アリアは未だ彼の計画を知らないままだった。心配と不安ともどかしさが相まって、どこで何をしていても、眠るときですら心休まる時がない。
そしてもう一つの理由が、これだ。

「………油断した…」

身体の端々から水を滴らせながら、アリアは憚らず盛大に舌打ちした。
前髪をかき上げて、まつ毛についた水滴を指で落として、アリアはポケットから杖を取り出す。

女子トイレの洗面台で、鏡に映った影を捕えたときにはもう遅かった。
鏡越しに向けられた杖がぱっと輝き、瞬間、頭上から勢いよく水が降り注いだ。
よくある嫌がらせだ。大方犯人はいつもの如く、グルフィンドール、レイブンクロー辺りの女子生徒だろう。

グリフィンドール生でありながら、純血家出身でマグル差別者、そのくせ優秀なアリアをよく思わない生徒は多い。特に女子たちから感じる嫌悪は大きかった。
くだらない。こんなこと、何の意味もないのに。肌にまとわりつく髪をイライラと払い退けながら、アリアは無言でさっと杖を一振りした。
無言呪文の習得はかなり難しかったが、最近ようやくコツを掴んできた。
ところが、いくら頭の中で呪文を唱えても、一向に服は濡れたまま。眉を寄せて、アリアは自分の身体を見下ろした。……おかしい。いつもなら、呪文ひとつで乾くはずなのに。試しに声を出して杖を振ってみるが、やはりなにも変わらない。相変わらず、ローブの裾からはポタポタと水滴が滴っている。

「(……ああ、もう)」

どうやら彼女たちも学習はしているみたいだ。ただのシャワーでは嫌がらせの効果がないとようやく気付いて、呪文の難易度を上げてきたらしい。
アリアの知っている単純な乾燥呪文では、服を乾かすのは難しそうだ。ため息をついて、濡れた手で洗面台の縁を掴む。自然と、その手に力が入った。

イライラする。どうしようもなく。ポッターにも、スラグホーンにも、バカな女子生徒たちにも、ドラコにすら。
どうにかしたい、解決したいのに方法が解らない。拳を握って、耐えるしかない。いっそ大声で叫びたい気分だ。湧き上がる憤懣を抑え込もうと、額に手を当てて目を閉じた。頭の奥が、沸騰してるみたいに熱かった。





結局服を乾かすこと叶わず、アリアは鞄を抱えて女子トイレを出た。この後授業がなかったのは不幸中の幸いだ。さっさと着替えて忘れよう。そう思ってアリアは足早に階段を上がる。
けれど階段を半分ほど登ったところで、アリアは思わぬ人と鉢合わせしてしまった。嫌なことは続くものだ。
視線が合った瞬間、にっこり笑って手を振ったその人物を見ながら、アリアは天を仰ぎたい気持ちでいっぱいだった。

「やあ、アリア」
「こんばんは、スラグホーン先生」

でっぷりした腹を揺らしながら、スラグホーンは足早にアリアに近づいてきた。
挨拶にいつものように右手を出しかけて、そこでようやくアリアが濡れていることに気付いたようだ。
前髪を上げたアリアの顔を見て、スラグホーンの丸顔にさっと皺が寄る。

「これはこれは!一体どうしたのかね、城の中で雨に降られたのか?」

困ったように小さく笑うと、スラグホーンもそれほど深刻な状況だとは捉えなかったらしい。
アリアを全身眺めて、大げさに肩を竦めた。

「さっき、トイレで……授業で私だけが無言呪文を熟したので、ちょっとした逆恨みかもしれませんね」
「なんと!己の無力の結果を他人で晴らすとは、実に嘆かわしい!犯人の顔を覚えているかね?」
「先生、気になさらないでください。みんな勉強に追われて気が立っているんです」

嘘ともいえない理由を取り繕えば、スラグホーンはそれで納得したようだった。
むしろ犯人を突き止めようとはしないアリアを、懐深く寛大な人物だと勘違いしたのかもしれない。
ほう、と感慨深げに息を吐いて、いつも以上のにっこり顔でアリアを見た。

「確かに、上に立つ者の宿命とも言えるかもしれんな。妬みはつきものだ」
「身を以て実感しました」
「しかし、君ほどの魔女であれば、服を乾かすぐらい訳ないだろう?」
「……それが、どうやら少し工夫してあるようで」
「ほう?」

スラグホーンはアリアの肩の水を指先で少しつまんで、しばらく眺めた後、懐から杖を取り出した。
杖先がさっと振り下ろされる。それと同時に、水分を吸って重くなっていたローブがふわっと軽くなった。
視線を下げて、自分の服に触れる。
さらさらした生地の感触を確かめながら、アリアは安堵の息を吐いた。

「ありがとうございます、先生」
「礼には及ばんよ。淑女をびしょ濡れのまま放っておくわけにもいかん。それに、こちらもちょうど君を探していたところだ」

纏わりつく湿気からようやく解放されて、自然と表情も緩む。素直に感謝を述べると、スラグホーンはいつもの笑顔で首を振った。
それでこの場が終わればよかったのだが、次いで出てきたスラグホーンの言葉に、アリアは緩んだ頬を再び引き締めることになった。

「土曜の夜だが、わたしの部屋で夕食をとらないか。他にも数名声をかけているところだ」
「……食事会、ですか」
「小さな内輪の会だよ。ぜひ参加してくれるとうれしい……ああ、ブレーズ!」

やはり、嫌なことは続くものだ。
上機嫌で話していたスラグホーンの視線がアリアのうしろに向けられ、振り返ってその先を見たとき、アリアはそう痛感した。
視線を向けると、緑色のネクタイをした長身の姿がたった今階段を登りきったところだった。
その鋭い双眸がスラグホーンを、次いでアリアを捕え、そして愛想よく細められる。内心ため息をついて、アリアは近づいてくるザビニに冷めた視線を向けた。
……彼は苦手だ。出来れば関わり合いたくない。けれど上機嫌で話すスラグホーンを前にひとり場を離れるわけにもいかない。
アリア同様、ザビニもスラグホーンのお気に入りの一人。スラグホーンが彼を食事会に誘わないはずもない。案の定、ザビニが2人の近くまで来て足を止める頃には、スラグホーンは自身主催のパーティー概要について殆ど語り終えていた。

「君にもぜひ参加してほしい。今彼女も誘ったところだよ」
「喜んで、先生」

素早い返事に、スラグホーンは大変満足そうに頷く。

「アリア、君も行くんだろう?」

ふいにザビニがアリアを見て、そう問いかけた。
当然、その言葉に流されてスラグホーンもアリアへと視線を移す。
アリアは一瞬だけ、ザビニに探るような視線を向けた。彼に名前を呼ばれたのはこれが初めてだ。
けれど、スラグホーンの視線を受けていつまでも黙っているわけにはいかない。すぐ笑顔を張り付けて、スラグホーンに向かって頷いた。

「そうですね。お邪魔させていただきます、先生」
「邪魔だなんてとんでもない!お受けいただき感謝するよ、ミス」

スラグホーンが恭しく頭を下げる。
応じるように少し膝を折れば、彼はますます上機嫌に笑った。

「それじゃ、2人とも、土曜の夜を楽しみにしているよ!」

嬉しそうに手を振って背中を向けたスラグホーンを見送ってから、アリアもすぐに踵を返した。
ザビニと2人でいるのは、どうも居心地がよくない。
声をかけられる前にさっさと退散しようと無言で歩き出す。
けれどアリアが思った以上にザビニは素早かった。ぐいっと腕を引っ張られて、アリアは数歩と歩かないうちに立ち止まる。
眉を寄せて振り返ると、彼はさっきと同じ笑顔でアリアに向かって微笑んだ。

「食事会、一緒に行かないかい?広間で待ち合わせて」
「何のために?遠回りでしょう」
「まぁ、そう言うとは思ったけどね。君ってとことん合理的だよな」

ドラコとは正反対だ。

独り言のようにそう零して、ようやくザビニが手を離す。
睨んだままのアリアを追い越して歩き出したザビニが、背中越しに手を振った。

「……正反対」

たしかにそうかも、と考えながら、アリアは視線を下げて前髪をつまんだ。
今に始まったことではない。昔からだ。この黒い髪も、合理的な考え方も、私はすべてが彼と正反対だ。
両親のために「あの人」の役に立とうとしているドラコと、両親から見放され、「あの人」から彼を遠ざけたいと思う私。
ならば、彼の力になりたいと思うこの気持ちも、彼にとっては望まぬ迷惑な行為だろうか?

憂鬱な気分は増していくばかりだ。何もかも上手くいかない。壁に掛かった絵画の寝息だけが響く廊下で、アリアはひとり両手で顔を覆った。






土曜は静かな夜だった。
人気の少ない廊下を歩きながら窓の外へ視線を移すと、雲一つない星空が見える。こんな夜にこそ、落ち着いた気分で読書でも出来たら最高なのに。
一瞬そんなことを思って、すぐに考えを改める。こんな沈んだ気分では、読書など慰みにはならないだろう。

疲れた頭をぼんやり働かせながら、アリアはスラグホーンの部屋へ向かった。扉は開かれていて、近づいていくとちょうど部屋の主がひょっこり顔を出してアリアを迎え入れた。よく来た、と肩を叩くスラグホーンに笑顔を返して、中へと入る。
天井が高く広いスラグホーンの自室は、暖炉の炎で心地よい温度に温められていた。
中心には、今日のために用意したと思われる大きな丸テーブルが、ワインレッドの上質そうなクロスで覆われている。テーブルや壁際の棚に置かれた燭台には蝋燭が灯り、部屋全体を明るく照らしていた。

室内にはアリア以外に数人の影があった。
テーブルについている者は誰もいない。全員が揃うまで食事はお預けの様で、皆ぼんやりと部屋を眺めている。アリアも他の者と同じように、ソファの傍に立って部屋を眺めた。
飾り棚には数本のワインやバタービールの瓶に並んで、たくさんのサイン色紙や写真立てで埋まっていた。壁にはスラグホーンと著名人たちのツーショット写真が並んでいる。
なるほど、とアリアは写真に目を走らせながら考えた。
この食事会は、将来この棚を飾るであろう写真の予約会のようなものなのだろう。

「ああ、アリアも呼ばれていたのね!」

整頓された書棚に視線を向けていると、たった今来たらしいグレンジャーがアリアを見つけてほっとしたような顔を見せた。すぐ傍には、ひとつ下の学年のジニー・ウィーズリーの姿。
2人の姿を見とめて、アリアはすぐに眉を寄せた。理由は、相変わらず馴れ馴れしいグレンジャーへの嫌悪感だけではない。
アリアは部屋をさっと見回して、さらに首を傾げた。本命の姿がない。スラグホーンなら真っ先に一番のお気に入りを勧誘するだろうと思っていたのに、部屋のどこにもその人物が見当たらない。
アリアは駆け寄ってきたグレンジャーにちらっと視線を向けた。いつもなら傍へ寄るなと罵るところだが、生憎ここは教授の部屋であるし、たった今彼女に聞きたいこともできた。

「ねえ、この会って何なのかしら。わたし、どうして呼ばれたの?」
「スラグホーンに気に入られたからでしょ」

グレンジャーの横で、落ち着かない様子のジニー・ウィーズリーが声を潜めて彼女に話しかける。扉の前にいるスラグホーンに聞こえない程度の小声だったが、アリアには十分聞き取れた。グレンジャーが言葉を返す前にアリアが口を開くと、2人が目を丸くしてこちらを見つめた。
アリアが自分から会話に加わったことに驚いたのだろう。その視線を鬱陶しく感じながらも、アリアはグレンジャーに視線を向けた。

「ポッターが呼ばれなかったのは何故?」

当然、ポッターもグレンジャーと一緒に来るものと思っていた。それがアリアの気分を更に憂鬱にさせていた原因でもある。けれど予想外にも、部屋の中に彼の姿はない。
アリアの言葉に、グレンジャーはああ、と肩を竦めた。

「呼ばれなかったわけじゃないの。スネイプの罰則と重なったのよ」
「罰則?」
「ほら、防衛術で」

今学期最初の防衛術の授業で、ポッターは早速スネイプに罰則を食らっていた。原因は、誰がどう見てもポッターに非のある不適切な言動だったと思う。彼が罰則を言い渡されるのを、アリアも確かに聞いた。
けれどアリアの記憶違いでなければ、それは先週頭の授業での出来事だ。罰則と言うには日が経ちすぎている。

「罰則は先週だったはずだけど」
「あー……先週は都合が悪くて。今週に変更になったのよ」

言い淀むグレンジャーにそれ以上詳しい話を聞くことは叶わなかった。アリアが口を開こうとしたちょうどその時、スラグホーンの上機嫌な声が部屋に響いたからだ。

促されてテーブルにつきながらも、アリアはそのことばかり考えていた。スネイプの罰則を変更させるほどの用なんて、そうそうありはしない。
事実ポッターは今日ここに来ていないのだから、例えスラグホーンが掛け合ったとしても、スネイプは予定を変更しないのだろう。
そう考えれば、残される選択肢はそう多くない。

「(……ダンブルドア……か、副校長のマクゴナガルか…)」

例えば、校長が罰則日時の変更をかけあえば、スネイプも受け入れざるを得ないだろう。
先週の土曜日、ポッターにはそれくらい重要な予定があったということだ。

ポッターに関わりがあるところで、何か重要な企みが動いている。そんな気がしてならない。
魔法薬学のときとはまた違った疑惑が、アリアの中で首を擡げた。
ただ成績が伸びるだけの授業とは違う。今度はスネイプ以上の力を持った誰かも絡んでいる。

ひざの上で拳を握って、アリアは眉を寄せた。自分の知り得ないところで、いくつもの企みが今も動いている。
嫌な予感ばかりした。



その後の時間は有意義とは言い難かった。
スラグホーンの話は殆どが生徒たちの家柄の話、優秀さ、そして彼が親しい旧知の友との思い出話だった。
興味を持って聞いていたのはほんの数人で、残りは熱心に聴いているふりをしている者、もしくは声をかけられるまでぼんやりと宙を眺めている者ばかり。
教師の話なら絶対に聞き逃さないグレンジャーですら、後半は殆ど曖昧な笑いと頷きだけでやり過ごしていた。

無駄とも思えるような長い時間を苦痛に耐えながら過ごし、ようやく解放されたのは開始から3時間後だった。
この上なくご機嫌なスラグホーンに見送られて、一同は暗い廊下をそれぞれの寮に向かって歩き出す。
アリアも凝り固まった肩に手を置きながら、人波がばらけたところでふっと息を吐き出した。
背後からパタパタと足音が追いかけてきていることに気付いたのはその時だった。

「やあ」
「……どうも、ザビニ。おやすみなさい」

疲れた体に、これ以上の面倒事はごめんだ。
追いついてきたザビニに一度だけ視線を向けて、アリアは歩幅を広げた。

「ブレーズでいいって言わなかったっけ?」
「聞き入れた覚えはないけれど」

さっと廊下を曲がって、アリアはザビニを振り払うように足を早めた。グルフィンドール寮へ続く階段さえ登ってしまえば彼もついては来ないだろう。けれど階段に足をかけようとしたとき、またしても彼に腕を掴まれた。
アリアは今度こそ眉間にしわを寄せて、振り返りながらその手を思いきり振り払った。

「一体何なの?」
「来月は今学期最初のホグズミード行きがある」
「あらそう」

興味のない話題に、アリアがさっさと足を上げる。

「その日の君の予定は?」

ザビニが、少し声を大きくする。その声にアリアは眉を寄せて足を止めた。振り返り、階段下で見上げているザビニと視線を合わせる。

「もしかして、一緒に行こうって意味なのかしら」
「そう聞こえなかった?」
「ええ、全く。 ねぇ、私が迷惑してるって気付かない?もう付きまとうのはやめて」

彼の言い分はひどく勝手だ。
こちらが迷惑がっているのは百も承知だろうに、これではまるでグレンジャーだ。
純血だろうとスリザリンだろうとドラコの友人だろうと、彼とは仲良くできそうにない。

踵を返して背を向ける。ザビニは何も言わなかった。
そのまま彼も背を向けて寮に帰ってくれることを願ったが、今回は彼も引き下がりはしなかった。
階段を半分ほど進んだところで、後ろから鋭く響く声が背中を貫いた。

「寮に籠ってお勉強しなくちゃ、ってか?仲良しルームメイトの穢れた血と一緒に?」

嘲笑を含んだ言い方。
言い分よりも、その言い方に腹が立った。
かっと頭に血がのぼる感覚。瞬間的に湧き上がってきた怒りに身体が支配される。
今日まで少しずつ降り積もっていた苛立ちが、弾かれたように外へ出ようとしているみたいだった。

振り返って、何も考えずに息を吸った。その瞬間、
パンパンッと小さな破裂音が響いて、視界が真っ黒に覆われた。

「なんだ!?」

驚くザビニの声が、黒い煙の向こう側から聞こえる。
視界を遮られ、アリアは反動的に階段の手すりに捕まろうとした。けれど予想外にも、その手は突如誰かに掴まれた。そのままその"誰か"はアリアの腕を引いて階段を駆け上がる。

「えっ、ちょっと!」

段差に足を取られながら、アリアは驚いて抗議の声を上げた。
階段を上るにつれて、黒煙が少しずつ晴れていく。アリアは目を凝らして自分を掴む腕の先を見つめた。長く赤い髪が、霞む視界で揺れた。



「ムカつく、ザビニ」

長い階段を上りきって角を曲がると、ジニー・ウィーズリーは憎々しげに呟いた。
捕まれた腕を払いながら、アリアは少し乱れた息を整えた。息を吐いて、自分より少しだけ背の低い彼女を訝しげに見下ろす。

「……なんなの?」
「困ってたみたいだったから助けてあげたの。お節介かもしれないけど、実際助かったでしょ?」

振り返ってザビニが追ってこないことを確かめてから、ジニー・ウィーズリーはさっさと寮に向かって歩き出した。
アリアも一度だけ廊下を振り返り、そして歩き始める。確かに彼女の言うとおり、実際助けられた。おそらく、彼女が思っている以上に。

声の響く廊下だということも、教授の部屋がまだ近くにあるということも忘れ、感情のままに叫びだす寸前だった。理性なんてほとんど働いていない状態だった。
あのまま彼女が現れなかったら、きっと全部吐き出してしまっていただろう。ザビニに対する不満だけでなく、積み上がったすべての苛立ちを。

「……さっきの煙幕は?」
「兄の店で買ったインスタント煙幕。便利でしょう?ついでに小さい花火もお見舞いしてやったわ」
「どうして助けたの。そんな義理ないでしょう」
「別に、お礼を言わせたい訳じゃないから気にしなくていいわよ。ただあいつが大っ嫌いなだけ」

小さなインスタント煙幕を弄びながら得意げに廊下を振り返り、「ザマァミロ、ザビニ」と言って舌を出す。その態度に呆れて息を吐くものの、同じような気持ちがないわけでもなかった。ザビニのあの慌て様と狼狽した声を思い出して、アリアも頭の中で「ざまぁみろ」、と繰り返す。
不安要素はひとつも解決していない。それでも、滑稽なザビニの姿を見て、久しぶりに息を切らして走ったおかげか、不本意ではあるが苛立ちも少し落ち着いたように思う。
苛立ったところで何も変わらないのだと、冷静になった頭が言う。行動しなければ。ふいにそんな言葉が頭をかすめた。たった数秒の出来事で、こうも考え方が変わるとは。
けれど例えありがたく思う気持ちがあったとしても、素直に礼を言えるような相手ではない。
前を行く赤い髪をしばらく見つめて、アリアは低い声で言った。

「……借りひとつにしておく。恩を売られるのは嫌いだから」

ジニー・ウィーズリーは、別にいいのに、と言わんばかりに肩を竦めただけだった。





===20130219