凍てつくような寒さの中、ホグワーツ特急はゆっくりとキングズ・クロス駅に停車した。窓の外に見えていた景色は既に消え、薄暗いホームが見えるばかりだ。
黒と銀の上品な革張りトランクを持ち上げて、自分以外に誰もいないコンパートメントを出た。ホームへ降り、小さく息を吐く。途端その息が外気に触れて白く曇った。

長くじれったい汽車の旅を終え、アリアは9と3/4番線ホームの隅で立ち止まってトランクに腰かけた。
目の前でいくつもの影が「ただいま」と「おかえり」を繰り返し、ギュッと抱き合っている。
そんな暖かな光景の中に視線を走らせながら、アリアはトランクと同じ色のマフラーを首に巻き、さらにマフラーとお揃いの手袋をした両手を組む。見上げれば、冬のロンドンらしい、鈍い色の空が映る。閑散としたその色はその薄暗さとは逆に、アリアの心を高揚させた。

しばらくして、アリアはその人混みの中に見知ったプラチナブロンドを見つけた。
いつものメンバーとの別れは既に終わったらしく、アリアを見つけると意気揚々と駆けてくる。
彼の後ろに、背の高い同じ髪色の男性を見止めて、アリアはトランクから立ち上がった。

「待ったか?」
「ううん。早かったわね、もういいの?」
「別にいいさ。どうせ2週間後にはまた会うんだ」

ドラコはどうでもいいとばかりに肩を竦めて、そんなことより、と後ろを振り返る。アリアもそれにつられて視線を上げ、ふわりと笑った。
ドラコの後をゆったりと追いかけてきた彼の父親に向かって、アリアは駆け寄った。

「おじ様!」

両手を広げて抱きつくと、ルシウス・マルフォイはアリアを受け止めて表情を緩めた。

「よく帰ってきたな。お前は帰るのを渋るんじゃないかとナルシッサが心配していたが」
「ドラコに説得されました」

苦笑いでそう言うと、ルシウスは満足そうにアリアの頭を撫でた。
ちらりと隣に視線を向けると、にやりと笑うドラコと目が合った。空いた右手を、彼の手が握る。

「私が城に残るより、顔を見せた方がおじ様もおば様も何倍も喜んでくださると」
「その通りだ。帰るぞ、離れるな」

ルシウスはもう一度アリアの頭をポンと叩いて、アリアとドラコのトランクに向かって杖を振った。
途端にトランクはホームから消え、アリアは差し出されたルシウスの手を取った。
同じようにドラコの肩にもルシウスの手が置かれ、その途端景色がぐにゃりと曲がる。

瞬きの後、アリア達3人は石造りの立派な家の前に"姿現し"した。玄関前の階段がすぐ目前にあり、それを登ってルシウスが扉に手をかける。
屋敷に足を踏み入れたその途端、穏やかな声がアリアとドラコを迎え入れた。

「ドラコ、アリア。お帰りなさい」

ドラコの母、ナルシッサが両手を広げてドラコを抱きしめた。続いてアリアも愛しそうに抱きしめ、安心したように微笑んでアリアの頬を両手で覆う。

「よく帰ってきてくれたわ。来ないんじゃないかって思っていたのよ」
「おば様、またお邪魔させていただきます」
「……アリア。何度言えば、あなたは一度で私の望む答えを返してくれるようになるのかしら?」


責めるような口調でそう言ったナルシッサは、悲しそうに目を細める。それだけで胸の内が暖かくなるのを感じながら、アリアは照れたように微笑んだ。

「……ただいま、おば様」
「ええ、お帰りなさい。疲れたでしょう?夕食までドラコとお部屋にいらっしゃい」

満足げにもう一度アリアを抱きしめて、ナルシッサは立ち上がった。
ルシウスとともに奥の扉へ消えていく後ろ姿を見送って、アリアは少し目を細める。

「……おば様、少し痩せたわね」

ドラコと並んで階段を登りながら、アリアはぽつりと呟いた。元より細身ですらっとした体格のナルシッサだったが、今は更にやつれた様だ。頬を包んでくれた手が、以前より冷たかった。
ドラコはちらりとアリアを見ただけで答えはしなかった。代わりに、彼女の手をギュッと握る。

夏に訪れた時と同じように見えるマルフォイ家だが、ほんの少しの変化も感じられた。室内の穏やかな空気には緊張感が走り、石壁は以前より冷え切って室内はしんと静まり返っている。
状況を知っているからこそ、尚の事そう感じてしまうだけなのかもしれない。
けれど細くなったナルシッサの指が、去年より険しいルシウスの表情が、それをよりリアルに感じさせた。
状況は着々と整っていく。いずれ来るかの人を迎え入れる為の準備が、この家の影を深めているようだった。

「……部屋へ行くぞ。チェスでもやろう」

ふと掛かった声に、アリアはどこへともなく向けていた視線を隣へ戻す。
いつも通りのドラコの顔を見て、アリアは少し緊張が解れるような気がした。

「ドラコ、チェスで私に勝ったことあったかしら」
「夏よりは腕も上がってるさ。この前はノットにも勝ったしな」
「それは楽しみね」

にやりと笑うと、ドラコが「見てろよ」とアリアを睨んだ。






夕食後、2人はドラコの部屋で教科書を広げていた。
暖炉に灯った火と蝋燭の明るい火が暖かく部屋を包んでいる。


「……休暇の初日から勉強しろ、なんて、まさか言われると思わなかったわ」


高く積み上がった本の山から一冊を引き抜いて、アリアは自分のノートと照らし合わせながら言った。
テーブルの反対側からドラコの視線が鋭く刺さるが、アリアは気にせず睨み返した。
そもそも夕食のとき、ドラコの不注意で、ドラコの成績が未だにマグル生まれのハーマイオニー・グレンジャーを超えられないでいると零してしまったことが原因で今この状況に至るのだ。
ドラコも自分の失言は理解しているらしく、アリアより先に目をそらして肩を竦めた。
アリアも手の中の本に視線を戻し、ため息をつく。

「やっぱり、問題は『魔法史』ね。O・W・L試験は範囲が広すぎると思わない?覚えきる自信がないわ」
「よく言うよ。どうせもう範囲の殆どを暗記してるだろ?」
「ドラコだって余裕じゃない。魔法史の教科書だけ持ってきてないでしょう」
「僕はもう粗方覚えた」

彼の横に積まれた教科書の山を見ても、アリアが手にしているのと同じ『魔法史』の厚手の教科書は見当たらない。ドラコは持て余すように羽ペンをくるりと回して椅子の背に凭れた。どうやら集中力はとうに切れているらしい。

「一番自信がある教科は?」
「魔法薬学」
「僕もだ」

アリアの即答に、ドラコはにやりと笑った。
それに応える様にアリアもペンを止め、ノートから視線を上げた。

「魔法薬学は好きよ。スネイプ先生の教え方って無駄がないし、とてもハイレベルだし」
「あの教科では『O』を取る自信があるな」
「さすが、優秀ね」
「それから、『闇の魔術に対する防衛術』だけど……」

ドラコの口からその言葉が出て、アリアは教科書を捲りながら眉を寄せた。
視線を上げないまま、ため息をひとつついて言葉を繋ぐ。

「アンブリッジ先生は、私あまり好きじゃないわ」

そう言うと、今度はドラコが諌めるように眉を寄せた。
アリアは教科書から視線を外し、暖炉の炎でちらちらと揺れるドラコの影を見つめた。

「ポッターが罰則を受けるのは気分がいいけど、授業がとってもつまらないもの」
「でも君ならアンブリッジ先生の言う通り、理論を理解すれば確実な魔法が使えるだろ?」
「もちろん理論的な勉強もするし、OWL試験は自信があるわ。ただ、授業が好きじゃないだけよ」


アリアは肩を竦めてノートに向き直る。
正直なところ、授業はリーマス・ルーピンやマッド=アイ・ムーディの偽物の方が断然面白かったと思っている。けれどそれは自分が口にしていいことではないという事を、アリアは十分理解していた。
リーマス・ルーピンは狼男だし、偽のマッド=アイはドラコを白イタチにしたという最悪な過去がある。彼の前でその名を口にするほど、アリアは思慮浅くはない。
特にルーピンのスリザリンでの評判の悪さを、アリアは知っている。逆に、彼を支持しているのがグルフィンドール生だということも。自分とグルフィンドール生を結びつけるようなきっかけを、ドラコの前で晒したくはない。

アリアはちらりと視線を上げた。ドラコは教科書を見るともなしに眺めながら、羽ペンを指に挟んでふらふらと振っている。


「……ドラコ」
「ん?」

呟くように声をかければ、ドラコは視線を上げずに声だけあげた。
教科書を閉じて、暖炉の火へ視線を向ける。
その色がホグワーツのベッドにかかったカーテンの色を思い出させて、アリアは顔を歪ませた。

「私、本当にここへ来てよかったのかしら……」

炎から視線を逸らせないまま、アリアは小さな声で言った。視界の端で、彼の羽ペンがゆっくりと止まるのが見えた。責めるような視線で、ドラコがアリアを見上げる。

「だって、おじ様とおば様に迷惑をかけてしまうわ」
「父上も母上も迷惑なんて思ってない」
「おじ様達がそう思ってくれていても、私は負担をかけてしまうのが嫌なのよ」

目を細めて、アリアはドラコに向き直った。ドラコは黙ったままこちらを見つめている。
彼にしては珍しく、私が話し出すのを待っていてくれているようだった。
アリアは羽ペンを持ったままの右手をギュッと握った。


「闇の帝王は、戻ってきたのでしょう?」


夏。
三校対抗試合の最後、ポッターが迷路の中からセドリックの死体を連れて戻ってきた。
あいつが戻ってきた。そう叫んだポッターの声が、今でもアリアの耳を離れない。魔法省はその事実を否定しているが、ドラコもアリアも、休暇にルシウスから真相を聞かされていた。
闇の帝王は戻ってきた。完全なる体を持って、全盛期の力をそのままに蘇った。真面目な顔で語り終えたルシウスの目に一瞬、恐怖の色が映ったのを、アリアは見逃さなかった。

「両親が私を家に迎え入れない理由を、あなたは知っているはずよ」
「……ああ、知ってる」
「それなのにおじ様もおば様も、私を迎えてくれる。私、それだけで泣きたい程幸せよ」
「…………」
「でも、私の所為でおじ様の立場が悪くなってしまうのは……」

マルフォイ家と立場を同じくするラジアルト家は、数少ない純血の一族として名を馳せる名家だ。
あの方はいつかきっと戻って来られる。小さい頃、アリアは実の父がそう言っていたのを聞いたことがあった。
そしてホグワーツ入学の年、グリフィンドールに選ばれたアリアに対しても、同じ言葉を放った。
「あの方はいつかきっと戻って来られる」
その言葉を最後に、以来父と会話を交わしていない。

もしも、私の存在を闇の帝王が知ったら、どう思うだろうか。一族の恥さらし、血を裏切る者。純血主義を捨て、スリザリンを拒否した者達と同じだと、そう思われてしまうだろうか。
両親がアリアを受け入れない理由はそれだった。
ならば、そんなアリアを迎え入れるマルフォイ家を、闇の帝王はどう思うのだろう。
闇の帝王を恐れながらもアリアを迎え入れてくれるルシウスとナルシッサは、今どんな気持ちなのだろう。

暖炉に視線を戻そうとしたアリアの視線を、ドラコが絡み取った。

「君は僕の傍にいるべきだ」
「ドラコ……」
「本当なら、ずっとずっと傍にいるべきなんだ。ホグワーツでだって、ずっと」

椅子から立ち上がったドラコが、苦しそうな顔でアリアの背中に腕を回した。
ぐっと込められた力が、アリアの体を強く抱きしめた。

「父上も母上も、君を本当の娘のように思ってる」
「……知っているわ」
「だったらここにいればいい」


そう言って離れたドラコの腕に、アリアは名残惜しそうに手を添えた。

「頼むから、ここにいてくれ」

普段命令口調なドラコの懇願するような声に、ぐっと言葉を詰まらせる。ほんの数秒の温もりで、こんなにも心臓が早くなるなんて。
アリアは目尻が熱くなるのを何とか堪えて笑ったが、上手く笑えた自信はなかった。

「ありがとう、ドラコ」

感謝以上の気持ちがこみ上げて、アリアは涙を抑えるのに必死だった。
それでも思わず立ち上がって、ドラコのブロンドの前髪の上から額にキスをした。
ドラコは驚いたように目を丸くして、次の瞬間さっと顔を赤くした。
そんなドラコを見て、アリアは小さく笑みを零す。笑った瞬間、細めた目尻から涙が零れた。

「なっ……急になんだ!」
「そんなに驚かなくても……お礼を言いたくなったのよ」
「……アリアは帰ってくるといつもそうだな」
「嬉しいのよ」
「礼を言われるようなことは何もしてない」
「家に迎え入れてくれるわ」
「それは父上と母上が望んでることだ」

アリアの頬を伝った涙を指で拭って、ドラコは目を細めた。

「もちろん僕も望んでる。でも、僕は君に何もしてやれてない」

声を小さくしながら視線を下げるドラコに、アリアは首を振った。
この感謝を、伝えたかった。あなたのその気持ちだけで、私は生きていけるんだと。


「笑っていて」

顔を顰めたドラコに微笑んで、アリアはその頬を両手で包んだ。ちょうど、ナルシッサが自分にしてくれたように。
背伸びして、ドラコと自分の額を合わせる。鼻先がくっつくほど近くで、アリアは目を閉じた。

「お願い。私、ドラコには笑っていて欲しいのよ」

少し目を見開いたドラコは、しばらくの間口を真一文に結んで、それから少しだけ口角を上げた。けれどその笑顔はひどく歪で、さっきの自分の笑顔と大差ないだろうと思う。
アリアは少し微笑んで、「さて、」と教科書を広げたテーブルを見やった。その間にドラコが服の裾で目を拭ったのを視界の端に捉えたが、アリアは気付かないふりをして言葉を続けた。

「こう毎日勉強勉強じゃ飽きちゃうわ。ねぇ、終わったらまたチェスでもする?」

見上げると、ドラコはアリアの言葉に少し不満げに眉を寄せた。
アリアがにやりと口角を上げると、あからさまに嫌な顔をするドラコ。


「えーっと?この前は誰に勝ったんだっけ?」
「……意地が悪いぞ」
「ふふ、でもやっぱり私の勝ちだったわね」
「チェスはなしだ。明日はダイアゴン横丁に買い物に行こう。君へのクリスマスプレゼントも買わないと」


さっさと教科書を片付け始めるドラコを見て、アリアもノートの上に置かれていた魔法史の教科書を本の山の一番上に戻した。
クリスマスまであと少し。アリアは笑って頷いて、ノートをぱたんと閉じた。





===2011.08.26