「ビッグニュースよ」


ミートボールを口に運ぼうとしたその瞬間、疾風の如く現れたハーマイオニーが開口一番そう言った。
ハリーは口元まで持ち上げていたフォークを半分おろして、隣にいたロンを見やる。
同じタイミングでこちらを見たロンは、口いっぱいにパイを頬張りながら肩を竦めた。

「ハーマイオニー、今朝の新聞じゃ、まだシリウス・ブラックは捕まってないよ」
「ブラックの話じゃないわよ、いいから食べるのをやめて聞いてちょうだい」

再びフォークを持ち上げた右手が押さえられ、皿の上まで戻される。
不満げに見上げると、ハーマイオニーは思いの外真剣な表情だ。
仕方なく、ハリーは刺したままのミートボールをフォークごと皿の上に戻したままにした。

「どうしたの?前の授業で何かあった?」
「そう、ハリー、そうなのよ!その通り!」
「前の授業って魔法史?それなら一緒に出てたじゃないか。別にいつも通り変わったことはなかったと思ったけど」

パイを飲み込んだロンが口を挟み、ハリーも同意する様に頷いた。
とは言いながらも、魔法史の授業はいつも意識などどこかに飛んでいるので、それこそハーマイオニーが「秘密の部屋」についての質問でもしない限り、ロンもハリーも毎回記憶は一切ないのだが。
ハリーとロンの意識が体を離れてぼんやりしている間に、ビッグニュースと言えるような出来事があったとは思えない。そんなことが起こっていれば、さすがの2人でも意識を体に呼び戻したはずだ。

「ていうか、君、どこにいたわけ?教室を出たらまたいつの間にかいなくなってたし」
「私が言ってるのは魔法史じゃなくて、古代ルーン文字の授業のことよ」
「そんなの受ける暇なかったろ?今日は時間割めいっぱい授業で埋まってたじゃないか」
「とにかく受けたのよ!いいからジュースを置いて聞いてよ」
「あーーはいはいはい。それで、ルーン文字の教授がロックハートより格好良かったとか?宿題を山のように出されて嬉しいとか、そういう話?」
「いいえ、初授業だったし勉強はそれほど進んでいないわ。それからね、古代ルーン文字の教授は女性よ。とーっても美人な」
「へーぇ」

さほど興味がない、と言う様子でテーブルに視線を戻したロンに、ハーマイオニーが眉を吊り上げる。
こういうときのハーマイオニーには逆らわない方がいい。
ホグワーツで過ごした2年間でそれを学んだハリーは、彼女のつり上がった眉を見てすっとフォークから手を離した。

「ロン、ジュースを置いてったら!」
「なんだよ!」

食べることに夢中だったロンに向かって声を大きくしたハーマイオニーが荒々しくテーブルを叩く。
不満顔でグラスを置いたロンは、まるで至福の時を邪魔されたというような表情でハーマイオニーを睨みつけた。

「これでくだらない事だったら君に呪いをかけてやる」
「ええいいわよ、絶対に驚くから」

今にも杖を取り出しそうな顔のロンにフンと鼻を鳴らして、ハーマイオニーはハリーを見て話し始めた。

「ルーン文字のエミリア・ブレイン教授のことよ」
「ブレインなんて教師、見たことないよ」
「大広間で食事することも少ないから、知らなくても仕方ないわ」

ルーン文字学は3年生からの選択教科だし。そう続けた彼女の言葉に、ハリーはふぅん、と頷いた。
3年生になって履修する科目が増えたことで、今まで関わりのなかった教師と接する機会も増えた。ハリー自身も、今年になって初めて存在を知った教師は多い。
これまでは学期末の宴会ぐらいでしか見たことのない教師が、ホグワーツにはまだたくさんいるのだ。

「で?その先生が?」
「ええ、その先生がね、授業の最初に「私のことは是非、名前で呼んで下さい」って言ったのよ」

不満げな顔で話半分に聞いていたロンが聞く。するとハーマイオニーは、さもありえないといった顔で首を振りながら続けた。
彼女の反応に、ハリーは思わず首を傾げた。ロンも同じ考えの様で、まさか、と言う顔でハーマイオニーを見つめている。食事を遮っての鼎談がこんなオチでは、納得いかなくても当然だろう。

「まさか、それでこの話は終わり、とかじゃないよね」
「もちろんよ!」
「そりゃよかった。安心したよ!僕はてっきり   
「最後まで聞いてよ!それで私、その理由を聞いたのよ。ほかに生徒に自分を名前で呼ばせる先生なんていないでしょ?」
「ウン、まぁ、そうだね。それで?」
「ブレインは旧姓で、今はご結婚されて違う苗字らしいわ。それが嘘をついてるみたいでスッキリしないから、だから名前で呼んでほしい、って!」

ここまで話すと、ハーマイオニーはすでにかなり興奮した様子だった。いつもより目は丸くなっているし、両腕を体の横で落ち着きなく上下に振っている。
この状態は、見覚えがある。ラベンダーやパーバティたち女の子が談話室の隅でひそひそ話をする時がこんな感じだ。誰それと誰それがくっついただの、誰それが誰それにフラレただの……そんな話をしている時だ。
ハリーはバレない程度にハーマイオニーから視線をはずして、かぼちゃジュースのグラスをつついた。女子の恋愛トークは、あまり得意な方ではない。

「べつに、新しいファミリーネームを使えばいいのに。なんでわざわざ旧姓を使い続けるんだ?」
「私もそれを聞いたわ。そうしたら、その返事がもうびっくり!」

ロンもかなり興味のなさそうな声で、けれど自分を一切見ずに話すハーマイオニーにムッとしたのか、頬杖をついたまま続きを促すように問いかけた。
思惑通り彼女はロンの方に振り返る。ハリーはその隙にグラスを持ち上げて、かぼちゃジュースをひとくち飲もうとした。けれど次の言葉で、ハリーはグラスに口をつけることなく再び顔を上げることになった。

「結婚相手もホグワーツの教師なのよ!それで、同じ苗字の教授が2人いるとややこしいから、だから名前で呼んでほしいって!」

ハリーと同じく、ロンもようやくこの話題に興味を持ったようだった。ハーマイオニーが得意げな顔で「ほらね言った通りでしょ」と言わんばかりに2人を見る。

ハリーの頭の中で、自分が知る限りの男性教授の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。けれど頭に浮かぶ誰も彼も、美人教授を妻にする甲斐性のある人物には思えなかった。
否、ルーピンなら可能性はあるかもしれない。貧しい風体だが人柄は確かだ。……それともまさか、うーん、フリットウィックとか?その可能性もゼロではない。彼は生徒からの人気も高いし、公平で誠実な人間だ。少々背が低過ぎることを除けば、夫として特に問題もないのではないか。
けれどそれ以外には、ほとんど選択肢もないように思えた。そもそも長らく教鞭をとる教師が多いホグワーツでは、教師の平均年齢もかなり高い。
ロンも同じ結論に達したようだった。

「で、その結婚相手って?」
「知ったら腰抜かすぜ、ロニー坊や」

テンションそのままに答えようとしていたハーマイオニーを遮って、頭の上から声が降ってきた。
ハリーが振り返るのと、両肩にずしりと重みを感じるのはほぼ同じだった。フレッドとジョージがハリーの両側に腰をおろして、いつも通り見事なシンクロで同時にため息を吐いた。

「それこそビックリ仰天、今世紀最大の謎と言っても過言じゃないな。世の中には不可解な事実ってのもあるもんだと思い知らされるよ」
「あなた達知ってたの?」
「3年以上の奴はほとんど全員知ってるさ。俺達もエミリア女史の授業を受けてる奴から聞いた」
「あの教授、男を見る目がないんだ。せっかく美人なのに」

ジョージはわざとらしく哀愁を漂わせて首を振り、フレッドは隙をついてロンのかぼちゃジュースをかっさらった。   「自分のを飲めよ!」

「その上頭は切れるし性格も悪くない。俺達も何度か悪戯中に捕まったけど、その度にあの人がなんて言って俺達を見逃したか知ってるか?」
「『まだまだ可愛いわね、坊やたち』だぜ、ハーマイオニー。あの笑顔で!その上減点もなしだ。俺たち、思わず週末の予定を聞くところだった」
「ありゃ反則だ。あと20歳年が近かったら真剣に口説いてた」

「それで、一体だれなわけ、その相手って」

バタバタと慌ただしくなったロンとフレッドを横目に、ハリーはハーマイオニーに尋ねた。
そして次の言葉に、ハリーもロンも、口を開けたまましばらく固まったのだ。


「エミリア教授の今のファミリーネームは、スネイプ。彼女はエミリア・スネイプなのよ!」










『私の夫は魔法薬学の教授、セブルス・スネイプ先生です』



『せ、先生?』
『はい、ミス・グレンジャー』

どうぞ、と視線で先を促すが、ハーマイオニー・グレンジャーは戸惑った様子で動きを止めた。手を上げて質問の姿勢をとったはいいものの、次の言葉が出てこない様子だった。
エミリア・ブレイン教授は同じく驚いた顔の生徒達を見回しながら、可笑しそうに肩を揺らした。

『笑ったりしてごめんなさいね。私、毎年このときが楽しくて仕方ないのよ』

あなた達が何を考えているか、手に取るようにわかるんだもの。
そう言って、エミリア・ブレイン教授はいたずらっぽく口角を上げる。

『相変わらず、あの人はスリザリン生以外にはとことん嫌われているのね』

グリフィンドールとレイブンクローの両生徒は、バツの悪い顔で隣の生徒と顔を見合わせた。
スリザリン贔屓で有名なスネイプ教授は、グリフィンドール生だけでなく他寮からも好ましく思われることは少ない。
ホグワーツ一公平な   はずだ。おそらくは   レイブンクロー生でさえ、スネイプ教授を慕う者はいないだろう。
それは彼が他のスリザリン生同様グリフィンドールを目の敵にしていること、そして授業に置いて何よりも実力と成績を重視しているにも関わらず、しかしスリザリンだけには例外的に実力の伴わない恩恵を与えていると生徒達が感じているからだった。

けれど妻であるはずの女性はそれを否定も非難もせず、己の夫が嫌われているという事実がさも可笑しいと言うように笑っていた。当然、生徒達は困って口を噤んだが、彼女はそれも含めて面白い様子だ。
そんな中、もう一度女生徒から手が挙がった。

『先生!お聞きしてもいいですか?』
『どうぞ、ミス・ブラウン』
『なぜスネイプ先生と結婚しようと思ったんですか?』

彼女の言葉には純粋な好奇心が表れていた。言葉を選ばずに言うのなら、失礼すぎるほどの好奇心が、だ。

周囲の数人が   礼節を弁えているであろう数人が   非難するような視線をラベンダー・ブラウンに向けた。
授業中に、明らかに恋愛的好奇心からの発言を、しかも教師に向かって放つなんて。
同じ質問をマクゴナガルに放とうものなら即刻減点だろう。その上、結婚相手への避難も含まれる発言だ。今の彼女の問いを聞いた者は彼女の声色から、言葉にはされなかった「なぜ(よりにもよって)スネイプ先生と」という部分も十分に感じ取ったはずだ。

けれどエミリア・ブレイン教授は彼女を咎めるでもなく、教壇に置かれた教科書に目を落としながら答えた。

『あら、そうね……彼は昔からとても優秀で、聡明で、研究熱心でした。博識で、けれど驕らず、強か。もちろん今も』

その場にいた生徒のうち、数人が首を傾げ、半数が眉を寄せて斜め上を見上げ、残りの全員が腕を組んで目を閉じた。
確かに、言葉に嘘はないかもしれない。けれど腑に落ちない。
彼女の言葉は、全生徒の7割から嫌われている教師を表す言葉としてはあまりに美しすぎる気がする。

『そんな彼に、私が一方的に憧れたのよ』










スリザリンに憧れていた。

『真の魔法族』
昔、誰かがそう言っていたのを、どこかで聞いた。そんな曖昧な記憶が発端で、以来ずっとホグワーツへの入学を、そしてスリザリン寮に選ばれる日を待ち望んでいた。

父と母は純血の魔法使いと魔女だった。格別裕福でもなければ、生活に困ってもいない普通の家庭だった。
父は魔法省に務めており、母は日刊予言者新聞の記者だった。
父母にマグルへの差別思想はなく、マグル出身だと言う友人も多くいた。しかし逆にスリザリンへの偏見はひどく、特にマグルを嫌う純血の魔法族を見下していた。

私は昔から勉強は得意で、父はよく私の頭を撫でながら「お前もきっと、父さんや母さんと同じ寮に選ばれる」と誇らしげに話していたのを覚えている。
そんな父を前にして、私は自分の望みを口にすることが憚られた。
父を失望させたくはなかった。


入学の日、父母に見送られてロンドンを旅立つ私は、この汽車の中で運命の出会いをする。
小さい身体に不釣り合いな大きなトランクを引きずって、私は空いているコンパートメントを探した。
狭い通路のあちこちにトランクをぶつけながら進んでいた私に声をかけてくれたのが、


「あなた、1年生ね?」

彼女だった。
彼女はコンパートメントから体を半分出して、私を手招きした。

「他はどこもいっぱいよ。ここで良かったら一緒に座りましょ」

彼女は優しく微笑んで私を受け入れてくれた。
お礼を言って、私は彼女が抑えていてくれた扉をくぐる。
重たいトランクを何とかコンパートメントに引き上げて、一息つく。すると彼女は杖をひとふりして私のトランクを棚の上へ押し上げた。

ありがとう、と小さく言うと、彼女はまた優しく微笑んで「いいのよ」と言った。

「わたし、リリー・エバンズ、2年生よ。よろしくね」

これが私と彼女との出会いだった。
そして、

「ほらっ、セブルス、あなたも!」

    セブルス・スネイプとの出会いでもあった。





===2018/03/20