校長に呼ばれたのは、階下のハロウィーンパーティのざわめきが収まってしばらくした頃だった。
学年末のパーティー以外には殆ど参加しないエミリアは、自室で5年生の課題の採点をしていた。
前触れなく突然目の前に現れた不死鳥が、エミリアの頭上を優雅に一周し、そして厳しい声で事件を告げた。

    シリウス・ブラックが場内に侵入し、グリフィンドール寮のゲートを守る『太った婦人』が襲われた。

エミリアは立ち上がり、校長の寄越した守護霊にすぐに参ります、と告げる。
守護霊はエミリアの前で一度頷き、輝く翼を1度大きく広げると、光とともに上昇するように霧散した。

開いていた本を閉じ、部屋着を脱いでローブに手を通す。
念の為自室の窓や暖炉に施した侵入防止の魔法を再度確認してから、部屋を出る間際、ため息とともに小さく呟いた。

「……馬鹿なひとね」



グリフィンドール寮の手前まで行くと、そこはまだ生徒で溢れ返っていた。生徒達はしきりに隣の生徒と顔を見合わせ、みな興奮した様子で囁きあっている。
監督生が大広間へ生徒を誘導しようと大声を張り上げるが、大勢のささやき声と、その上を楽しそうにはね回るピーブズの声にかき消されて移動は難航しているようだった。

エミリアはその人だかりの先に、頭ひとつ飛び出た白髪の姿を見つけた。すぐ側には複数の教員の姿も見える。けれど生徒の波をかき分けてあそこへ辿り着くのは、骨が折れそうだ。エミリアはひとつため息をついて、生徒の不安感を煽りながら監督生の妨害にもつつがなく勤しむピーブズを見上げた。不安顔の1年生の帽子をつまんでは、楽しそうに鼻歌を歌っている    「ブラックがきた、ブラックがきた、だ〜れを殺しに来〜たのかな?」


「ピーブズ」

とびきり優しい声で、エミリアが呼びかける。するとはね回っていたポルターガイストはぴくりと肩を震わせて空中で停止した。
ピーブズと、その場にいた生徒全員の目がエミリアに向く。

「お黙りなさいな」
「Yes ma’am!」

右手をあげて敬礼の形をとったピーブズがシュッと音を立てて姿を消した。5年の双子が賞賛の口笛を吹いたのが聞こえたが、エミリアはお礼を言う監督生に笑顔を返しただけで、生徒達に先を促した。
すれ違う生徒が、知った顔も知らぬ顔も、ほとんど全員がエミリアを見上げて、そして一瞬背後の教師陣を振り返って通り過ぎていく。
生徒の波が落ち着いたところで、エミリアはようやくグリフィンドール寮の前までたどり着いた。

「校長先生」

声をかけると、ダンブルドアと、その向こうにいた黒髪が、ゆっくりと振り返った。黒い瞳と一瞬視線が合うが、エミリアはすぐにその視線を壁の絵画へと向ける。
グリフィンドール寮へ続く入り口を守る絵画は、無残という言葉で片付けるにはあまりにもひどい状態だった。

「……酷いですね」
「まこと、その通りじゃ、エミリア」

思わず眉をひそめて、胸の前で手を組んだ。床に散らばったキャンバス生地が、その凄惨さを物語っている。
『太った婦人』は、それは恐ろしい思いをしただろう。絵がこんなにされるまで逃げ出さず、その場で恐怖に竦みながらも侵入者を拒み続けたのだろうか。
今頃どこかをさ迷い嘆いているであろう彼女に、エミリアは心から同情し、そして非道な犯人を恨んだ。
膝を折って落ちた欠片を拾い上げたエミリアの肩に一度触れて、校長はその場にいる教員全員に向き直った。

「今夜は生徒全員を大広間に集めることにするのが良いじゃろう。各寮の寮監は生徒を大広間へ。マクゴナガル先生、フリットウィック先生、生徒が揃ったら、広間の守りをお願いできますかな。ルーピン先生はほかの先生方とミスター・フィルチを集めてくだされ。城内をくまなく捜索するのじゃ。指揮は西をスプラウト先生、東をスネイプ先生にお任せしよう」

教員たちが頷いたのを確認して、ダンブルドアはエミリアを見た。険しい表情からは、緊張が感じられる。けれど、それ以外の感情は読み取れなかった。

「エミリア、ブラックもそうじゃが、まずはわしらの哀れな友人を捜さねばなるまい。『婦人』の行きそうな場所に心当たりはあるかの?」
「ええ、幾つか」
「ではそちらをお願いしよう」

エミリアが了承すると、ダンブルドアはもう一度全員を見た。

「今夜は、長い夜になるじゃろう」





エミリアと絵画の親交は学生時代からのものだ。
歴史あるこのホグワーツで、絵画たちは生徒個々人の記憶を長く心に留めることはない。けれど自身の話に礼儀を持って耳を傾けるエミリアを、絵画たちは記憶し、名を覚え、いつからか「生徒」や「教師」ではなく、「エミリア・ブレイン」に向けた言葉を発するようになった。

敬意と礼節を忘れなければ、絵画であっても心を開く。これはエミリアが学生時代の友人から学んだことであった。絵画に対し、膝を折って礼を述べた友人の姿を見たあの日以来、エミリアは彼のこの言葉を忘れたことはない。
礼には礼が返される。絵画相手でもそれは例外ではない。エミリアは20年以上その姿勢を貫いてきた。ホグワーツには、数百、あるいは千にも届く絵画が収められている。全てを把握しているわけではないが、今ではエミリアが知らずとも彼らがエミリアを知っていた。

4階の西階段を一通り訪ねたあと、エミリアは3階へと降りた。普段から生徒の通りは少ない廊下だったが、絵画の中の上品な婦人たちの笑い声が耐えない賑やかな廊下だった。けれど今日はひそひそと小さな噂話と、同情の声が地を這うように広がっている。
エミリアが目的の絵の前に立つと、友人の胸に身を寄せていた『太った婦人』が涙の溢れる目をエミリアに向けた。

「ミス・ブレイン!」
「ああ、お労しいわレディ、お加減は?」
「ひどいの!ひどいのよ!ああ、エミリア、わたし……!」


穏やかな牧場の絵の中から、『太った婦人』がエミリアを呼ぶ。あまりの勢いに絵の中から飛びだしてきそうだ。嫋やかなドレスは切り裂かれ、綺麗に整えられていた髪は乱れ、血色の良いふくよかな頬はいつになく蒼白だ。その悲惨な様にエミリアは同情を寄せた。
優しく『 婦人』の肩を叩く友人達に囲まれて、彼女は怯えた声でひどい、ひどいと繰り返す。しゃくりあげて涙を流す彼女に、胸を貸してやれないことが悔やまれた。
口々に犯人への憤りを(決して上品とは言えない言葉で)露わにする婦人のご友人方を宥めながら、エミリアは痛む気持ちで額縁にそっと触れた。







「エミリア、『婦人』は?」

大広間に戻ると、生徒達が床一面に寝袋を広げて眠りについていた。僅かに動く先生と監督生たちの囁き声だけが聞こえてくる。
その中に背の高い白髪の姿を見つけ、エミリアは足音をたてないようにゆっくりそちらへと向かった。

「3階で見つけましたわ。可哀想に、ひどく動揺していましたが……覚えている事はすべてお話して下さいました。ひとまず落ち着いて、今はご友人のバイオレットの所に。彼女が宥めてくださっています」
「ありがとう。落ち着いたらフィルチに言って『婦人』を修復させようぞ」
「その際は、お手伝い致します」

自らの申し出にも関わらず、エミリアは頭を下げて願うようにダンブルドアに言った。そんな彼女に、ダンブルドアも表情は険しくも、ありがとうと小さく礼を伝えた。

衣擦れの音がもうひとつ近づいてきたのは、その直ぐ後だった。同時に振り返ったエミリアとダンブルドアの前に、闇に溶けるようにセブルスが現れた。
エミリアが場所を譲るように一歩引くと、セブルスがダンブルドアの前に立つ。

「4階はくまなく探しました。奴はおりません。さらにフィルチが地下牢を探しましたが、そこにも何もなしです」

簡潔に報告したセブルスがそこで言葉を切り、校長の反応を待つ。エミリアはちらりとその横顔を覗いたが、彼のいつもと変わらぬ、他に関心を持たないような顔の下に、まだ燻る言葉があることにすぐ気づいた。
眉をよせぬようにと務める僅かな仕草は、彼が己の言葉を発する機会を見極めている時の癖だ。

「セブルス、ご苦労じゃった。わしも、ブラックがいつまでもぐずぐず残っているとは思っておらなかった」
「校長、やつがどうやって入ったか、なにか思い当たる事がおありですか?」

その言葉に、エミリアは視線を落とした。目の前の彼らの足元で眠る生徒の頭を意図もなく見つめながら、エミリアはセブルスの次の言葉を聞いていた。

「内部の者の手引きなしには、ブラックが本校に入るのは    ほとんど不可能かと。我輩はしかとご忠告申し上げました」
「この城の内部の者がブラックを手引きしたとは、わしは考えておらん」

校長の明瞭な態度に、セブルスの言葉尻が強くなる。けれどダンブルドアは首を横に振るばかりで、彼の言葉を受け入れる素振りはなかった。
エミリアは、これまで幾度となく見てきた同じ様な光景を目の前の二人に重ね、けれど口を噤んだまま静かに立っていた。
最後には背を向けたダンブルドアに対して、セブルスもそれ以上口を開かず踵を返す。


「……エミリア」
「はい」

呼ばれるまま彼の後ろを歩き、広間の外へと向かう。

「教員もこの後交代で休息をとる。君ももう休め」
「そうします、スネイプ教授」

エミリアは1度だけ振り向いて、背を向けたままのダンブルドアを見る。自分の知る限り、その背中は常に他を寄せつけぬ程大きく、寛容で、何処か遠く、そして常に無慈悲で冷然としている。
校長は彼を信用しているが、信頼はしていない。幾度となく突きつけられるその光景に、エミリアは疲れにも似た感情を抱いていた。

大広間を出てすぐ、セブルスは僅かな溜息の後に口を開いた。

「『太った婦人』は?」
「相手が生徒でないのはわかったけれど、シリウス・ブラックだとは最初気付かなかったと言っていたわ。何度か当てずっぽうな合言葉を繰り返していたそうだけど、『婦人』が扉を開けないものだから、絵を傷つけて脅したそうよ。ナイフを持っていたと」

ナイフと聞いて、セブルスは酷く顔を歪めた。彼のその嫌悪感はエミリアにも十二分に理解できる。
杖も持たず、刃物を振り回して女性を脅すなど、まるで野蛮なマグルのようだ。純血の一族であり、その希な才能を欲のままに使っていたかつてのブラックを知るからこそ、今の彼の状況には、かつてとは違う種の嫌悪と憤りを感じる。落ちるところまで落ちた、とは正にこの事だ。

「短気で愚かなことは知っていたけど、馬鹿だと思ったのはこれが初めてね」
「分かっていたことだ」

吐き捨てるように言ったセブルスにエミリアは視線を向ける。確信に似た色を湛えたその目。彼のこんな目を見たのは、いつ以来だろうか。


「……ルーピンが手引したと思ってらっしゃるのね」
「その線が一番可能性が高い」
「ルーピンは愚かではないわ   もちろん、”愚かでない”ことは、”愚かだった”ことを否定するものではないけれど   でも彼は、もうシリウス・ブラックを信じていない」

エミリアの言葉はルーピンを擁護するものでも、ダンブルドアを肯定するものでもなかった。ただエミリア自身が、ルーピンと再会した時に抱いた正直な印象だ。
けれどセブルスは表情を険しくするばかりで、まるでエミリアの言葉から離れようとするかのように、ゆっくりと地下の自室に向かって歩き出した。
彼の頑固な態度はいつもの事だが、それでもエミリアは、この時、溢れる溜息を飲み込むことが出来なかった。


「……彼らが憎いのは受けた仕打ちの所為?それとも、彼の裏切りが招いた結果の所為?」


遠ざかる背中に向かって、突きつけるようにそう放つ。
ぴたりと足を止め、振り返ったセブルスの顔に怒りはなかった。けれど静かに燃え続ける彼の中の感情が、敵意のような鋭さを持ってエミリアに向けられていることだけは確かだった。
それが屈辱であり、嫉妬であり、愛情であることをエミリアは知っていたが、その感情のどれもが、自分に対するものではないことも、彼女はよく知っていた。

「君に   
「ええ、そうね、私が口を出すことじゃないわ」

冷静な表情とは対照的に、セブルスの声は地を這うような冷たさに満ちていた。
エミリアはその先を彼が告げる前に口を開いて、そしてその目を見据えることなく、礼儀的に頭を下げた。

「もう下がります。セブルス、貴方も少し休んで」

それだけ告げて、エミリアは目を伏せたまま夫に背を向けた。 蝋燭の灯火が僅かに照らす階段を上がり、一度も振り返ることなく廊下を進む。
セブルスは何も言わず、けれど最後までその場を動かずに、妻の姿が闇に消えるのを見ていた。





===2020.1.25