螺旋階段を、僅かに靴を鳴らしながらゆっくりと登る。
あまりに静かなのは気配を消しているようで相手への印象が良くないし、高い音を煩く響かせるのは品が無くていけない。控えめに、存在だけを意識の端に認識させる程度。そう教えてくれたのは在学中の先輩だ。彼女から教わった作法や所作は、エミリアの中に深く息づき、今では骨の髄まで染み渡っている。伸ばした背筋、流れるような仕草。エミリアをちらとでも見た者は、彼女が間違いなく良家の出身であると信じて疑わないだろう。彼女は在学中にその認識に違わぬ品格を身につけ、そして損なわなかった。

右手を胸の高さまであげて、目の前の扉を4度叩く。コンコン、コンコン、と高い音が響き、それを部屋の中の主が認識したであろう頃に、エミリアは息を吸った。


「校長先生」


声は螺旋階段に響き、部屋の中にも届いただろう。数秒後、主の返事を待たず、部屋の扉がゆっくりと開いた。扉が開き切るのを待って、エミリアは校長室へと足を踏み入れる。
鮮やかでいて落ち着いた温かみのある室内は、今夜はしかし、僅かな蝋燭の灯火と、窓から差し込む月明かりだけで照らされた薄暗い色をしていた。音も光も、まるで機を窺う獣のように、今はその也を潜めている様だった。
最奥でこちらに背を向けていたダンブルドアの代わりに、彼の不死鳥がエミリアを見つめた。ビロードの様なその瞳に向けて、エミリアは穏やかに笑みを向ける。

「どうかなさったかな、エミリア」
「ええ、少し……月が明るいので、散歩をしようかと」

一層明るい声でそう言ったエミリアの言葉に、ダンブルドアが漸く振り返る。相変わらず感情の読めない目だったが、その目が少しだけ探るような空気を纏った気がした。否、それも気の所為かもしれない。直ぐに微笑んで、まこと、と返したダンブルドアは、流れるような仕草で袖を持ち上げて椅子に腰かける。
エミリアは先の言葉に、同僚への皮肉を込めた哀悼と、今夜起こった出来事への僅かな怒りを含めたつもりだったが、それを目の前の偉大な魔法使いが寸分違わず汲み取ってくれたかどうかは分からなかった。けれど、ここへ来た理由は不毛な文句を言うためではない。

「シリウス・ブラックとお話させて頂きたく、お願いに参りました」

顔を伏せて膝を折ると、ダンブルドアは眼鏡の奥の瞳を僅かに光らせた。

「ほう。“お話”とは?」
「そうですね。随分と久しぶりですから……ご挨拶と、思い出話を少し」

軽い調子で言ったエミリアの言葉に、ダンブルドアは目を細めて笑いを零した。

「やはりあなたはセブルスよりも強かですな」
「まさか。彼は私にとって、未だに前を往く者ですわ」

これは本心だ。
エミリアの言葉に、ダンブルドアは細めた目の内側に僅かな哀れみを湛えたが、それは気にならなかった。校長が我々を特にエミリアを必要以上に哀れみの目で見ている事をエミリアは知っていたが、それを訂正する気もなかった。
それは、本当の意味でダンブルドアが己の味方にはなる事は決してないと確信を持っているからだ。

「……あなたにとってのセブルスは、あの頃と確かに変わらないのじゃな」

呟くようなその声には、言葉を返す理由が見つからなかった。視線を下げたまま口を開かずにいると、ダンブルドアは立ち上がって一息付き、さて、とエミリアに向き直った。

「わしは医務室へ行かねばならぬ。今夜為すべきことがまだ残っておるようじゃからの。もちろん、わしに出来ることなど微々たる事だが」
「それは、了承を頂けたと受け取っても?」
「今生の別れを告げに行くというのなら、わしは止めたじゃろう」

その言葉に、エミリアは僅かに眉を寄せる。言葉通り素直に受け取るのならば、つまり校長は、これからブラックの死を食い止めるために動くということだ。殺人鬼と言われ、野蛮にもホグワーツへ侵入して歴史ある絵画を八つ裂きにし、無関係な大勢の子供達を恐怖に陥れた男を。
扉に向かって歩き、エミリアの脇を通り過ぎていくダンブルドアの、その背を見据える。
その背中を、今宵の満月が煌々と照らしていた。


事件の直後、気を失い倒れているセブルスを見たエミリアは激しく動揺した。彼のこんな姿を見たのは初めてだった。
意識のない彼に駆け寄り、すぐさま《エネルベート》しようとしたエミリアを引き止めたのは、当然ダンブルドアだ。彼にとって、セブルスが今目を覚ますことは望ましからぬ事だったのは言うまでもない。一瞬でも早く夫の無事を確認したいと願う妻の不安や動揺など、ダンブルドアには歯牙にかけるほどのことではなかったのだ。

……解っていた事だ。
閉じた扉に小さく溜息を零し、エミリアは力の籠る両手を胸の前で組んだ。







「ミスター・ブラック」

流れる雲が月を隠し、格子の向こう側にいる人物の姿を隠す。僅かに見えるのは、薄汚れたローブの裾と、光を跳ね返す目。
鳥籠のように小さな檻の前に立ち、エミリアは暗闇の中の影に向かって淑女然とした振る舞いで膝を折った。その顔に、僅かに笑みさえ浮かべて。

「……君は」
「エミリア・ブレインと申します。ホグワーツ時代はあなたのひとつ下の学年で、スリザリン生でした。今はここで、ルーン文字学の教鞭を」

暗闇の中見えずとも、エミリアには檻の中の男が眉を寄せたのが空気で解った。
不快を誘った理由はスリザリンというその言葉か。または彼の嫌った社交界を彷彿とさせるエミリアの物言いか。それとも「一つ年下のスリザリン生」という情報から僅かな記憶を辿っているのかもしれない。
何れにせよ、エミリアにとっては奇怪しい反応だった。口の端から思わず零れた笑みをそのままに、エミリアは穏やかな口調で続ける。

「覚えていなくても無理はないわ、お気になさらないでね。あなたにとっての私は、大勢いるスリザリン生の中のひとりでしかなかったのだし、私も直接あなたとお話するのは、ほとんどこれが初めてだもの」
「…………」
「でも、私はあなたを覚えていますよ。あなたはとても成績優秀で、女の子に人気があって、寮の人気者でしたから。……ただ私の寮では、『傲慢な差別主義者』の方がスタンダードな評価でしたが」

言葉を紡ぐ度に鋭くなっていく男の敵意が、エミリアに突き刺さる。けれどエミリアはこの男に対してなんの恐怖も抱かなかった。杖を失い、地位と信用を失い、命すら失う直前の男を哀れには思えど、恐れの対象になど出来ようもない。

「何の用だ」
「……何の用?」

男の言葉を繰り返し、エミリアは今度こそ声を出して笑った。

「『何の用だ』ですって。学生だったあなたが、意味もなく、あなたの不満の吐け口に私たちを利用して悪戯に傷つける度に、何度私たちがそう訴えたかしら?」

それも、セブルスが止めるまでの間のことだったが。
そう、彼らがセブルスに目を付けたのも、最初はそんな理由だった。そして、誰でもよかったはずの吐け口が、ひとりの明確なターゲットを得た事で彼らは自分を正当化した。不特定多数に対する“八つ当たり”から、特定の“気にくわない”ひとりへ。あいつは嫌な奴だ、だから懲らしめる。そんな子供のような理由を掲げて公然と他人を辱め、苦しめ、それをまるで正義のようにひけらかした。
この男はただ己に影を落とすスリザリンを目の敵にして蔑みたかっただけだ。そしてそれがたまたま、リリー・エバンズと親しかったセブルスを疎むポッターの意とも合った。

そうだ、あの人は、この“幼く悪意のない犯罪者”から、ただ私たちを守っただけだったのに。


「失せろ」
「あら、脅しかしら。身も竦むわ」

ふっと息を吐いて、エミリアは改めて男の目を見た。雲が流れ、月が光を落とす。暗闇に慣れた目も、先程より鮮明に男の姿を映し出した。
伸びたボサボサの髪、顔や指先に付いた黒い汚れ、それらがブラック家らしい白い肌を覆っている。眼光は鋭く、痩せた頬には髭が伸びている。かつての彼を彷彿とさせる面影は何一つない。唯一記憶と同じものは、彼から向けられるこの嫌悪のみ。

「……あなたは変わらないのですね。未だに、自分と思想を別つ者になら何をしても許されると、当然のように思っていらっしゃるように見えるわ。そんな愚かな過去の自分を恥じるくらいには……成長なさったかと期待したのだけれど」

零れた溜め息が空気を揺らす。思いの外態とらしく聞こえたであろうその言葉は、けれど本心である。
目の前の薄汚れた男は、憎しみだけを湛えてエミリアを見ていた。己が受けた扱いは不当なものであると、己は正しいのだと信じて疑わない目だ。

「覚えていないのかしら、ミスター・ブラック。あなたがアズカバンに入ったとき、あなたの罪を疑わなかったのは私たちだけではないわ。かつてあなたが友とした人々は、あなたが親友を裏切ったと聞いても真っ向から反論することは無かった。ダンブルドアも、ルーピンでさえ、一旦はそれを事実として受け入れたのよ。残念ながらその理由は、あなたがブラック家の人間だからじゃない。これが周囲の者の『あなた』への評価よ」

勢いよく立ち上がった影が、拳を握ってエミリアを睨んでいる。それでもエミリアは動じずに言葉を続けた。

「私ね……あなたがここで吸魂鬼のキスを受けるなら、夫に代わってぜひご見学させて頂こうと思っていたの……けれど、残念。それは無理みたい」

正直に言えば、吸魂鬼のキスなどという醜穢な場に立ち会いたいとは微塵も望まないし、ブラックの死に様にも興味はない。エミリアは目の前の男の生死などどうでもよかった。ブラックが生きていようといまいと、過去の罪も、傷も、記憶も消えないのだから。
だが夫の希望を汲んでやりたい気持ちだけはあった。死刑の見学など悪趣味だと思う。けれどそれで、欠けた彼の心の何かが僅かにも満足を覚えるのなら、エミリアにとっても、ブラックの死は意味あるものになっただろう。
けれどブラックは死なない。今まさに、この男を生かそうと動いている者達がいる。そう、それを望むのはおそらくダンブルドアだけではないだろうと、エミリアは確信していた。

「……ああ、ほら。来たわ」

雄々しい翼の音が耳に届き、エミリアは振り返って空を仰いだ。満月を背に空を駆けるヒッポグリフが、優雅に翼を上下させて向かってくる。その背に人影を視認して、エミリアは零す言葉に諦めを滲ませた。

「ダンブルドアがあなたを生かすということは、あなたにはまだ利用価値があるということだわ。だから今は逃げ出して、万が一あなたが役に立つ時まで精々惨めに生きればいい」

次第に近づき大きくなる羽音に包まれる中、エミリアはブラックに向き直った。満月の輪の中の影を驚きの顔で見上げていた目が、再びエミリアに向けられる。エミリアはにこりと人当たりの善い笑顔を向けて杖を取り出した。


「よく覚えておくことね、ミスター・ブラック。あなたの罪は友人を守れなかったことでも、友人の敵を殺し損ねたことでもない。己が正しいと絶対的に信じて疑わなかったことよ」


杖先を錠に向けると同時に、カチリと音を立てて錠前が外れる。驚きと疑いの目で錠と、そしてエミリアを見たブラックに今度こそ背を向けて、エミリアは舞い降りたヒッポグリフの元へと進み出た。

「先生!?」
「こんばんは、ミス・グレンジャー。それにミスター・ポッター、ご苦労様です。鍵は開いていますよ」

声を上げたグレンジャーと、戸惑いの表情のままのポッターにそう声をかける。まるで廊下ですれ違うような軽さで挨拶をしたエミリアに、2人は顔を見合わせて言葉を探しているようだった。彼らの行動を考えれば、今誰かに遭遇することは決して喜ばしいものではないだろう。それが、彼らが救いたい人物と真っ向から敵対し、誰よりもその死を望んでいる男の妻ならば尚の事。
鍵は開いている、と言ったエミリアの言葉に、彼らは更に困惑したようだ。エミリアを敵か味方か判断しかねている。
そんな彼らを他所に、エミリアはヒッポグリフに向き合った。目を合わせ、微笑んで、そして頭を下げる。さっとお辞儀を返したヒッポグリフに歩み寄り、その嘴を優しく撫でた。

「お別れね、バックビーク。……どうか元気で」

甘える様に目を閉じて頬を寄せたバックビークに自分も頬を寄せて、エミリアは最後に、牢から出てきたブラックへと笑顔を向けた。

「ではご機嫌よう、ミスター・ブラック」







医務室へと向かう途中の廊下で、エミリアは窓の外に遠ざかるヒッポグリフの影を見た。その背に跨る影を確認し、そしてひとつ息を吐く。バックビークが救われたのは喜びだった。
彼の処刑が決まったと教えてくれたのは、魔法省の知人だった。ハグリッドは初めての授業で三年生にヒッポグリフを引き合わせ、マルフォイの子息に傷を負わせた。そしてその後の聴取でも裁判でも、ハグリッド並びに学校側からの謝罪はなされなかったという。
父母の怒りは当然だろう。魔法生物から受けた傷はそう綺麗に治るものでもない。傷跡は消えず、程度によっては後遺症も残る。一生物の傷だ。
ドラコ・マルフォイもそれを理解していただろう。医務室に彼を見舞った時、彼はエミリアが何を言う間もなく、稚拙な行動に対しての反省と後悔を示し、そしてごめんなさいと呟いた。その姿がまだ幼い頃の彼の姿と重なって、思わず笑いが溢れてしまったのだ。きっと、父母や寮監、友人らから少なくはない小言を頂いたばかりだったのだろう。エミリアからこれ以上の小言を頂かないように先手を打ったのかもしれない。彼の腕を見て、跡が残りますよ、とだけ告げたエミリアに、彼は小さく頷き、不本意ながらもそれを受け入れた。
ドラコが理解しているそれを、よもや教員であるハグリッドが理解していないとは思えない。しかし、どうも彼にとっての傷跡とは「その程度」でしかないようだと、危険生物処理委員会の知人はため息を漏らしていた『消えない傷を負わされた生物への恐怖も、息子を傷物にした生物を恨む父母の気持ちも、どちらも彼には理解出来ないだろうよ。裁判での彼は、己の無知を棚に上げ、ドラコの無知を責めるばかりだった』
バックビークの唯一の不幸は、彼の今の主がハグリッドであったことだろう。でなければおそらく判決は変わっていた。ハグリッドからの、あるいはダンブルドアからの正式な謝罪さえあれば、マルフォイは矛を収めたに違いないのに。

「……“彼ら”は、そうとは考えないでしょうけれど」

遠ざかるヒッポグリフの姿が、闇夜に薄れて消えていく。いつだったか、初めてその背に跨った過去の記憶を思い出すように右手を撫で、エミリアはバックビークの幸を祈った。ブラックとの逃亡生活は、ホグワーツでの暮らしとは掛け離れた窮屈さを彼に強いるだろう。





再び歩みを進めた時だった。エミリアは、廊下を駆けてくるその姿に気付いた。エミリアが気付くと同時に、彼もエミリアに気付いた。視線が合い、淀みない歩で向かってくる姿に、エミリアは胸をなでおろした。

「セブルス、っご加減は」
「ブラックは!」
「逃げました」

彼の目が鋭くエミリアを捉え、そして直ぐに逸らされた。その目が窓の外の夜を写し、荒立つ心を沈めるように数回肩を上下させる。
エミリアは何も言わずに彼の言葉を待った。

「……事の次第は」
「ペティグリューが生きていたそうです。守人は彼であったと。けれど彼は逃げ、ブラックの冤罪を証明するものはなくなりました」
「冤罪だと?」
「そう言ったのはポッターとダンブルドア先生です」
「校長がブラックを逃がしたのか」

頷いたエミリアを見て、セブルスは息を吐いた。その息が、僅かに震えている。
彼は渦巻く感情を抑えようとしていた。例え秘密の守人がブラックでなかったとしても、過去の結果は変わらないという事実への憎しみを。ブラックの裏切りが発端ではなかったとしても、ブラックがペティグリューを守人に選んだ判断が発端であることは変わらないことへの憤りを。彼の無実が証明されても、二人が死に、一人が破滅し、一人が生き残った十三年前の事実は変わらないのだから。
僅かな沈黙の後、セブルスが顔を上げる。きっと、彼も校長室へ向かうのだろう。それを感じとって、エミリアは僅かに身を引いて道を譲開けた。広い廊下だ。当然エミリアが身を引く必要などないのだが、そうすることで、エミリアはセブルスの意志を是とした。

エミリアの行動の意味を汲んだセブルスが、しかしその先へ進むことなくエミリアを、見た。何か言おうとして開いた口が、音を零す前にまた閉じる。
それがセブルスの、先程の己の態度に対する謝罪であり、己の無事を告げる言葉であり、気遣いへの感謝であることを、エミリアは誰よりも知っている。
そして、それが何より嬉しかった。

「部屋でお待ちしています」
「……ああ」

頷いたセブルスは、それ以上何も言わずにエミリアの脇を通り過ぎていった。その背中を見送り、エミリアは言葉にはされなかった彼の言葉を胸に落とし、静かに笑った。



===2020.11.16