音のなくなった廊下に、ないはずの音が響いた。


ついさっきまで煩く喚いていた連中は、今は誰ひとり動かない。彼らは冷たい石畳の上で体を不自然に捻らせたまま倒れていて、意識も、息があるかどうかさえ怪しい。
けれどピクリとも動かない彼らに興味など沸かないから、生きてるか死んでるかはどうでもいいことだ。たとえ死んだからといって世界がどうなるわけでもないし。まぁ多分、死んじゃいないと思うけど。

右手を上げて、固く握りしめていた拳をぐっぱと動かした。痺た手の感覚が戻ってくる。冷たかった指先に血が巡っていくのを感じていると、手の甲がひどく汚れていることに気付いた。
ローブで拭うのは跡が残るから、さっさと消してしまおう。そう思って、右手を頭上に伸ばした時だった。


「君が噂の不良少女?」

廊下の先で、誰かくすりと笑った。
それは明らかに侮蔑を含んでいて、人を苛立たせる嘲笑だった。

声の方へ視線を向ける。すこし離れた場所に、埃ひとつついていない綺麗なローブを纏った少年がいた。その姿をちらっとだけ視界に入れて、すぐ頭上に視線を戻す。フワフワと浮いていた杖の束が、たった今引力の存在に気付いたかのようにポトリと落ちてきた。

束の中から自分の杖だけを1本引き抜いて、残りを廊下に放り捨てた。カラカラ、と軽い音を立てて、不必要な杖が廊下を転がる。

「お前、誰?」
「同じ寮生の名前くらい覚えておきなよ」
「興味ない」

使い慣れた杖を一振りする。すると、手の甲もローブの裾も、ネクタイも全部が一瞬で綺麗になった。つい一瞬前まで、他人の血で汚れていたとは思えない程に。
……ほんと、魔法って便利。

「君、自分の噂を知らないの?」
「それも興味ない」

未だその場から動かない少年が、呆れたようなため息を吐いたのが分かった。けれど、それにも興味はない。顔すら見る気にもならなかった。右手に杖を持て余しながら、その少年の脇を通り過ぎる。視線が追ってくるのが気配で分かったが、どうでもいいことだった。

「みんなは君を、喋るキメラみたいだって言うけど」
「何それ、センスなさすぎ」
「なんてことない、ただの可愛いピクシー妖精ってところだね」

また、嘲笑の声色。
その声に立ち止まって、ようやくその少年に目を向けた。痩せて青白く、ひょろりと背が高い。しかし顔立ちは整っていて、真黒の髪に、底冷えするような冷たい目をしていた。迷いなくこちらを見つめてくるその視線を受けて、思わず口角が上がった。杖をくるりと回して、その少年に正面から向き直る。

「じゃ、妖精ちゃんと遊んでみる?イタズラじゃすまないだろーけど」
「構わないよ。お得意のボクシングごっこじゃ僕には勝てない」

少年は朗らかな調子でにこりと笑う。それに応じるように、こちらもふわりと笑顔を作った。杖をおろして、小さく笑う。

「へぇ、お前マグル出身?」
「!」

少年の穏やかな表情がようやく崩れた。驚きこそしないものの、笑みは消え、目に警戒の色が浮かぶ。首元を見れば、スリザリンカラーのネクタイが窺えた。その銀と緑を見て、尚更笑いが込み上げてきた。耐えきれず、口の端からくすくすと笑いを零す。

「ボクシングだって。素性隠しておきたいならもっと賢くなりな、クソガキ」

少年よりも高い目線から吐き捨てると、綺麗な顔が僅かに歪んだ。そのままその少年を置き去りにして歩き出す。静かな廊下に自分の足音だけが響き渡って心地いい。
けれど数秒の後、もう一つの足音が足早に追いかけてきた。すぐに隣に黒い影が並び、薄暗い廊下に2つの影が並んで映し出された。

「……君がマグルなんだろ」
「んなわけない」
「なら君こそなんで……僕が、そうだと思った?」
「別に?育ちが"あっち"なだけ」
「僕もだ」

少年の声がより強く廊下に響く。
見ると、彼は憎々しげに自分の影を見つめて、僅かに眉を寄せていた。

「ただそれだけだ」
「あっそ」

鼻で笑ってそう返すと、面白いほど正直に、嫌悪の目で見つめ返された。はじめに見せていた余裕は消え、警戒の色が強くなる。真っ直ぐな視線は力強く、まるでこちらの思考を読もうとしているかの様で、こちらも少しだけ警戒心を強めた。
足を止めて、少年に向き直る。鋭い眼光に幼さの残る表情、高慢な態度と少し高い声。まるで矛盾だらけだ。大人になりきれない子供のただの背伸びかとも思ったが、少しだけ、この少年に興味が沸いた。

「お前名前なんて言ったっけ?」
「名乗ってない」
「はぁ?名乗れよ、礼儀だろ」
「君も名乗ってない。先に名乗れよ」
「話しかけてきたのはそっちだろ。礼儀のないやつに礼儀を返す気はない」

見下ろしてそう言ってやると、不服そうに顔を歪めた。少年はしばらく沈黙してから、一瞬何かを思案するような顔をして、そして口を開いた。

「トム・リドル」
「1年?」
「2年生だ」
「ふたつ下か」

口角を上げると、少年はますます気に入らないという顔をする。その抗議の視線を右手で制しながら、目の前の少年をぐるりと観察した。
緑のネクタイはかっちり首元でしめられている。髪も洋服も清潔で乱れがなく、ネクタイもせず制服を着崩している自分とは正反対だ。けれど人をまるで信用する気のない粗野な目には見覚えがあった。毎朝鏡で見る、曇りのない暴戻さの溢れる色。
まるで自分を見ているようで、それでいて相容れない別の何かを見ているようで、落ち着かない気持ちに苛立った。目の前の少年を、一思いに消してしまえたらどんなにいいかと、一瞬考えた。


「リドルね。覚えた」

底冷えするような薄暗さと、血の匂いのする石畳の廊下。
これが彼との最初だった。






===20130714