ダイアゴン横丁 1 / 4
平衡感覚がシェイクされ、視界がぐるぐると回ったかと思うと、次の瞬間、ユリィはロンドンにある祖父の家の暖炉に立っていた。ユリィは舞い上がっている灰を吸い込まないようそうっと深呼吸をして、クラクラする頭を何度か振った。
煙突飛行ネットワークは、イギリスの魔法族では一般的な移動手段だ。
魔法省に登録された暖炉と暖炉を結びつけ、フルーパウダーを使うことでその間を自由に移動することができる。訓練や練習などを必要とせず、子どもでも使える非常に便利な移動方法だったが、ユリィはこれがあまり好きではなかった。幼い頃に少しだけしか乗ったことはないが、地下鉄とやらの方が好きだ。煙突飛行と比べればかなり時間はかかるけれど、混雑していなければ本を読みながら座っていられるし、灰まみれにもならない。
ユリィは黒いワンピースにまんべんなくくっついた灰を払い落してから、実家のものより狭い暖炉から出た。お気に入りのメリージェーンを通して、足元にふかふかのカーペットの感触を感じる。
「いらっしゃいませ、お嬢さま」
ユリィが目眩を堪えながらワンピースに残った灰がないか確認していると、正面から聞き覚えのあるキーキー声がかかった。
「クーパー」
彼は祖父に仕える屋敷しもべのクーパーだ。タバサとよく似た声だが、彼は彼女よりもキビキビと動くのと、使い古した紳士用のハンカチを着ているのが特徴だった。
ユリィは彼にポシェットを手渡しながら尋ねる。
「おじいさまは今日もお留守?」
ユリィの祖父はそれなりに高齢だったが、とても働き者の資産家で、このロンドンの屋敷にクーパーとふたりで住んでいる。ユリィが祖父の家に来る日だろうと、仕事で留守にしているのが普通だった。
「左様でございます。でもお嬢さまにお渡しするお品物は、ちゃんとクーパーがお預かりしていらっしゃいます」
「そう、ありがとう」
ユリィが礼を言うと、クーパーはうやうやしくお辞儀をして、「こちらへどうぞ」とリビングへと案内してくれる。慣れた場所だ。ユリィが大きなテーブルのいつもの席につくと、クーパーがどこからともなくティーセットを取り出して、熱い紅茶が注がれたティーカップを差し出してくる。
「朝食はすでにお召し上がりでしょうか?」
「うん。これを飲んだらすぐにダイアゴン横丁へ行くつもり」
「かしこまりました!」
祖父から預かったものをとってくる、とクーパーがお辞儀をしてパチンとどこかに消えたのを見届けて、ユリィは美味しい紅茶をちびちびと飲む。外を歩き回った後でもない限り、夏でもホットで飲むのが好きだった。タバサもクーパーも、ユリィが何も指示しなくても、一番好きな紅茶を煎れてくれる。
彼女には祖父も父もいたが、ほとんど会えない。普段の身の回りの世話は屋敷しもべのタバサが、祖父の家ではクーパーが担っている。父は彼らを単なる使用人扱いするし、ユリィもそれに倣うようにしているつもりだが、ひそかに彼らの方がよほど自分の家族のようだとも思っていた。
喉が潤ったところで、ユリィは立ち上がって、テーブルの上にある本を手にとった。いつもは簡素に花瓶だけが飾られている祖父の家のテーブルだったが、今日は真新しい本や大小さまざまな小包が積んである。
手にとった本は、見覚えのあるタイトルだった。ユリィはハンガーラックにかけられた自分のポシェットから用意して買い物リストを取り出して、机の上のものと突き合わせる。これらは祖父が用意してくれた学用品のようだった。
「教科書や道具は、旦那さまがほとんど揃えていらっしゃいました!」
パチンと音がして、背後からクーパーの声がかかる。
「トランクや学内で使用するバッグ、ローブなどの衣服は、お嬢さまがお決めになった方が良いだろうとのことで、最低限しかご用意しておりませんので、お嬢さまがお好きなものを選んでご注文してくださいとのことです。お嬢さまはおしゃれさんですから!」
振り返ると、細長い箱を抱えたクーパーがニコニコと微笑んでいる。屋敷しもべ妖精は働くのが好きだ。祖父の言いつけをこなしている今は、至福のひと時なのだろう。
「おしゃれさんって、おじいさまがおっしゃったの?」
「はい!」
ユリィもつられてクスクス笑う。仕える相手であるユリィが上機嫌なのが嬉しいのか、クーパーの大きな目がキラキラ光って、さらに生き生きとした表情になる。
「それとこちらが、旦那さまよりお預かりしたものです」
クーパーが差し出した小箱を、ユリィは丁寧に受け取った。ユリィには中身が何となくわかっていたので、慎重に箱を開け、中身を検める。思った通りのもので、ユリィは感嘆のため息を吐いた。大抵の魔法族の子どもがそうであるように、ユリィも物心がついてから今日まで、これが喉から手が出るほど欲しかった。
「――杖ね」
祖父のものとはだいぶ違うな、とユリィは思った。
祖父の杖は黒っぽくて、他の魔法使いと比べても長い方だ。太さもあって、表面の質感は上質でなめらかではあるのものの、木の節がしっかりと感じられる力強い杖だった。
でも今ユリィの手の中にあるこれは、まず色が白っぽい。長さは祖父のものと比べるとかなり短く感じるから、普通か、普通よりも少し短いくらいだろうか。とっても真っ直ぐで、折れそうなほど細い。近くで見れば確かに木製だとわかるが、遠目では木製ではなく陶器か何かで出来ているように見えるだろう。
「旦那さまによると、材質はリンゴの木、芯はドラゴンの骨だそうです」
「ほ、骨?」
ユリィは驚いて杖とクーパーを交互に見た。
「杖の芯って、ペガサスのたてがみとか、ドラゴンの心臓の琴線とかじゃないの? 骨なんか使うものなの?」
ユリィはドラゴンのしゃれこうべを想像して、眉をひそめた。不気味だ。
「さあ、わたくしめは杖を持ちませんので……、ですが、心臓の琴線と骨では、そう差があるようには思えませんが」
屋敷しもべ妖精は杖を持たない。法律で禁じられているのだ。クーパーが困った顔でそう答えるのを聞いて、ユリィの頭の中のドラゴンの胸が切り開かれ、ハート型の心臓が取り出された。
「言われてみるとそうかも。骨と心臓なら、骨の方がマシかも……」
気を取り直してユリィが頷いてみせると、クーパーはホッとしたようだった。
「イネーブラ家で古くから使われていた伝統的な杖なので、大切に扱ってほしいとのことです。直近では、若旦那さまが使用されていた杖です」
「お父さまの杖!」
ユリィは感激して、杖を箱から取り出し、直接手にとった。
瞬間、ユリィの視界で、パチパチと白い星がいくつも光った気がした。軽く握っただけで、まるでこの杖はユリィの一部であったかのように馴染んだ。頭のてっぺんから爪先まで、感じたことのない温もりが広がっていく。杖からユリィの身を包むように柔らかい風が吹き出し、髪を巻き上げたのを感じた。その風は白い光の粒で煌めいているようにも見える。
――嗚呼、これが自分の杖なのだ。ユリィは直感した。
「素晴らしいです!」
静かに風が止み、ユリィがハッと気づくと、クーパーが嬉しそうに拍手していた。ユリィは興奮を隠すように、少しはにかんで見せた。