あのこ

デスクに腰をかけていればいるほど増えていく仕事を捌きながら、気が付けばあっという間に退勤の時間が迫っていた。いつの間にか窓の外からは夕日がのぞいている。さすがに定時ぴったりに退勤という訳にはいかないが、そこまで遅くならずに済みそうだ。
そういえば今日訪れる予定であるお宅の家主への連絡をすっかり忘れていたことに気がついた。まあ連絡してもしなくても自宅には居るのだろうけど、念のためと簡単なメッセージを拵える。

『今日家にいる?』
『居るけど…』『何?』

こちらの送信から間髪入れずに2件の返信が届く。この反応なら予定も無さそうだ。『20時頃そっち行くわ』と追加で送り、改めて現在時刻を確認する。もうすぐ17時。この調子で行けば19時前には出られるだろう。大きく息をひとつ吐き、改めてノートパソコンの画面へ向かった。



「じゃ、お先に失礼しまーす」

概ね予想していた時間で切り上げられたため、周囲に声をかけつつ荷物を持ち上げる。隣の席に腰掛けていた後輩が「今日も早いっすね」と声をかけてきた。

「まあいつも定時退勤を心掛けてますから?」
「またまたー。ついこの間まで毎日遅くまでいたじゃないですか!まさか良い感じの人ができたとかっすか?」
「あー、まあねえ」
「あ、やっぱり!いいなー彼女」

そう呟くように口を尖らせた後輩を見て思わず苦笑いがこぼれる。
名前さんがやってきてからは確かに早く帰れるように心掛けている。でも彼女ではないし、なんとなく彼女ができたと返答をすると今後面倒なことになりそうな予感がする。下手に返して変に探られても面倒だ。何せ見た目は少女とのシェアハウスなのだから、普通に考えれば逮捕ものでしかない。咄嗟に思い浮かんだのは今朝のメッセージの文末に付いていた猫の絵文字だった。

「いやいや、彼女じゃなくて猫ですよ、猫」
「なんだ猫ですか…。黒尾さんフリーなら今度こそ合コン来てくださいよ!」
「生憎そう言う類の飲み会苦手なんでー。じゃあ猫チャンが待ってるので帰るわ」
「今度写真見せてくださいね!」

ヒラヒラと手を振る後輩に見送られながらフロアを後にする。どうにか誤魔化せたのだろうか。少しの罪悪感を抱えつつも、致し方ないと自分に言い聞かせる。外はもう完全に日が落ちていて真っ暗だった。さすがにこう暗い中を名前さんを一人で歩かせる訳にもいかないので、一旦家に帰った方が良さそうだ。乗り換えアプリで最寄駅の到着時間を確認しつつ、名前さんへメッセージを送る。

『遅くなってごめん。あと30分くらいでそっちに着くと思う』
『わかりました。こちらはいつでも出られます』

程なくして返ってきた返事の文末には朝と同じ絵文字が添えられていて、思わず小さな笑いがこぼれてしまった。

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