orpington


モラトリアム-3


お酒を飲んで、ほんの数分寝てしまった。瞼を上げると、キリコ先生がお酒を飲んでいた。固く握りしめた私の手の中には、自分の手よりもはるかに大きく骨ばった男性の手があった。己の目を疑った。寝ぼけまなこをこすり、なんとかして何が起きたのかを思い出そうとするも、全く思い出せない。しかし、これだけは分かるのだが、私から、キリコ先生の手を握りしめている。

「起きたか、手を離せ。痛い」

「…すみません、粗相を」

「おまえさん、覚えていないのか?色々と」

「…え?ごめんなさい、何をですか?」

詳しく話を聞こうと口を開いた瞬間、私の携帯電話が鳴り響く。いやな予感がした。
そうだ、今日はまだ、ブラック・ジャック先生に連絡をしてなかった。
顔がさあっと青ざめるのが分かる。私はキリコ先生と目が合った。
ひとつ、深呼吸をして、通話ボタンを押した。

「昼までに連絡をくれるものだと思っていたから心配した」

「…ごめ、なさい、先生。その、疲れていて。…寝てしまいました」

私の言葉を待たずして、強めの口調で淡々とブラック・ジャック先生が言う。本当に心配してくれているのかもしれないけれど、怒りを少し含んだ声色に自然と息が詰まる。

「まあいいさ、声を聞けて安心したよ。ほっとした。…なぁ、XXX」

――名前を呼んでくれるか。
先生は電話口でそういった。私はぎゅっと目をつむる。私は、こみ上げてくる感情を押し殺す。耳元の先生の声が、何を言っているかは聞こえるのに突如として理解できなくなる感覚に襲われる。声が音としてしか聞こえなくなる。脳が、言葉の意味を理解するのを拒んでいる。「悲しさ」「虚しさ」なんて感情、どうして生まれたのだろう。こんな気持ち、知らずに生きていたかった。

「…、『 黒男 』」

通話が終わったあと、私は机に突っ伏した。言葉に感情を込めないようにしたのがせめてもの抵抗である。先生はどこまでも利己的だ。ずるい。悲しい。「私」を心配しているのではない。私の気も知らないで。分かっていた。何度も突き付けられてきた。私も私だ。なんで学習しないのか。なんで、何度も期待し、その度に絶望するのか。体中の水分が枯れるくらいの大粒の涙がボロボロと沸き出てくる。ばかみたい。全部枯れて風に散らされてしまえばいい。身体が、腰が、鉛みたいに重い。鋳型に押し込められたみたいに動かない。心臓からのどの辺りまで、締め上げられているみたいに苦しい。

「うぅ…、く、キリコ、せんせ…っ、もう、嫌だ、」

「落ち着け。ここには、おれしかいない」

「ねぇ、せんせえ、おさけたくさんのんで、お風呂や海にはいったら死ねるかなぁ」

「ばかいえ。その死に方は苦しいぞ。…自殺は楽じゃない。おまえさんもよく分かっているだろう?止めておけ」

「…死ぬにも死ねないし、生きたくもない、どうすればいいの…一度目の時に、死んでいればよかった、そもそも、生まれてこなきゃよかった、私、なんて」

嗚咽混じりに言葉を紡ぐ。何のために生まれてきたのかなんて、誰かが教えてくれるわけもないし、誰かが導いてくれるわけでもない。自分で意味を見つけない限り、ずっとこのままなのはわかっている。

「…あと数日、携帯の電源を切っていたらどうだ。見ている限り、先生と話している時が一番辛そうだ。もう、会わないつもりならいいんじゃないか。」

「…」

ブラック・ジャック先生のこと、憎くてたまらなくなるほど、大嫌いになれたらいいのに。
…私は、いつまでも他人に私の人生を左右されていくのだろうか。私の人生は先生が手綱を握っている気がする。残りの人生、私が私の人生を生き切るならば、先生との関わりは断ち切るべきだろうか。

「…いいか。おれは、おまえさんがどう生きようと、何を決めようと、別になにも咎めたりしない。ただ、これだけは言っておく。他人に振り回される人生はいずれ、他人に思考力を奪われ、他人に騙され、他人に自分の人生を責任転嫁する。そういう人間をたくさん見てきた」

「自分の人生の責任…」

「おまえさんの人生は誰のものだ?」

「私の人生は…ーーわ、私のものです」

「だったら、自分で判断しろ。お人形の自分に甘んじるな」

「私の人生は私のもの」なんて言葉、生まれて初めて言ったかもしれない。私が、私の人生を好きに歩んでいる感覚なんてないからだ。
だけど、目から鱗が落ちたというか、妙にその表現がすとんと心に落ち着いた。

「私が、母と縁を切ったって、...例えば、ブラック・ジャック先生と離れたって、誰からも怒られない」

「そうしたいならすればいい。お母さんや先生本人は文句を言うかもしれんが、おまえさんの人生にはなんら関係ない。」

「私の人生は、私のもの、だから…」

心の底からその言葉を、胸をはって言えるわけではない。しかし、その言葉は私の心に少しばかりぬくもりを取り戻させた気がした。



島に来て、5日目。あれから何度も何度も、頭の中で「私の人生は私のもの」と反芻してきた。しかし、いざ「自分の人生を自由に過ごしていい」と自分に言い聞かせても、やり方が分からなくて途方に暮れる。思考を止めてきた自覚はあるので、今回はとにかく考えることを止めないように努めることにした。「私」が「何をしたいか」を探る。極論、私は今まで生きる意味が分からなかったから、いつ死のうが、いつ不慮の事故で命を落としても構わないと思っていた。耐え切れずに一度死のうとしたこともある。しかし、助けられた命を3年ほど生かす約束をブラック・ジャック先生と交わした。そして、先生たちと生活する中で、ピノコちゃんは、純粋さと人の温かさを教えてくれた。先生は…私にいろいろな感情を教えてくれた。腰を2,3度さする。私は、以前自ら命を絶とうとしたときに比べて、「最期」への覚悟が足りなくなっていると思った。「楽に逝けるなら」と、キリコ先生を頼った。しかしそれは、先生やピノコちゃんと暮らしてきた日々が、人との関わりが、自分の「生」を途切れさせないように踏みとどまらせているように思えた。ほんの一握りの「希望」を知ってしまった私には、それを手放すことに関して迷いと未練が生まれた。だけど、生きるのも死ぬのもつらいなんて、生き地獄だ。生きるか死ぬか、どちらの選択を取るかは、今の状態では決めることは難しいと結論づけた。ならば、「私の人生は私のもの」を脅かす存在は何だろうと考えることにする。まずは実の母親だろう。もし、今連れ戻されたら精神的にも経済的にも自由は奪われる。行動も制限され、虐待もされるかもしれない。母親の元へ帰る気はない。我ながら冷酷な人間だと思う。我が家が抱える問題はたくさんあったが、女手一つで育ててくれた母だ。少なからず感謝はあるし、母や家を捨てる罪悪感もある。だが、以前の粗悪な生活を考えると、地元へ戻るのは人生を棒に振るのと同じだと思えたし、母親と上手くやっていく気力もなかった。次に考えたのは、ブラック・ジャック先生のお母さまを演じている自分だった。初めは、先生が望むなら、それで感謝してくれるなら、と思っていた。私自身を必要としてくれた初めての人が先生だったからだ。しかし、だんだんと欲が生まれた。「母」としてではなく、「私」を見て欲しいと。先生の温もりを味わいながら、「母」じゃない「私」の、深いところに組み込まれたなにかが痛いほど叫んでいるのだった。臀部から背中にかけて伸びるあざの下がちくちくと痛む。私は「私」を見て欲しいと叫ぶこの気持ちがどこから来るのか、薄々分かっているのに認めたくはなかった。具体的に言語化することは、はばかれる。言ってしまえば全てが終わるような気がしていた。しかし、この痛みに向き合う時が来たのだろうか。先生の一挙手一投足にいちいち振り回されずに、先生の顔色を伺わずに、私の人生を、(何日、何年先か分からないが)来たる死まで全うするには、私が私を認めてあげる必要があるのだ。他者の承認よりも先に、自分で自分を。自分の気持ちに嘘をずっとつき続けるわけにはいかない、それは私の人生を生きていない。この気持ちに向き合った後、「生きるか死ぬか」も、「先生との関係」も、どうするのかを決めればいいのだ。私は決意を固めた。

「き、キリコ先生。相談があるんですが、いいですか」

「なんだ?」

「この、私の腰痛なんですが、先生、以前『話す行為そのものが治療になる』とおっしゃっていましたよね」

「…あぁ、そうだ」

「長く、なってしまうかもしれないのですが、その。『治療』を…お願いできますか」

キリコ先生は、目を少し見開いて驚いた表情を浮かべる。しかし、すぐに表情は元に戻った。

「あぁ。分かった。時間はかかるかもしれんがやってみよう。」

「…どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」

キリコ先生は、どこか嬉しそうな顔をしていた。少年のように、口角をにっと上げて私の方を見つめていた。

「…患者が治療に前向きになったんだ。こんなに喜ばしいことはないだろう?それに」

人形から、魂が宿った顔つきに変わった。ほんの少しだけだけどな、と。私は、この人もブラック・ジャック先生も、根っからの医者なんだなと思った。根っこの部分は同じなのかもしれないなんて考えた。そんなこと言ったら、二人して怒りそうだけれど。
私は、深呼吸を一度だけして、キリコ先生と一緒に診察室に入った。


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