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モラトリアム-2


昨日、診察を受けた後、そのまま眠ってしまった。
しかし、目を覚ますと自分に与えられた部屋の天井があった。天井の模様を眺めながら、考える。

...やっぱり、自分がどんな結末を迎えようと、ブラックジャック先生の所へは居られない。
このままでは、ずっと心の中で渦まくものを抱えてしまい、抱えきれなくなるだろう。
今までろくに人間関係を築いてこなかった自分が、不可抗力とはいえ、ひとつ屋根の下で男性と共に暮らす(ピノコちゃんもいるけれど)ことがそもそも向いていなかったのだ。

“あんなこと”――先生の心を埋めるためのスキンシップが、あってもなくても、きっと私は何かしらの面であの同居は向いていなかっただろう。それに、単純に、毎日顔を合わせていれば。あの場では、先生が私を守ってくれている立場だ。ならば、少しくらい「人として」、あくまで、人として。好感を持ってしまうことだってあるだろう。

だけど、私の顔は、先生のお母さまと瓜ふたつで。先生が私を囲ってくれているのはきっとそれだけの理由だ。
壮絶な幼少期のおかげで限られた母親の愛しか得られなかった彼は、幼いころを埋めるような、失った過去を取り戻そうとしているような、そんな儚さと影を感じた。
しかし、それはあくまで虚栄にすぎない。砂漠の中の蜃気楼のように、目に見えるけれど違うものなのだ。実体は、そこにない。「黒男の母」は、そこに居ない。

以前から漠然と抱えていた思いがはっきりと確信に変わってきた。
私と先生は、一緒に居るべきではない。
双方のために。だけど、3年という期間と、定められたルールは守らなければという自分自身の強固な道徳心が今まで邪魔していたのだ。…いや、本音は単純明快で、ただ、彼と一緒に居たいのだ。

自分の性格の生真面目さゆえ、仕事をほっぽり出してこんなところにまで来てしまったことは罪悪感に苛まれている。
ピノコちゃんも心配しているだろう。きっと、先生にすがりついているだろう。
来てしまったからには、何もできない。
私はなにも結論が出ないまま、一つ大きく深呼吸して、布団から出る決心をした。

リビングへ向かうと、キリコ先生は先に起きているようだったが、姿がなかった。大きな窓から海風と太陽の光が差し込んでくる。耳をすませば、波の音とカモメの鳴き声がした。その音に紛れて、砂地を踏みしめる音が聞こえた。

「目が覚めたか」

私はキリコ先生に「おはようございます」と返事をした。外でたばこを吸っていたようだ。リビングや書斎にも灰皿はあるから、室内で吸ってもいいのに。口に咥えていたたばこは、灰皿に消えていった。

「ぅお〜い!キリコ先生や!」

声のする方へ目線をやると、日に焼けた快活な(70代くらいだろうか)男性がこちらへ歩いてきていた。キリコ先生は笑って男性を迎え入れる。

「あの人は、この島の隣の小島に住んでいるんだ。おれが船を泊めていたら、食べ物を分けてくれるんだ」

私はへぇ、と声を漏らす。確かに行きの船で隣に小さな島があったのを思い出した。

「よぉ爺さん。その後の具合はどうだ。酒もほどほどにしとけよ」

「節制しとるわい。だから先生にと思ってコレと、ホレ。大物持ってきた」

風呂敷に包まれた酒瓶と、大きなクーラーボックスが一つ、それに手提げ袋。中を見せてくれた。野菜と、刺身が入っていた。弾けそうな身が新鮮さを物語っている、これは美味しそうだ。

「いつもすまないな。爺さんの獲った魚は格別だ」

「なあに、先生は恩人だからよォ!…ところで、そちらのべっぴんは奥さんか?ついに結婚したか!!水臭い!言ってくれればもっといろんなもん、祝いで持ってきたのに」

「やっ、その、わたしはただの患者です」

私はいきなり話を振られて慌てて否定した。すると男性は笑った顔は崩さずに、眉だけをひそめる。
キリコ先生に向かって、バシバシと効果音が付きそうなくらい、背中に平手で喝を入れる。

「なんじゃあ先生!いい加減うちのカミさんみたいないい女捕まえろよ!がはは!」

「確かにいいカミさんだな。爺さん、カミさんのために長生きしろよ」

食材がなくなるころに、船が泊っていたらまたやって来る、と言い残して去っていった。嵐のような、太陽のようなおじいさんだった。

「恩人、と言っていましたけれど」

「…昔、漁港であの爺さんを手術したことがある」

「ええっ」

「…なんだ、その驚きようは。おれだって助けられる命は助ける」

確かに、キリコ先生は昨日の話を聞く限り、むやみやたらに安楽死をするような人ではないのだと思った。
それに思い返せば、今まで私にしてくれた行為。
ボタンに絡まった私の髪を切らずにほどこうとしたり、腰痛で動けない私を送ってくれたり。船に乗るときに手を貸してくれたり、腰の診察をしてくれたり。私を気遣ってくれての行動だった。まぁ、ブラック・ジャック先生の当てつけの意図は込められているし、自分のためだと言っていたが。
だけど、正直なところ、死神とは程遠い一面を見たとはいえ、ブラック・ジャック先生がするような、人の命を救う手術をするイメージはあまりなかったのだ。

「キリコ先生って聞いていたイメージと全然違いますね」

「お前さんは自分の目で見たものより人から聞いた話を信じるのか?」

「…確かに、そういう傾向はあるかもしれないです。改めます」

私は、自分自身が一番信用できないのだ。誰かの足跡を追って生きてきた、聖書、母親。それが楽だと言い聞かせ、思考を止めてきた。
――改める、といっても、あと少しの人生だけど。



昼食は、先ほどのおじいさんからいただいた魚を食べることになった。獲れたばかりの魚の刺身なんてそういえばめったに食べたことないかもしれない。スーパーのおさかなコーナーのお刺身くらいである。

「せっかくだ、酒もアテもあるし、飲んでみるか?」

「…いいんですか?私あまりお酒飲んだことなくて。しかもお昼からなんて、不良になった気分です」

「昼間から酒を飲むくらいで不良とはな。ほら、一杯」

「わぁ、すみません、お言葉に甘えて…」

と、調子よく飲んだのが良くなかった。初めて飲んだ日本酒が、案外美味しくて飲みやすかったのだ。短時間で酒が進んだ。一升瓶の半分くらいが無くなったころだろうか。

「んふふ、キリコ先生、全然のんれないじゃないですか」

典型的な酔っ払いと化した私を、面倒くさそうな顔でキリコ先生は見つめている。これ以上は、と思ったのか、キリコ先生は酒瓶を自分の方へ引き寄せた。

「おまえさん、酒の飲み方を知らないな。こういうのはちびちびやるもんだ。馬鹿みたいに飲むんじゃない」

「だってぇ。のんだことないんですもん!我が家は貧乏だったし…片親で、それに、その母親が、新興宗教に浸かっていて。それはもうどっぷりと」

「…あぁ、そうか。合点がいった。おまえさんのその『こうあらねばならぬ』という柔軟性のない強固で頑固な道徳心。それに、派手さのない大人しそうな雰囲気といい、見目のわりに男っ気がなさそうな所も…そういうことか」

「…私の背中、見たでしょう。聖書に背けばああやって…母親が…」

私はグラスに残っていた日本酒を一気に煽った。キリコ先生が「げっ」という顔をしたのが視界の隅っこに見えた。

「何も判断が出来ない子どものうちから、毎日ぶたれて。母に背けば生きていけないと思った…聖書の教えに従えば褒めてくれた。だけど、母が私よりも大事なのは『マリア様』なんです。私の行動を監視して、…私の働いたお金も、生活費の残りは全て献金して。私の手元には何も残らない…何も…」

「なんのために、いきているんでしょうね?わたし」―そう、私がつぶやいたあと、私の頬に、一筋の涙が線を引いた。キリコ先生は何も言わずに私を見つめている。ふぅ、と、溜息を漏らす。私は静寂の中に響いた先生の息の音が思いのほか鋭く聞こえて、肩が揺れた。

「今は、親元から離れられたんだろう?ブラック・ジャック先生の所にいるんだ。自由の身で、何だってできるじゃないか」

私は、一拍考えた。母親の存在に苦しめられて来た。しかし、今は?母親だけじゃない。酔いが回ったのか、思考がだんだんと鈍くなってゆく気がした。

「…母が、ブラック・ジャック先生のところへ、訪ねてきたんです。信者は全国に居るから。きっと、情報を共有して…探し出したんでしょう」

「そうか…すごい執念だな。だが、ここまで追いかけては来ないだろう。束の間だが自由を謳歌すればいい」

頭を支えているのもやっとなくらい、眠気に襲われてきた。どうやら私は、酔うと、絡むし泣くし、眠たくなるらしい。人に迷惑しかかけない酔い方だ。やっぱり、お酒は止めておいた方がいいみたいだ。

「…えぇ。そうです、ね、…母も、…先生も。そう、せんせい、いない…」

「…おい。おい、ここで寝るな」

「んふふ...」

身体がふわふわと浮いているようだ。あぁ、もし、死んだら、こんな風に温かくて、水の上に浮かぶ花びらのように自由で、軽やかな気分なのだろうか。お酒好きの人の気持ちが少しだけ分かった気がする。感情がころころと変わって面白い。どこか冷静な自分が、自分を俯瞰して見ているようだった。私は、食卓に身体を預けてテーブルに沈む。

「…『母も、先生も』?」

キリコ先生が発した言葉は、私の意識の隅で何となく聞こえた。
私は、しまったと少し思ったが、ものを言う気分じゃなかった。こうやって陽気な気分のまま、泥のように沈んでしまいたい。
私は、目を薄めていく中で、昼下がりの太陽の光がとてもきれいに思えた。キリコ先生の背中の辺りを照らしている。希望に満ちた光のように思えて、手を伸ばしかけたところで、記憶は途切れてしまった。
だけど、暖かい命の塊のようなものに触れた気がした。私はなぜだかその温度が心地よく、離したくなかったのである。

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