ヘテロスタシス
「――あの写真は、私の母親だ」
先生は確かにそう言った。あの女性が先生の母親。私にそっくりな女性が、先生のお母さまだと。
「母親は、爆発事故で死んでしまった。私は助かったが、最初は全身ばらばらだった。見ての通り、つぎはぎだらけでね」
先生がワイシャツを腕まくりして、手術の後を見せてくれた。壮絶なリハビリを経て、今があることを教えてくれた。
突きつけられた事実にただ呆然としていると、やかんの甲高い音がこだまして、はっと我に返る。
先生は自分の後ろで鳴いていたやかんの火を止めた。ポットに茶葉を入れ、湯を注ぐ。私はお湯のなだらかなカーブを眺めていた。
「失礼ですが…お父様は…」
「父は私たちを置いて海外で違う女性と結婚したよ、もう亡くなったがね」
先生が昔の事を思い出し、ぽつりぽつりと話す。眉間にしわが寄っているのが見えた。
そのしわが寄って、苦しそうな顔をするたびに、私は胸が締め付けられた。
のどの奥がきゅうと細くなって、息がしづらかった。
「いい母親だった…私たちを見捨てた父の事ですら、私が憎くてたまらなかった父すら、かばって死んでいった。とても慈悲深くて優しい母だったよ」
自分の頬に一筋、涙が流れたのが分かった。
壮絶な人生を送ってきた先生に、「同情」でもなければ「悲しみ」とも違う、形容しがたい複雑な感情があふれ出たのだ。
だが何よりも、私は、母の事を「いい母親だ」と言い切れる先生がうらやましいと思ってしまった。こんな時にと、自分に嫌気がさした。
「だからおまえさんをひとめ見た時、他人とは思えなかった。自ら命をなげうつ人間を助ける信条はないんだがね、母と同じ顔をしているものだから…」
先生はハンカチを差し出して、涙を拭くように促した。
「…今も、死ぬことを、考えているかい?」
先生は、そっと私に尋ねてきた。
その顔つきはどこか幼く、さながら、子どもがおかあさんの顔色を伺うような表情をしていた。
「…せんせ。そんな顔をされては、『死にたい』なんて言えないじゃあないですか…」
先生が差し出してくれたハンカチで涙を拭く。私の服からも香る柔軟剤の香りがした。先生のその表情は私の良心に訴えかけてきて、いたたまれなくなるほどだった。視線を逃した先の、透き通った深い琥珀色の紅茶には、先生の顔が映り込んでいた。
「…手術をしたときに見たよ。臀部や腰の周りにうっすらだが色素沈着があった。他にも細かい傷あとがあったが...場所でいうと怪我じゃなく、虐待による傷だろう。治療しないと傷あとはなかなか落ちない。とりあえず、軟膏でも塗ってみるかい」
「先生にはすべてお見通しですね。しかし…そうですか。何もしないと、良くはならないんですね」
「あぁ。何もしないと、現状と何も変わらんさ。」
「…正直申し上げますと、まだ、死にたいか、生きていたいか、分からないのです。ここ半年で、私の人生はめまぐるしく変わりました。はっきり言えるのは、前と変わらない生活をしていたら、今でも死ぬことを願っていると思います」
「そうかい。『死にたい』一辺倒だった頃に比べたら、迷いがあるならずいぶんとましになったもんだ」
そういって先生は頬を緩ませていた。
その表情に、少しだけ心臓がはねたのは、きっと初めてできた恋人の笑顔と似ていたからだ。そうに違いない。
気まずさを紛らわせるために紅茶を口に含む。
すっかり冷たくなっていた。
「紅茶、冷めてしまいましたね。温めなおしましょうか」
席を立ち、先生の背にあるコンロまで歩き、琺瑯のケトルに紅茶を入れてコンロに火をつけた。その一連の動作を先生は目を皿のようにしてじっと見ていた。
「…どうかしましたか?」
「いや、ほんとうに似ているんだ。思わず目を奪われる」
先生は、椅子を動かし、腰かけたまま体をこちらに向けて、私を見上げる。
何か言いたげに口を開いたまま、顔を下に向け視線を外した。
私は首を傾げた。そして、先生の言葉を待った。
「――ぶしつけな事を言うのだが、おまえさんにしかできないことだ。一度でいい…『黒男』と、言ってみてはくれないか」
「え?」
「顔が似ているということは、声もそっくりということなのだ」
先生が、苦しそうに、さみしそうに、懇願するように、私の手を握りしめて、私に縋ってきている。
そして、その願い事は、私にしか叶えられないと言う。
戸惑いながらも、不謹慎だが私を必要としてくれていることを嬉しく思う自分がいた。
先生が、それで喜んでくれるのならば、望みを叶えてあげたいと思ってしまった。
「…『黒男』」
私がぽつりとそう口にすると、溜め息を漏らして私の手をさらに強く握りしめた。
普段の姿とは違う先生の弱った姿は、私の心を揺さぶるには十分すぎた。
求められれば、与えてあげたい。その気持ちは母性か、はたまた違う感情か。芽生えつつある気持ちに今は蓋をして、先生の手のひらの温度を享受するだけに集中した。
「…死なないでくれ」
その言葉が、私に対して発せられたのか、お母さんに向けたものなのか、それともどちらにも向けられているのか。
先生の真意は分からない。先生はきっと、亡き母と私を重ねているだけだ。
だけど私は、今は、私を必要としてくれているこの人のために――もう少し生きてみようと思った。
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