アガペー
ある日、先生とピノコちゃんが家を留守にしていた日のこと。
私が家で仕事をしていたら、呼び鈴がなった。
お客様といえば、手術の相談に来た方か、宅配便ぐらいしか思いつかなかったし、(失礼ながら)辺鄙なところに訪ねてくる先生の知り合いも知らなかった。
外に停めてある車を見る限り、宅配便ではないようだ。
予め受け入れの電話も入っていないから急患でもない。手術の相談だろうと思い、断りを入れようとドアを開けた。
「申し訳ございませんが、先生はただいま留守にしていて――」
そこに立っていたのは、銀糸の長髪で、片目には眼帯、頬のこけた、先生より身長の高い男性。
「なんだ。あの先生、受付嬢でも雇ったのか」
「…あの、失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?それと、ご用件があればお伝えしておきますが」
「いや、いい。大した用じゃない。失礼する」
長髪を翻して、さっそうと去っていった。お知り合いならば先生たちにあとで伝えなくては。去っていく車を見送りながらそんなことを考えていたとき。
ぽつり、と鼻の頭に雨粒の感覚。今日は二人が出かけるからと、外で干そうと思ったのだ、自分の洗濯物が干しっぱなしであることに気づく。慌てて庭に洗濯物を取り込みに走った。
時計が12時を回り、仕事もいち段落したのでお昼にしようと思っていたころ。
雨は朝よりもひどくなっていて、出かけた二人が心配になっていた。
もう、春だというのに、雨のせいで気温が上がらず思わず震える。
カーディガンを羽織って、台所に立つ。温かいスープでも飲めば、体温も上がるだろう。
野菜の甘味を活かしたスープにしよう。たしか、新玉ねぎと、春キャベツがあったはずだ。
スープをコトコトと煮込んでいると、先生の車のエンジンと、タイヤが砂を巻き込む音がした。
「おかえりなさい、先生、ピノコちゃん。ゆっくりしてきて良かったのに」
「ただいまなのよさー!とちゅう、あめにふやえちゃったかや、もうかえることにしたのよさ」
「お昼はもう食べた?あったかいスープあるよ」
「わぁ!うれちいのよさ!たべゆ!ちぇんちぇー、おひゆーーー!!」
昼食の前に荷物を運べ!と先生が怒っている。その様子をほほえましく眺めて、スープを用意しに台所へ戻る。
スープの付け合わせに、フランスパンを焼いていると、ピノコちゃんが手伝いに来てくれた。
「あ。そうだ、ピノコちゃん。髪が長くて、眼帯つけていて、ほっぺたが痩せてて、目鼻立ちがはっきりしてるというか…それで、背が高い人が先生を訪ねてきたんだけど、知ってる?」
「かみがながくって…がんたい…、あっ!こよし屋のれきそこない!なのよさ!」
「こ、殺し屋?できそこない?」
不穏な単語が出てきて思わず聞き返してしまった。
「あんらくしばっかりさせてる、わゆいひとなのよさ!ちぇんちぇーになんの用だったのかちら」
「…安楽死?」
「ピノコ、余計なことを言うなっ!」
いつからか、後ろにいた先生が声を上げる。ピノコちゃんはその場に猫のように跳ね上がった。「おまえさんの荷物がまだ車にあるんだ、取ってきなさい」と、ピノコちゃんを車へ向かわせた。
先生の機嫌が悪いのが分かる。
「…先生?」
イライラした様子でこちらに近づいてくる先生に恐る恐る声をかけてみる。
「先生、その、ごめんなさい。私が聞いたので、教えてくれただけです。だからピノコちゃんを責めないでください」
「あの男とは関わるな。わかったな」
顔をむくりと起こして、私を見据えて言いはなつ。
シンクを後ろにして立つ私は逃げ場がなく、迫力に思わず目をぎゅっとつむってしまう。
ぴしゃりと切り捨てるような口調や、返事は肯定しか許さない、とでも言いたげな先生に圧倒され、首を縦に振りながら弱弱しく「はい」と答えるしかなかった。
すると、先生はその返事にほっとしたのか、安堵の溜め息が聞こえてきた。
左肩に重みを感じ、思い切りつむっていた目をあけてみる。
「すまない、おまえさんのことになると、どうにも取り乱す」
――あの先生が、私の肩におでこをのせ、頭を垂れるようにして、立っている。
だがトースターのパンが焼けた音で、先生はすっと離れていった。
まぼろしだったんじゃないかと思えるほど、一瞬の出来事だった。
それから間もなくピノコちゃんが戻ってきたので、私は少しばかりピノコちゃんに罪悪感を覚えながらスープをほおばった。
*
先生と銀行へ出かけた日。先生のご厚意で、デパートに行くことになった。私は、必要なものを買うだけだから30分もかからないと伝えると、先生に「洋服とか、化粧品とか、見たいものがあるんじゃないのか。遠慮しなさんな」と言われた。とりあえず1時間後に落ち合うことを決めて、解散した。
しかし、どんなにゆっくり買い物をしても1時間もかからず終わってしまった。合流前にお手洗いにでも行っておこうと、吊り看板を見ながら角を曲がる。すると、目の前に向こうから歩いてきた男性がいた。すぐに止まることも出来ず、軽くぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
「あれ、おまえさんは、ブラック・ジャック先生のとこの…」
止まりきれずによろけてしまったところを支えてくださったのは、以前先生を訪ねてきた男性だった。
先生が「関わるな」と言ったことを思い出し、すぐに離れようとした。
「いっ!」
髪の毛が引っ張られる感覚。どうやら、男性の袖のボタンに髪の毛が巻き込まれてしまったようだ。
急いで離れようと、髪の毛を引っ張ってみる。先生が、「関わるな」と言ったのに、不可抗力とはいえ関わってしまった。
こんなところを見られては、また怒られてしまう――
「ちょ、落ち着け」
「だけどっ…」
早く離れようと焦るほど、絡まって離れなくなってゆく。
「あそこのソファに座ろう。荷物も置いて、落ち着いてやればすぐ取れるさ」
先生のお知り合いの彼が、片手で私の髪の毛をほどこうとしてみるが、利き手じゃないらしい。難しそうにしていた。今度は私が両手でほどいてみる。髪の毛にあとが付いたものの、何本かはほどけた。
「ハサミ、お持ちですか?髪の毛、もう、切ってしまいましょう」
「ばかをいえ。そんなに粗末に扱うな。それは最終手段だ。」
私の提案は却下された。仕方なく一本一本ほどいていった。あともう少しのところで、ポケットの中の電話が震えた。先生からだ。
「どこにいる?」
「あっ、先生…今、それが…」
どのように説明しようか迷っていると、彼は、私の電話をするりと奪った。
「もしもし、先生かい。私だが。お宅の美しいお姉さんと今、吹き抜けに近いエスカレーターを上がった2階のトイレ前にいるよ」
「ちょっ、」
そういって電話を切ってしまった。電話を切る寸前まで先生の焦ったような声が聞こえていた。あぁ、なんてことだ…血の気が引いて、手先まで冷たくなった。
すぐに、血相を変えた先生が飛んできた。先生は何かものを言いかけたが(十中八九、文句だろう)、状況を察知したのか飲み込んだ。
「よぉ先生。あともう少しなんだが髪の毛がほどけないんだ。おまえさんの腕前ならすぐほどけるだろう。」
「おちょくるな!そもそも、おまえさんが上着を脱げば両手を使えるだろうに!」
私が先生の言葉にはっとして彼の方を向くと、わざとらしく「あぁ、確かに。それは名案だ」と言って笑みを浮かべていた。先生はわかりやすくイライラしていた。
髪の毛がほどけると、挨拶もそこそこに「帰るぞ」と、私の手を引いた。
私は罪悪感でいっぱいで、気が気でなかった。
車内でも先ほどの出来事に対する話題はなく、無言のままだった。私は生きた心地がせずに、どうせ追及されるなら、いっそひと思いやってくれ、とまで思った。
結局、その日は話をすることもなく、床に就く時間を迎えた。
しかし、もやもやした気持ちのまま眠ることは出来ず、何度も寝返りを打つはめになった。
時刻は夜中の1時だ。ホットミルクでも飲んで落ち着こうと、音をたてないようにキッチンへ行く。小鍋にミルクを注いで火をかける。小鍋の淵が音をたて、ミルクが沸いてきたころ。
「眠れないのか」
「ひゃっ…!びっくりした…」
「すまん、驚かせた」
シルクの寝間着に、腰丈くらいの暖かそうなガウンを羽織った先生が立っていた。
「…眠れなくって。先生も一杯いかがですか」
「あぁ、いただこう」
先生の分のミルクを追加して、また沸き立つまで待つことにした。
早く楽になりたい気持ちがあって、私から話題を切り出した。
「先生――。今日、すみませんでした。お知り合いの方と、その。関わるなって、おっしゃったのに」
「…なんだ、おまえさん。もしかしてずっと気にしていたのか」
「…ええ。その、それで、ちょっと眠れなくて…」
「今日のは、ただの偶然じゃないか。」
「えぇ、でも、先生が怒っているように見えましたので…」
「…悪かった、XXXに怒っているわけじゃあないんだ」
先生が困ったように笑う。怒ってないことがわかってほっとした。体の力が抜けてゆく。キッチンのカウンターに体重を預けた。
ふと小鍋をのぞくと、ミルクが沸いてきたので食器棚からマグカップを2つ出す。
先生は、その様子をみて、酒瓶を1本持ってきた。私がその酒瓶を見つめていると、「ブランデーだよ。少し試してみるかい」と、私のホットミルクにちょっとだけ注いでくれた。
ブランデー特有の香りがしたが、ミルクの量が多いため、想像よりもまろやかで飲みやすかった。
「おいしい」
先生はにこりと微笑んで、自身もブランデーを楽しんでいた。
そして、先ほどの話題へ戻る。
「…ただ、XXXとやつを関わらせたくない」
「それは、ピノコちゃんが言っていた、『安楽死』とかかわりがあるんです?」
先生は、『安楽死』というワードを出した途端に、顔が曇った。ダイニングの椅子に半分だけ腰かけ、体はこちらを向けて私を見上げた。
「…あいつは、患者を安楽死させる商売をしているのさ。おまえさんを――あいつのところへ行かせたくない…」
「…もしかして、先生は、私があの方の存在を知ったことで『死ぬ』という選択肢をとりやすくなった、と案じているのですか?」
「...。XXX。――こっちへ」
先生は私を自分のいる方へ片手を引いて誘う。私はテーブルにマグカップを置いて、先生の正面に立った。
先生は、私の両の手を包み込んで、祈るような、まるで懺悔のような。そんなかっこうで、私を見上げる。
「私も、どうしてこの歳で、こんな気持ちになるのか...。おれは、おれは...もう――母を…、2回も失いたくない…」
私は、神なんて信じちゃいない。母親から強要されて形だけの信仰心を持って育ってきただけだ。
だけど、懺悔を聴く神は、こんな気持ちなのだろうか――。
自分が神だなんて思い上がりはしない。けれども、この目の前の先生を、救ってあげたいと思ってしまった。おこがましくも、彼が母の愛を求めるのなら与えてあげたいと。
「約束したじゃないですか。貴方の目が黒いうちは、ここに居ますよ。」
私は座っている先生に目線を合わせて、子どもに話しかけるように、諭すように言う。
「貴方が私を助けてくれたから、こんどは、私が貴方を助けたい…」
その言葉を待って、先生は、私の肩に縋ってきた。まるで、大きな子どもが出来たみたいだと、私はくすりと笑った。先生が抱きしめてくれる強さと、体の重みと、温かさが心地よい。
私は先生の肩口に顔をうずめて、背中をかるくさすってあげた。すると、応えるように抱きしめる力が強くなる。
――私たちは、しばらくそうして、互いのぬくもりを分け合ったのだった。
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