御当主と私だけで差し向かいの酒を酌み交わす会が不定期で設けられていて、今夜はその日だった。
晩酌とは言っても私が酌をして御当主が主に飲むといった内容だ。日頃から忙しくしている御当主の疲れが限界に近づいてきたくらいの時期に、彼から内密な誘いが来る。それに私が応じ、夜中に御当主の部屋を訪れるのだ。
誰にも気づかれないように気配を消す魔術を行使して御当主の部屋に向かう。既に御当主が今夜飲む酒を用意して待っていた。
縁側で美しい月を見ながら飲む場合もあるが、今回は違うらしく、障子が閉め切られている。私は御当主の側に近寄り、その場に腰を下ろす。当たり前だが彼が用意するのはあくまで酒のみで、それ以外は全て私が準備することになっている。
今回の肴は焼いた鮎である。御当主がそこまで食べる方ではないので、一尾だけだ。
差し出された猪口に酒を注ぐ。今日は特に鬱憤が溜まっているらしく、一気に飲んでいた。再び差し出してきたので、もう一度注ぐ。今度はちびちび飲んでいた。
「全く、あの愚か者ときたら…」
早速愚痴が始まった。対象となっている人物は様々で、部下だったりいわば主君のような人物であったりと、本当に多種多様である。いずれにせよ漏れてはとんでもなくまずいようなことも言ってくるが、それを言ってもいい相手として認められているのは、ちょっと嬉しい。
彼は酒に強いというわけではないので、飲み進めていくうちに酔いが回ってくる。顔がほんのり赤くなり、瞳は潤んでどこか遠くを見たりし始める。そうなると、御当主はとても面倒くさくなる。
「おい、聞いているのか!」
「聞いてますよお…」
御当主は立派な絡み上戸だ。一対一で飲んでいるということは、その絡みが全て私に向いてくるということである。
「私が土御門様のお話を聞かなかったことがありますか?ないですよ」
「どの土御門だ!この家には大量にいるぞ!」
「泰広様です…」
土御門様、ではなく泰広様は、酔うと苗字ではなく名前で呼ぶように強要してくる。初めは恐れ多さのあまり拒否し続けていたが、最終的に私が根負けした。
「毎度毎度苗字で呼びおって。自覚しろ!」
「何をですか!うわっ酒臭いですよ!」
隣に並んでいた泰広様が距離を詰めてきて、主従関係にはとても相応しくないような触れ方をしてくる。これも毎度のことだった。
「何故飲まぬ。おまえも飲め」
「いやあの、これ泰広様の猪口ですけど…」
「私の酒が飲めぬと云うのか!?」
「分かりました飲みますから!」
私の身体にもたれ掛かりながら、泰広様はぐいぐいと自らの猪口を口元に押し付けてくる。泰広様が口をつけているものだったが、当の本人がいいと言っているし、ここで抵抗するとさらに面倒になりそうだったので、腹を括ることにした。
浅めに口をつけると、すぐに傾けられる。私が本当に飲んでいるのか確かめるためなのか、泰広様は眉間に皺を寄せながら私の喉元を見ていた。ごくりと音を立てて嚥下しているのをしっかり見届けると、泰広様は私の口から猪口を離した。
「旨いか」
「はい」
「そうか。ならばよい。おまえが好むだろうと思って用意したのだぞ?この、私が」
「そ、そうだったんですね。ありがとうございます、美味しいです。あと重いです」
「喧しいのはこの口だな?そうだな?塞いでやろう」
もう片方の手で徳利を掴むと、猪口に注ぎ始める。並々とまではいかないが量が多かった。
「ほうら、飲め飲め。私が手ずから飲ませてやるのだぞ?有り難く思え」
「ひいい…」
ずいと猪口が再び口元に突きつけられる。恐る恐る口をつけると、同じように傾けられた。量が多かったせいか、口の端から酒が漏れるように溢れた。
「んっ!」
服に付かないように慌てて手で掬おうとしたが、その前に泰広様が動いた。私の首元に顔を寄せると、その舌でぬるりと舐め上げてきた。舌の熱さと湿り気のある刺激に思わず身体が仰け反ってしまった。
「なんですか。そのようなところを舐めるものではありませんよ」
舐められたところを手のひらで軽く押さえながら、泰広様の方を見る。彼になら別に何をされようが構わないが、多分汚いのでやめてほしい。その一心で、非難するような視線を浴びせることを心がける。泰広様は知らんふりをしていた。
「幼子のようなことをなさらないでください。おいくつですか」
「数えで四十二だが?」
「そういうことを言ってるんじゃありません。もうなんなんですか、駄々をこねたい気分なんですか?」
黙ってのしかかってくる。かなり高身長であることも相俟って、まあまあ重たい。少しだけ呻き声を上げながら、私は泰広様から視線を外した。その時だった。
「おまえ!何処を見ている!私がいるというのに、余所見しおって!」
「声が大きいです!びっくりしたでしょ!」
「いいやおまえが悪い!これ程近づいてもおまえは余所見をするのか!では何だ、これ以上近づけばよいのだな!?」
「うわあああ!近い!」
私の視線が外れたことを目敏く察知した泰広様が途端に騒ぎ始める。いつもの様子からは想像がつかないくらいに声が大きいが、しっかりと結界が張られているので、このやりとりが外に漏れることは決してない。
「私から目を逸らすことは許さぬ。よいな」
「はい…」
「解ればよい。おまえは実に素直だ。素直な者は好ましい」
「ありがとうございます…」
「従順で、賢い。魔術の才も悪くない。それでいて私以外には従わぬ。そういうところはとても好ましい」
「な、なんですか急に」
指先で頬を撫でられる。まるで飼い猫をかわいがるような手つきだった。優しく撫でられて気持ちがいい。
「だがなあ、従順すぎるというのも悩みものよ。時折おまえを欲しがる輩がいてな、面倒極まりない」
「そんな方がいらっしゃるのですか」
「ああ。そういう者は全員莫迦だ。引き抜いたところで、おまえは私以外には懐かぬというのに」
「まあ、そうですね」
泰広様は満足そうにし始める。潤んだ瞳を細めて、口角を僅かに上げた。
「私と共に死ね。私の行き着く先は大方地獄であろう。供をせよ。私の隣を歩くことを、おまえにだけ許してやる」
「…喜んで、我が主」
どうせ寝て起きたら泰広様は全て忘れてしまうだろうが、それでもこれだけは本心で返事をしたかった。私が目を見て頷くと、泰広様は声を上げて笑った。