1.繋がないで、深夜


 齢十八にしてついに、私は自分の城を手に入れた。


 といっても一人暮らしを始めたわけではない。実家から離れた大学に進学するのに合わせ、学校から比較的近くにある祖父母の家で暮らすことになったのだ。私としては一人暮らしをしたかったけれど、両親としてもその方が安心だというし、祖父母も受け入れる気満々でいてくれているということを聞いて了承した。

 面倒くさがって後回しにしていた荷解きも少し前にやっと終えた。部屋にごろんと寝転がれば檜の香りが鼻に抜ける。自由の匂いを感じながら、私は深呼吸をした。


 ちょっと田舎にあるぶんこの家は大きくて、部屋数も多い。私は離れになっている一室をあてがってもらった。ただの和室だった場所を祖父が趣味のDIYで改造した部屋で、檜のフローリングと漆喰の組み合わせがなんとも粋な感じだ。数日前まで地元を離れるのは名残惜しいななんて思っていたけれど、入学式もすませた今、すでに居心地の良さに浸っている。母屋と離れていることもあって、やっぱりほとんど私の城と言っていいんじゃないかなんて思いながら。

 食事も入浴も済ませて完全に休息モードだった私は、布団を敷いて横になろう、と押し入れに手をかける。ベッドについては検討中で、しばらく客人用布団で眠ることになっていた。


 押し入れの襖はたてつけがよく、思ったよりも勢いよく開いた。それに小さく驚く間もなく第二インパクトが訪れた。目の前に、浴衣のようなものを着た髪の長い何かが、いる。私は襖をもう一度思いっきり閉めた。


「は……?」


 呑んだ息を恐る恐る吐く。生まれてこの方一度も見たことのなかったものを、見てしまった。動悸が収まらない。忘れようとしても目の前にこびり付いたままの、長い髪、白い浴衣。

(……目の前に?)

 思い返してみれば彼女が、いや彼かもしれないが、いたのは押し入れにしまわれている布団の向こう側だった。布団の向こうには壁しかないはずだが、どういうことなんだろう。冷静さを取り戻すためにも私は、今の現象について落ち着いて考え直すことにしてみた。

 布団の上に透けた人間風のものがいた..なら正体は考えるまでもなく人間でない"何か"なのだけど、さっきのアレは、どう考えてもあったはずの壁を取り払った向こう側にはっきり見えた。押し入れの向こうには、間取り的にはトイレしかないはずだ。壁どころかトイレまでぶち抜いて空間を作ったんだろうか。そんなことがありえるのだろうか?


 私は一旦母屋のガレージに行き、昔従兄弟と遊ぶ時に使っていた金属バットを取りに行った。これなら防具としても武器としても使える。実体のない"何か"だった時のためにお祓いの塩を用意したかったが、それらしきものはない。しょうがないので食卓塩で手を打つことにした。ついでにぐるっと家をまわって離れの部屋を外から確認したけれど、やっぱり押し入れの壁側にはトイレしかない。

 離れから母屋に繋がる扉を全て開いて、動線を確保する。スマホに電話をかける画面を表示させたあと部屋着のポケットに忍ばせ、食卓塩の蓋を外せば準備は完了した。

 もう一度襖を開いて、次はなんとしても布団を取り出す。もしもう一度いれば塩をふる。反応がなければ即母屋まで逃げながら警察に連絡だ。祖父母が一階にいることは確認したから、声をかければギリギリ外まで逃げられるだろう。金属バットで応戦する事態はできれば避けたいが、もしもの時はしょうがない。

 後々考えればこの動きには特に意味が無かったんだけれども、私はバットのヘッドを掴んで、グリップエンドを器用に襖に引っ掛けてそっと開いた。


 さっきの"何か"はやはりそこに居た。しかし先程と様子が違い、向こうもなにか手に持っている。私を見てじゃらり、と重い金属音を鳴らした。予想していなかった事態に私が怯んだ瞬間、向こうは「何者だ」と静かにこちらに語り掛けた。若い男の声だ。顔もよく見ると青年のそれだった。凛々しい眉が印象的だ。一目散に逃げてやろうと思ったけれど、脚がすくんで動かない。

「聞こえなかったのか?それは武器なのか?下ろせ」

「これは自衛用です。あなたが私に危害を加える意思がないと分かればそうします」

 私はかなり早口なうえに震えながら、しかし明確に意思表示をした。こんなにもするすると言葉が出てくるなんて、話している自分自身でもよく分からないが、なんとか場を切り抜けるためにとにかく思いついた言葉をそのまま紡いでいた。

「自衛?侵入者のくせに何を」

「侵入者は貴方でしょうが」

 反射神経だけで会話していたことの弊害はすぐに現れた。しまった、口答えしてしまった、とバットを握る私の手は徐々に震え出したけれど、意外にも青年はかまえていた武器らしき何かをゆっくりと降ろした。

「……やっぱりおかしいんだよな」

 おかしいのはお前だ、と声に出すことはさすがにしなかったけれど、脳内で何度もツッコミを入れる。向こうが構えるのをやめたので、一応私もバットをおろした。

「夜とは思えない明るさだ。それに、こんな部屋間取り的に……」

 電気を付けているんだから当たり前だろう、とまた脳内でツッコミを入れてすぐ、彼は私と同じ考えを口にした。彼が立っている方は暗くてよく見えないけれど、私の部屋から漏れた光が照らす先にぼんやりと壁や机、たくさんの籠のようなものがあるのがわかる。つまり彼は外にいるのではなく、別の部屋の中にいるのだ。私が彼を侵入者だと認識したように、彼からみれば私も押し入れの中の侵入者のように見えているのだろう。よく見れば私の布団の向こう側に、彼のものと思われる布団が収納されている。

「その……幽霊ではないと?」

「俺?しっかり生きてる」

「念のために塩をかけて確認させてもらうことは..?」

「は……もしかしてその手に持ってるのをかけるつもりか?調理用の塩だろう、それ……」

 青年は怪訝な顔をした後、「俺が幽霊だったとしてもその塩じゃどうにもならなかったと思うけど」と言って少し笑った。

「その感じじゃ、そちらも幽霊じゃなさそうだな。一応聞くが、学園長のガールフレンドとかじゃないよな?……ですよね?」

「学園長?」

「いや……こちらの話だ。あの人ならからくりを使って逢い引きとかやりかねないから……」

 ならこれはなんなんだ、と青年は私をおいてけぼりにしたまま一人で考察を続けた。もしゃもしゃと掻きむしった髪は長く伸ばしていて、相当傷んでいるように見える。浴衣で寝ていたり長髪だったり、なかなか珍しい格好の青年だ。

「前もこういうことはあったのか?」

「何日か前からここで暮らすことになったし以前のことは..しばらく使われていなかった部屋だってことは聞かされたけど」

「そうか……実は俺も昨日からなんだ。でも昨日はこんなことには……」


 彼には確実に実体がある、ように見える。でも彼のいる空間は確実にここに存在しないはずのものだ。この押し入れは、なんなんだろう。違う部屋を繋ぐ扉みたいになっていると考えればなんとなく辻褄は合うんだけれども、でもなぜここがそんなことになっているのか全く検討がつかない。頭が痛くなってきた。


「襲ったりしないってお互い約束してもう眠るのはどうかな。これ、夢だよ。ありえないもん。明晰夢ってやつだね。寝て起きたら元通りだよ」

「めいせきむ?」

「夢を見てるって自覚しながら見る夢。その状態なら会話とかができるって言うし、このよくわからない状態も夢ってことにすれば説明がつくかなって。実際今これが夢だって自覚できてるし」

「へえ……」

「気づかないうちに溜まったストレスで夢と現実の区別つかなくなってるんだと思う。ほら、環境が変わる時期だし」

 とりあえず、警戒しながらもお互い順番に布団を取り出した。こちらと向こうの境界線は、押し入れに使われている木材の差異で把握出来る。何となく、でも絶対にその境界線は超えないように細心の注意をはらいながら布団を引っぱった。

「やっぱり夢なんだろうか」

「そういうことだよ、たぶん。それじゃ」

「お、おい待ってくれ」


 もう夢ということにしてとっとと終わらせてしまいたくて、襖に手をかけようとすると青年は私に声をかけてきた。


「明日、また同じ時間に襖を開こう。もしそれでまた同じことが起きたら、これは夢じゃなかったということだ」

「……いいけど、だとしたらどうするの?」

「あー……その時は、その時?」

 ちょっとだけ青年はとぼけたような顔をした。やはり男の子の方がこういう不思議体験に憧れがあるのだろうか。夢だとしか思えないけれど、私はとりあえず今日のところは彼の提案を受け入れることにした。

「分かった、明日また開ける。じゃあ今日はこれで。襲ったりしないでね」

「それはこちらのセリフだ」

 襖を閉める私の手を、青年は注意深く見張っていたようだったが、私はお構い無しにスパンと襖を閉めた。訳が分からない。とにかくバットと塩を元あった場所に戻してきた後、布団に滑り込む。目が冴えてなかなか眠れず、こんなんじゃこれが夢だったことにできない、と必死に羊を数えた。



 次の朝、私はまだ夜にあった出来事を鮮明に覚えていた。夢ならば大抵、思い出そうとしても忘れてしまうのに。元から朝は好きじゃないけれど、寝つきが悪かったせいでいつも以上に最低の気分だ。結局昼まで二度寝してしまった。押し入れを開けるのに抵抗はあったものの、万年床にしておくわけにもいかない。どうにでもなれ、と開いた押し入れの中はいつも通りだった。やっぱり夢だったのかもしれない、と押し入れの壁を指でつーっとなぞったが、そこにはただの木の壁があるだけだった。



ぬるま湯