2. 小樽


 睦雄さんが家を出てから、私はずっと呆然としながら体をさすっていた。しかし体に彫られたものは消えるはずもなく、睦雄さんも帰ってこない。

 一人になった私は、とにかく言われたとおりにするほかないのだと悟った。ここで狩りをして暮らすにもお金の管理や獲物の換金はすべて睦雄さんがしていたため私には勝手が分からない。私はここに来てからずっと、街に降りたことがなかったのだ。ここでの一人暮らしは現実的でない。しかし街で新しい暮らしを探すのも、こんな体になってしまった今となっては難しいだろう。

 それに、ここから離れて生活を一新することで"帰る"方法を見つけることにも繋がるかもしれないと考えていた。私はまだ、私のいるべき場所を忘れてはいなかった。


 夜明けを待って、私は逃げるように家を出た。薄暗い中で振り返った元我が家は、お爺さんと睦雄さんとの穏やかな暮らしが嘘のように禍々しく見えた。

 街に出て初めて気づいたことだが、身長が170cmほどある私は"現代"でも女性としては大柄だったけれど、この時代では男性の中でも背の高い方に分類される「超大女」らしい。目立ってしょうがない。一緒に暮らしていた二人が私を街に連れて行くのを避けていたのはこのせいだったのだろう。私はここに来てまだあまり感じたことのなかった違和感_自分はこの世界にいるはずのない人間であるということ_を嫌というほど実感させられた。


 家を出てすぐは、体に刺青をいれられたことも、睦雄さんが網走の死刑囚だったことも、なんだかふわふわして頭にうまく入ってこなかった。ただ彫られたせいで痒みだけが襲ってくる、なんとも変な感覚だった。

 睦雄さんを恨む気持ちはもちろんあって、それでも彼がおそらくあの夜に一人で死んでしまったことを思うと心が痛んだ。私は死のうとしている彼に何も言えなかった。彼は何があって死刑囚になって、何を思って自殺を図ったのか…彼が私にしたことよりも背景を見ようとしてしまうのは、この1年半私の面倒を見てくれたことだけは確かだったから。最後の彼の行動に、私に多少なりとも愛着があったんじゃないかと勘繰ってしまうから。

 
 考え続けて眠れない夜が続いていたけれど、北海道に近づくにつれてそれどころではなくなった。小樽でのことを本格的に考えなければいけなかったのだ。探せと言われた額に四角いコブのある大男は"牛山辰馬"という名前で、聞き込みを続ければ確実に会えると睦雄さんは言っていたが…そううまくいくものだろうか。

 鉄道の外は今日もひどい雪だった。節約のために家を出てしばらくは自分の脚を使っていたものの、北へ向かうにつれ厳しくなる雪と寒さに負け鉄道で移動することも増えた。あまりに寒い日にはシャツの上から小袖を着るという珍妙な格好をしていたけれど、コートの上からショールでぐるぐる巻きになってしまえば一緒だ。

 道中、刺青を他人に見られないように入浴はほとんどせず濡らした手拭いで身体を拭くようにしていた。そして、どうしても湯船に浸かりたくなったときは開店前の銭湯に足を運ぶ。しおらしい表情をつくり、「夫につけられたあざがあり、とても人には見せられないのでどうか開店前に風呂を貸してほしい。今は夫から逃げて宮城から北海道の親戚の家を目指している」と頼むのだ。これで大抵の人が気の毒そうな顔をして私を早めに中に入れてくれた。嫌にしたたかになってしまったものだと湯につかりながらため息が出てしまうこともあったが、もはや慣れてしまった。


 そうして三週間ほどで小樽に辿り着いた。行き交う人はこれまで通ってきた街のどこよりも多く、活気づいている。人の流れや街並みに、言いようのない「明治らしさ」を強く感じさせる街だった。

 まず私は寝る場所を探し、小樽の端にある客もまばらで静かな宿の一室をとることができた。そしてありがたいことに、人探しのために一人本州からやってきたと女将さんに言えば、ご厚意で小さな部屋ではあるが格安料金で泊まらせてもらえることになった。



「すごく大柄で、額に四角いコブがある人なんですけど」

「うちに来たことはないわねえ」

「そうですか……」


 次の日から、私はそれっぽいお店の前に立っているそれっぽいお姉さま方に声をかけ続けた。女には用はないという顔をされたり、逆に珍しがって話し相手になってくれたりと声をかけた時の反応は様々だったけれど、集まった情報はほとんどなかった。ここ2、3日ほどで小樽のかなりの娼館を周り尽くしてしまった気がする。

「あんたも変な刺青の男を探してんのかい?」

「刺青……?私が探しているのはやくざの方では……」

「いや……知らないなら良いんだ。刺青の男を探してるって奴が前も来てね」

 中にはそうやって、刺青のことを聞いてくる娼婦もいた。私は刺青については知らないふりをしておくように言われていたので、尋ねられれば白を切った。しかし確実に、このあたりには刺青に関係する人間がいるということがわかって少しほっとした。


「あんたまだいたのかい」

「どうも。覚えててくださったんですか」

 お目当ての人がなかなか見つからず、どうしたもんかと小樽中を歩き回っていたある日のこと。宿の前で、少し前に話を聞いたお姉さんが声をかけてきた。

「まあね。その様子じゃまだ見つけてないみたいだね」

「全然だめです。見かけたって人はいるから小樽には居ると思うんですけど」


 見かけた人はいても、相手をしたという人は全くいないのがひっかかる。実際にお客さんとして彼の相手をしたお姉さんは、口止めされているのかもしれない。相手も脱獄囚なのだから、ちょっと聞き込みをして見つかるような生活を送っていないはずだ。
 そもそも、とお姉さんは言葉を続けた。


「何のためにそのお人を探してるんだい?」

「渡すように言われた手紙があって」

「わざわざ手渡しで?あんたどこから来たんだい」

「宮城です」

「はあ?」


 お姉さんは怪訝な顔をした。たしかに、今なら電報を使うとか、ただの手紙ならやりようがあるはずなのだ。それができないような内容らしいし、私自身の刺青も見せなければいけないから来たわけなのだけれど。


「そんなに大事な内容なのかい」

「たぶん……詳しくは聞かされていないんですけれど」

「……随分良いように使われてるね」


 おっしゃる通りだ。せめて手紙の詳しい内容くらいはこっそり封を開けて読んでおくべきだっただろうか。しかし特に忠告はされていないとはいえひとの手紙を見るというのは気が引ける。

 睦雄さんの忠告は「刺青を人に見られるな」「刺青については知らないふりをしろ」などたくさんあったけれど、その中に「軍人に気をつけろ」というものがあった。お尋ね者の使いだと知れるとまずいということなのだろう。

 お姉さんは行くところがあるからと言って話すだけ話せばさっさと立ち去ってしまった。今日はどっと疲れた。明日の朝は銭湯に行って、また同じやり方で湯に浸かろうと決めた。


ぬるま湯