持て余すグラーチレ


「ここ、だよね」

秘書課の方からメッセージで送られてきていた住所をタクシーの運転手に伝え、なんとか辿り着いたものの初めての土地に戸惑う。
何故ただの一介のリーグスタッフである私がここ、ハロンタウンの、しかも前チャンピオンにして現バトルタワーオーナーである方のご実家の前にいるかというとこれには深い訳がある。

先日、他の地方の重役の方々も出席する定例会議がガラル地方で開催され、ガラルの代表としてオーナーが出席された。一昨日までに会議開催に伴う会食などがすべて終わり、昨日には各地方へ重役の方々が戻られるのをオーナーは見送られた。その後は休暇となっていたのでタワーへは戻られなかったのだが、出勤日であるはずの今日。始業時刻を過ぎてもオーナーが出勤されていない、らしい。困ったことに今日のリーグは大きな仕事終わりで最低限の出勤人数となっていて、唯一手が空いていた私にオーナーを迎えに行くという白羽の矢が立ってしまった。そして昨日最後の目撃情報があったのがハロンタウンだった為、とりあえずご実家を訪ねることになったのだ。
そもそも何故らしいと伝聞表現かと言うと、私は下っ端も下っ端の事務担当でオーナーと直接関わる機会はほぼゼロと言っても過言では無い。いくら今日の人数が少ないからとそんなスタッフをオーナー様の迎えに行かせるなんて大丈夫なのかとは思いつつ、イレギュラーな出来事を楽しんでいる自分もいる。

表札も確認した。道端に居た子供にも確認をした。ここがオーナーのご実家で間違いは無い。とりあえず呼び鈴を押す。

──ピンポーン

「………」

しばらく待ったが応答が無い。ご実家には帰られていなかったのだろうか。とりあえずもう一度だけ。

──ピンポーン

「……………」

やはり応答は無い。一旦秘書課の方に報告し、どうするべきか尋ねる事にしよう。メッセージを打ち込んでいると先程オーナーのご実家か確認した子供が様子を見に来てくれた様で呼びかけられる。

「ダンデにーちゃん出ないの?」
「そうなの。二回鳴らしたんだけど応答なくって。もしかしたらここには居ないかも知れないし他を当たってみるね」
「うーーーん、まいっか。おねーさんこっち!」
「え」

招かれてもいないのに堂々とオーナーのご実家の門を潜り敷地内へ入っていく。手招きされるが入っていいものだろうか。

「もー、はやく!ダンデにーちゃん多分呼び鈴が聞こえてないんだよ。そーゆー時は入っちゃっていいの!」
「えぇ、」
「ほら!」

子供に手を取られ敷地内へ足を踏み入れる。意図的ではないんです、許してくださいねオーナー。
バトルコートを越え玄関を通り過ぎ、どうやら裏手に回って行く様だ。田舎と表現されることの多いハロンタウンとはいえ勝手に入って大丈夫なのだろうか。
曲がったところでピアノの旋律が耳に入る。音源を流しているのではなく誰かが弾いている様な響きだ。

「やっぱりな。おーーい!ダンデにーちゃーーーん!!」
「ぅわ、」

ここまで連れてきてくれた子供が開いている窓に向かって大きな声で呼びかける。と同時に旋律が止まった。

「やあ!キミは今日も元気だな!どうかしたのか?」
「にーちゃんにお客さん!リーグスタッフの人来てるよ!」
「げ」

二階の窓から顔を出したオーナーがこちらを見て声を上げる。『げ』って言ったぞこの人。

「あー、とりあえず上がってくれるか。キミも案内サンキューだ!」
「おう!」

じゃーな!と元気に去っていくので慌ててありがとうと声をかける。どうしたものかとオーナーを見上げると玄関の方を指で示されたので伸び伸びと育っている植物を避けながら玄関へ戻るとガチャリとドアが開く。

「やあ、もしかしてお迎えか?」
「はい。もしかしなくてもお迎えです」

ゲンナリとした表情をされるもののこちらも同じ表情を返したいくらいだ。私服姿で仕事に行く気なんかこれっぽっちも無いといった様子のオーナーに家に招かれる。家にあげないで仕事の準備をしてくださいよ。

「ソファにかけてくれ。…先に言っておくが、オレは今日は仕事に行かないからな」
「え、何故でしょうか」
「そうだな。オレから理由を聞き出せたら帰らせてやろう」
「えぇ、どういうことですか…」

反対側のソファに座った途端に腕を組み足を組み、ツンとそっぽを向くオーナーはまるで遅れて来た反抗期の子供のようだ。とりあえず、オーナーとは会えたものの説得が必要だということを報告しなければとスマホを取り出すも、何らかの力によって手から抜き取られる。

「あっ」
「スマホは預かっておこう」

私のスマホは一瞬でオーナーの手に渡る。オーナーの横で楽しそうなドラメシヤ達がクルクル飛んでいるので恐らく彼らの力だろう。

「ですがオーナー、所在が確認できたことだけでも報告しないと」
「ここでオーナーは止めてくれないか」
「へ」
「ここはハロンタウンのダンデの家だ。ダンデと呼んでくれ」
「はぁ、じゃあダンデ、さん。とりあえず、メッセージの内容を確認していただいても構いませんので報告だけでもさせて頂けませんか?私まで音信不通になってしまうと恐らくガラル全体での捜索になってしまうので」
「…………わかった」

一旦スマホを返してもらい、ダンデさん監修の元で文章を打ち込み秘書課の方に報告する。送信した途端スマホを奪われダンデさんのズボンのポケットにしまわれてしまった。

「さあ、何をしようか」
「…ご家族の方は今日はいらっしゃらないんですか?」
「ホップは今日から泊まり込みで研究所だし、母さん達はキルクスに旅行中だ」
「そうなんですね。そうか、ホップ選手は博士を目指されてるんでしたね」
「そうだぜ!昔はオレの後ばかり追いかけて心配だったが今では目標を持って進んでいる。…嬉しいが少し寂しさもあるんだ」

ダンデさんが話しながら立ち上がり窓辺で寝転んでいたチョロネコを撫でる。スヤスヤと気持ちよさそうに
寝ている。窓からの日差しにより逆光で顔はよく見えないが自嘲しているのが声色から分かる。

なんだか重い話が始まろうとしているのか?さてどうしたものか、と困っているとダンデさんの方からグー、と音が聞こえる。

「腹が空いたな」
「そういえば、お昼時ですね」

腕時計を確認すると十二時を二十分は過ぎている。まさかこんな事になるとは思っていなかったのでお弁当は事務所の冷蔵庫に置いたままだ。一旦帰る訳にも行かないし、そもそも帰らせてもらえない。夜まで中身が無事である事を祈ろう。

「何か作ってやろう!何が食べたい?」

まるで何でも言ってくれれば作れるぞと自信満々なお顔をされてますけど、リーグ内でオーナーをキッチンに立たせるなという御触れが出ているのは下っ端の下っ端である私まで周知の事実だ。

「えぇと…お手を煩わせるのも悪いですし何かデリバリーなどは…」
「残念ながらハロンタウンまでデリバリーは来ないんだ」

ああ神よ。そうだここはシュートでは無いのだ。私も田舎育ちなのでデリバリーが来ない辛さは分かります。分かるんですが。仕方ない。私も料理はあまり得意では無いがやるしか無い。

「カレーは如何ですか?簡単ですし、オー…ダンデさんもキャンプで作られますよね」
「カレーか!いいな、そうしよう」
「私もお手伝いしますね〜」

よかった。カレーくらいならなんとかなるだろう。キッチンに向かうオーナーに付いていき、相談しながら準備をしていく。どうしてもオーナーが率先してやるのは確定事項だった様でなんとかアドバイスをしながら食べられるものが出来上がるよう後ろで祈るしかない。

「きのみはどれを入れようか」
「…きのみは無しにしませんか?今回は素朴なカレーを楽しみましょう!」

今ガラルで流行っているカレーはきのみの調合が大事でこれによってリザードン級になるか、ドガース級になるかが決まると言っても過言ではない。今日はリザードン級なんか求めてないのだ。ソーナンス級、できればマホミル級で十分だ。

「それじゃあつまらないじゃないか」
「は?」

オーナーの手には既に色とりどりのきのみが握られていて。

「せ、せめてオボンかオレンでっ、あああああ」
「よし!美味くなりそうだぜ!」
「………」

適当に相槌を打ちたいところだけど、とてもそうとは思えない場面を見てしまった私には何も答える事ができない。ほぼ放心状態のままカレー作りを続行する。

「さあ、最後の仕上げだ!ほらキミも」
「え…」

早く、と胸の前に手でハートを作ったままオーナーがこちらを見てくる。

「…この作業ってテレビの中だけじゃ…」
「何を言ってるんだ?キャンプ経験者は皆やってるぜ?」

痺れを切らしたオーナーが私の手を無理矢理ハートのポーズにさせる。は、恥ずかしすぎる…。

「おいしくなーれ!」
「お、おいしくなーれ」

ピカッと鍋のカレーが光り完成すると同時に、隣から笑を噛み殺すような音が聞こえる。コイツ…。

「………嘘つきましたね」
「くっ…ふは、ははははは!すまない!さ、盛り付けだ」

ジロリと睨むも大笑いしているオーナーにはどこ吹く風だ。すっかり騙されてしまった。とても悔しいムカつく。盛り付けるにもご飯を炊くのを二人してすっかり忘れていたのでカウンターに置いてあった食パンを拝借する。

「米を炊き忘れるなんてキミは抜けているなあ」
「………」
「さあ食べようか!」

いただきますと盛り盛り食べていくオーナー。噛んでいるのかも怪しい。味はどうなのだろうか、まあ不味くても食べ切らなければならない。恐る恐るスプーンに掬い、口へと運ぶ。…甘いと思ったら辛くなり、かと思えば渋さ、苦さが一気にきて最後には酸味を残して消えていく。心を無にして食べれば問題ないので限りなくドガース級に近いソーナンス級と思い込むことにする。

「はー、やっぱりカレーは手早く食べられていいな」
「もう食べ終わったんですか」
「ああ!キミはゆっくり食べてくれ」

すっかり食べ終わった、いや飲み干したオーナーがダイニングテーブルの上に置いてあった新聞を読み始める。流石は歴代チャンピオンの中でも一、二を争う人気を保持していただけあって新聞を読む姿さえ絵になっている。

「そういえば、オーナーは、」
「ダンデ」
「…ダンデさんはピアノを嗜まれてるんですね」
「まあな」

新聞で隠れて表情は見えないが無愛想な返事が返ってくる。地雷を踏んでしまっただろうか。

「母さんがピアノが好きで練習させられたんだ」
「そうなんですね。素敵な音色でしたよ」
「…昔はよくホップの歌に合わせて伴奏もしたんだぜ」

あっそういう…。どうやら今のオーナーにとってホップ選手に関するものが大きな地雷のようだ。これは次の話題に…。

「キミに聴かせてやろう」
「えっ」
「嫌なのか?」
「いえいえそんな…」

新聞をずらし片目だけで睨め付けられたので慌てて目を逸らし残りのカレーを掻き込む。うーん、不味い!

「ごちそうさまでした。お皿洗いますね」
「いや、置いといてくれ。二階へ行こう」
「…はい」

シンクにお皿とお鍋に水を入れて置いていく。きちんとオーナーが後片付けをしてくれる事を願おう。さっさと私を置いて階段を上がるオーナーの後をついて行く。どうやら先程外から見た窓の部屋がオーナーの部屋の様だ。

「何かリクエストはあるか?」
「えーっと、特には」
「そうか」

ベッドにでも座ってくれと言われたが抵抗感があったので壁際のテーブルの椅子をお借りする。ポロロンと音が鳴ったかと思うと途端に旋律が奏でられ始めた。
まったくクラシックとかは分からないが音の数も多く少し練習したくらいでは弾けない曲だというのは分かる。それにしても、なんだかどこか重く、悲壮を感じさせられる曲だ。他にも暗い雰囲気の曲が続く。
最後の音が響き、オーナーがこちらを振り返るので拍手を送る。

「すごかったです」
「薄い感想だな」
「なっ。…なんだか暗い曲でしたね。背中が重くなりました。悲しくなるというか」
「………」
「どうせなら楽しい曲がよかったです」
「悪いが気分じゃないな」

いけない、またオーナーに対してイラッときてしまった。落ち着いて。胸に手を当て深呼吸をしているとオーナーが立ち上がりこっちへ向かってきた。

「な、なんですか」
「牧場へ行こう」
「へ?」

私の答えも聞かず部屋を出ていくので慌てて着いていく。自由気ままだな、この人。オーナーの向かうがまま、ご実家を出てすぐ側にある牧場に入っていく。中には沢山のウールー達が牧草を食べたり昼寝をしていたりのんびりと過ごしている。

「こっちだ」
「はあ」

腕を取られ牧場の奥の方へ進む。そこは小高い丘になっていて先にあるブラッシータウンやその先の景色がまるで絵画の様に広がっている。

「うわー、綺麗ですね」
「…………」
「オー…、ダンデさん?あれ」

気がつくと隣に姿はなく、目線を下げると草むらに横たわっていた。なんだかそれがとっても気持ちよさそうで私もオーナーの横に座る。

「寝転ばないのか?」
「大丈夫です」
「いいじゃないか」
「わっ」

背中の服を引っ張られ、強制的にオーナーの横に寝転ばされる。

「小さい頃、母さんに怒られてよくここに来たもんだ」
「えっ、オーナーがですか?」
「ダンデ」
「…ダンデさんもそんな頃があったんですね」
「まあな。それでいつの間にかホップもここに来るようになって」

しまった、またホップ選手の話題になってしまった。

「喧嘩してもここで今みたいに一緒に寝っ転がって仲直りして」
「……」
「そうやってホップはずっとオレに憧れて、ずっとオレの後ろを追ってたんだ。つい最近までな」

そういやここに来た時も同じような事を言ってたな、と考える。二人して空を見上げたままオーナーの話は続く。

「オレの真似ばかりしていたホップが今では立派な夢を持って進んでいるんだ。良いライバルを持つと人生はガラッと変わる。ホップにとってそれはオレでは無かったんだ」
「………」
「周りからはホップの方がブラコンだと言われる事が多かったが実際兄弟離れ出来ないのはオレの方なんだぜ」

自嘲する様な声色と同時に沈み始めていた太陽が雲に隠れ、辺りは一気に暗くなる。

「聞いてるか?」
「聞いてますよ」
「……」

「良いんじゃないですか?」
「…そうだろうか」
「私は一人っ子なので兄弟の絆とか愛とかがよく分からないんですが。血の繋がりの有る無しに関係なく一緒に育って来たらそりゃ多少の執着だって産まれると思います」
「…だが、ホップにとってオレはあまり一緒には居てやれなかったぜ」
「だとしてもですよ。ダンデさんがすぐ側に居なくてもホップ選手なりにずっと貴方を追ってたんですから。確かに今のホップ選手の道を開いたのはチャンピオンかもしれないですが、そこに至るまでのホップ選手を築いてきたのはダンデさんなんですよ。もっと堂々として良いと思います。だからこんなネチネチと昔のホップ選手の影を追ってないで今のホップ選手と向き合ってあげてください」
「…………」

沈黙が続く。失礼な事を言い過ぎたかもしれない。

「…すいません。勝手なことを言い過ぎました」
「いや、そうか。っふふ、はははは!」

今日一番と言っても良いほどの笑い声が辺りに響く。

「はははっ!そんなにネチネチしていただろうか」
「…正直かなり」
「そうか、いや確かにそうだな。今日はすまなかったよ」

オーナーが未だ途絶えない笑いを堪えながら起き上がる。太陽が沈み切るギリギリでまた顔を出し始め、少しだけ辺りが明るくなる。

「なんだかスッキリしたよ。キミのおかげだ。ありがとう」
「いえ…」

残りわずかの夕陽がピンポイントでオーナーに当たり、まるで宗教画の様だなとぼうっと見つめてしまう。

「ふふっ。今日何故仕事に行かなかったのか教えてやろう」

「実はな、この間他地方の方にサボる楽しさってやつを熱弁されてなやってみたくなっただけなんだ。初めはピアノを弾いたら行こうと思ってたんだがキミが来て楽しくなってしまってな」
「…え」
「今回のことはこちらで処理するからキミは気にせず明日から通常業務にもどってくれ!」

え、それって私ここに来なかった方が良かったんじゃんと衝撃を受けている中オーナーはさっさと立ち上がり、ウールーを厩舎に集めるため牧場犬をしているワンパチを呼び寄せている。

起き上がるのもめんどくさくなり寝転んだまま空を見つめる。あ、一番星だ。とシュートでは中々見ることの出来ない星空を楽しんでいると視界にオーナーが現れた。

「キミ、まだ帰らないのか?」
「…帰りますけど」
「泊まって行っても良いんだぜ」
「帰ります」

これ以上流されてたまるかとタクシーを呼ぶためスマホを探す。あ。

「スマホ、返してください」
「ああ、そうだったな。ちょっと待ってくれ」

ポケットを漁り、朝からずっと捕らわれたままだったスマホを受け取る。会いたかったよ。オーナーの体温が移っていてちょっと気持ち悪いとか思ってないですよ。

「タクシー呼んだんで荷物だけ取りに行きますね」
「ああ。ウールー達も戻ったし行くか」

本当だ、ウールーが居なくなっている。優秀なワンパチだ。オーナーが柵に鍵を掛けるのを見ながら改めてハロンタウンを見渡す。シュートの様な忙しさや喧騒が無く、のんびりとした穏やかで居心地の良い時間が流れている場所だ。比例して街灯も少なく、真っ暗なのが田舎特有の薄暗さを演出しているが。

「どうだ、ハロンは良い所だろう」
「そうですね、とても居心地がいいです」
「よかったら嫁に来るか?」
「は?」
「ふふ」

冗談だと言いながらご実家のドアを開けるオーナー。なんなんだこの人。リビングのソファの上に置いたままだった鞄を手に取り、玄関へ向かう。と、そこには同じく荷物を持ったオーナーが。

「オ、…ダンデさんもこんな時間からお出かけですか?」
「いや、オレもシュートへ戻るよ。送り届けよう」
「え…」

タクシーに一緒に乗るつもりなのだろうか。せっかく一人になれると思ったのに。かなり嫌だぞ。

「嫌なのか?」
「…い、いえ」

そうか!と背中を押されながら玄関を出る。鍵を閉めているのを見ているとタクシーが到着したようだ。目的地は呼んだ時に伝えてあるので運転手に挨拶をしてそのまま乗り込む。オーナーも運転手と少し話して乗り込んできた。

「すまないが研究所に寄らせてもらう」
「分かりました」

運転手の合図と共に浮き上がり、すぐに再び地上に降りる。オーナーが降りて行き、研究所の呼び鈴を鳴らす。ちゃんと降りる際に待っていてくれと釘を刺されたのでこのまま置いていくこともできない。
スマホで秘書課の方に連絡をしていると研究所から誰か出てきたのが視界の端に入る。あれはホップ選手だ。って、え!オーナーがホップ選手に抱きついた。真っ赤になったホップ選手があ、アニキ!?と叫んでいるのが聞こえて来る。抱きしめたまま何か話している様でオーナーの肩越しに見えるホップ選手の瞳が潤んでいく。これ以上見ているのもな、と視線を逸らす。

これが兄弟愛ってやつか。

なるべくそちらに目を向けない様にスマホに文章を打ち込み秘書課の方に送信するとすぐに返事が来た。今日は直帰でいいとの事だ。謝礼も出るそうでハッピー。だけどバイバイ私のお弁当。食べてあげられないけど明日救出するからね。
お弁当に想いを馳せているとタクシーのドアが開く。オーナーだと思い顔を上げるとよく似たお顔のホップ選手で。

「アニキが迷惑かけてすいません!あと、アニキをよろしくお願いしますっ!」
「え、は、はぁ…」

入れ替わりでオーナーが乗り込んでくる。何処かの誰かさんとは違い礼儀正しい弟さんだ。オーナーが窓から弟さんに向かい手を振っているのでなんとなく私も振ってみる。あ、ニカッと笑ってくれた!かわいい。
再び運転手さんの合図で飛び立つ。高度が上がる際のこの重力がかかる感じは昔からあまり得意ではない。

「仲良くなれたみたいですね」
「勘違いしないでくれ、仲は良いんだ。…だが、そうだな。久しぶりにちゃんと兄として話せた気がするぜ」
「よかったです」

車内が静かになる。でも昼間の沈黙の時よりも随分雰囲気は良い。

「時間があれば今日みたいに帰っても良いんじゃないですか?時間があれば、ですけど」
「ははっ、そうだな。時間がある時はそうしよう。…そうだ、もうすぐまとまった休みがあるんだ。その時に帰るよ」
「それがいいです」
「キミも一緒に来るか?」
「いえ、結構です」

その後は私のマンションに着くまで何故かハロンタウンについてのプレゼンを只管された。今日の総括としては、オーナーって変な人だなという事がよく分かった一日だった。もうあまり関わりたくないので転職も視野に入れる事にする。

補足として、私をマンションに送り届けた後オーナーは一度タワーへ戻ったらしく秘書課の方達にこってりと絞られたそうだ。
更に補足として、これは本当によく分からない事なのだが、何故か私が事務所の冷蔵庫に入れておいたお弁当をオーナーが勝手に食べ、次の日きちんと洗われたお弁当箱を直接渡される事になりあらぬ噂がリーグ内に立つことになる。また、それによってご実家のシンクに洗い物を放置してきてしまった事を思い出すことになりホップ選手とご家族に申し訳なさ過ぎて二度と顔を合わせまいと誓うのだった。




Gracile : グラーチレ ─ 繊細に。


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