遥かの夜空を、六等星まで

第一日

「頼みがあるんだけど」
「いーよ。なに?」
「一週間泊めて」



*



 玄関の扉を開けて姿を現したヒースを、藍は頭の天辺から爪先までを見た上でぽかんと口を開いた。
 
「え、まじ?」
「まじ」
「いや、荷物少なすぎ。着替えとかどーするつもりなん?」
「下着はある。服は貸して。歯ブラシは買ってきた」
「……いいけどさァ」
 
 淡々と全く悪びれる様子のないヒースは相変わらずの様でふう、と息を吐いた藍は肩を竦める。詳細も聞かずに了承したのは自分なのだから、自分のせいといえば自分のせいか。いや、それにしたって遠慮がないにも程があるだろう。呆れた顔を見せる藍の事など、ヒースは眼中に無いようで、靴を脱ぐと家主を置いて部屋の中へと歩みを進める。その背中を見て藍は今一度息を吐き、ゆったりとした足取りで後を追った。
 3日前、突然一週間家に泊まらせて欲しいと頼まれた。かつての同僚に、である。アングラなショーレストランで、同じチームに所属していた。藍という別の名を名乗り、ステージ上でMCである件の元同僚ヒースの言葉に乗せて踊る。他にも3人のチームメンバーがいて、まあまあ不穏で愉快な日々を共に過ごした。それから、店が畳まれてから、約2年の時が過ぎていた。その間に藍は成人した。酒も煙草も自分で買えるようになった。背丈は少ししか大きくならなかった。代わりと言ってはなんだが抱える物、背負う物はだいぶ大きくなった。あの頃のように自分の好きな様に動き回るには少々不便ではあるが、不満はない。そういうものだからだ。
 ヒースは我が物顔でリビングのソファに腰掛け、つけっぱなしだったニュース番組をつまらなそうに見ている。その後頭部に向かって藍は声をかけた。
 
「2年とちょっとぶりのダイシンユーに何か言う事はないん?」
「……髪切った?」
「うっわァ。そーゆーとこ、懐かしいわ」
 
 ヒースに珈琲の入ったマグカップを渡した藍は、一人分空けて隣に座る。そして、淹れたてで湯気の上がるそれに恐る恐る口をつけチビチビと飲むヒースをじっと眺めた。
 変わっていない。何も。猫背気味の姿勢も、不健康そうに真白な肌も、酷い隈も。マグカップを支える両の手は骨張って細い。時折顔を顰めて咳き込む様子を見る限り、虚弱な体質も改善はされていないようだった。あの頃は、チームの皆だけでなく他の人らも巻き込んでヒースの体質改善に努めていた事を思い出す。特にトップなんかはまるで親鳥のようにヒースの食事の面倒を見て、嫌々するヒースに無理矢理食べさせていた。その後喧嘩になって誰も止めずに笑って観戦するのが通例であった。店を出てから少しの間、この二人は連絡を取り合っていたらしいが今はどうだろうか。藍の知る所ではなかった。
 
「てか、オレの番号よお持ってたな」 
 藍は、閉店後チームの皆に連絡先を教えていた。8割のノリと、残りの2割はケジメだ。借りた借りは返すのがセオリーというもの。店にいる間よく世話になったのだ、彼等に何かあった時に手助け位はしてやろうと決めていたのである。まさか、本当に使われる事になるとは思っていなかったが。しかも二年も空いて。
 
「今使ってないかもしれないのに」
「うん。まあ、使ってなかったら使ってなかったで気にしてない」
「ふうん」
 
 一体何があってこういう事になっているか、気にはなったが触れないでおいた。弁えはきちんとしておかなければ生きていけないのである。それに、ヒースはもう眠たそうに欠伸をしていた。時刻は20時を過ぎた位で、幼稚園児かよ、と思ったがここに来るまでが長かったのかもしれない。元々疲れやすい奴だ。仕方ないな、と藍は立ち上がる。
 
「風呂、入るやろ。その間飯用意しとく。何食べたい?」
「なんでも、いいよ」
「んじゃテキトーに。風呂、案内するからこっちなー」
 
 だらりと投げ出されたヒースの腕を取り、立ち上がらせる。怠そうにされるがままになる身体の軽さに、顔には出さずとも驚いた。よれたTシャツから覗く鎖骨の出っ張り具合が、肉のなさを物語っていた。
 
「なに」
 
 鬱陶しげに顔を顰めてみせるヒースに、藍はにやりと口角を上げる。眠いので機嫌が悪いのだろう。赤ん坊じゃあるまいし。なんて思いつつ、口に出したら余計機嫌を損ねてしまうので藍は笑って誤魔化した。
 
「いや、ヒースのが背デカいんだァ思ってな」
「あっそ」
 
 風呂はどこ、とまるで礼儀の欠片もないヒースである。藍は肩を竦めて苦笑した。
 
 
 風呂は長く入るタイプらしい。ヒースが風呂から上がる頃にはちょうどよく出来上がった食事がテーブルの上に並べられている。ぺたぺたと湯気を纏いながら歩くヒースは、血色が良くなったようだ。ヒースの方が背が高いのに、藍が貸したスウェットはサイズが大きいようで、特に肩あたりが合ってなく袖が長く見える。のくせにパンツの方はきっちり踝が出ているのがムカつくポイントだ。ヒースはテーブルに準備された料理を見て大きく目を見開く。素直に驚いているのが、何となく癪に思った。
 
「料理出来るんだね。出前だと思ってた」
「オトコの嗜みってやつよ。普通に出来るだけで滅茶苦茶上手い訳ではないんやけどな。普段はやらんし」
「ふうん」
 
 席に着いたヒースが手を合わせてゆっくりと食べ始めたのを見て、藍も同じく食事を開始した。特別なものは作っていない。美味くも不味くもない、普通の料理だ。
 
「うまい?」
「普通」
「そこはお世辞でもうまいって言えよ〜」
「藍」
 
 脈絡なく言葉に乗せられた音に、は、と大きく目を見開いた。かさついた唇から落とされた名は随分と昔のもので、そういえばずっと呼ばれていなかったなぁと気付く。しかし、暫く耳にする事のなかった筈の名も、ヒースの声に乗せるとやけにしっくりと馴染んでいた。
 
「なに、ヒース」
「ありがとう」
 
 目元を緩めて、ヒースが微笑んだ。あの頃に比べたらだいぶ上手くなったと思う。けれど、不自然に歪んだ唇は当時と同じ。それがなんだか擽ったく思えてしまう自分がいた。
 これだけ好き勝手しておいて今更感謝されてもなぁ、と思わないでもないが、藍は笑って頷く。 
「ま、一週間よろしくな」
「うん」
 
 皿洗いは、ヒースがしてくれるようだったのでその間に藍も風呂に入った。藍を待っている間、再びソファでテレビを観ながらも船を漕いでいたヒースを来客用の部屋に通した(初めはソファで寝る、と言ったのだが問答無用で連れ込んだ)。半分夢の中を彷徨っているのを見かねた藍が結局シーツやら布団やらの準備をしてやり、ヒースを寝かす。そして欠伸をしたかと思えばたちまち瞼のシャッターを下ろし、すぐに寝息が聞こえてきた。のび太君もびっくりの、おやすみ3秒だ。穏やかに眠るその顔はあまりにも安らかで、他人の家の他人の布団であるというのに妙に肝が据わっているなと思った。確かに、あの頃もヒース発端で色々やっていた。ダウナー系に見えて、案外血の気が多い奴なのである。
 
「ほんと、変わんないなァ」
 
 何となく癪に障るので、かさついた頬を軽く引っ張って遊ぶ。皮はよく伸びた。寝ているヒースは顔を顰めるのみで、再び菫色が現れる事はなかった。
 何とも奇妙な縁である。これから一週間、7日間、時間に換算すると168時間もある。今までの暮らしに不満はないが、この変わった元同僚のお陰で何か面白い事が起こるかもしれない、と藍は一人微笑む。寝巻きのハーフパンツからスマートフォンを取り出し、カメラ機能を起動させてヒースの寝顔を収める。特に意味はない。ないのだが、愛犬の写真ばかりのカメラロールに成人男子の寝顔というイレギュラーが滑稽だった。
 
「あ、サブ」
 
 愛犬の写真を見て思い出した。慌ててカレンダーを確認し、藍は困ったように頭を掻く。
 「ヒース、犬アレルギーとか持ってへんかなァ」 
 まあ、明日聞けばいいか。
 呑気に眠るその頭を雑に撫で、藍は部屋を出た。