遥かの夜空を、六等星まで

第二日

「ヒース、いつまで寝てるん? もう10時過ぎなんやけど」
「ん……」
「ああもう。オレ今から出なきゃ駄目なの、飯は置いてあるから食べといてな、あと服も適当にして。ピンポンも出なくていいし、って寝んな起きろ!」
 
 べり、と無理矢理布団を剥いだ藍を半開きの目でヒースが睨みつける。いや、オレ家主なんだが。
 
「ハイおはよーさん。今の聞いとった?」
「らん今から出る、ごはんある、服てきとう、ぴんぽんでない」
「そうそうよくできまちたね、ってことでじゃあな! あ、鍵机の上だから!」
 
 ヒースの腕を引き上げ、上半身を起こさせたところで藍は慌ただしく出て行く。その背に、寝起きで掠れた声が降り掛かった。
 
「藍」
「なに!?」
「いってらっしゃい」
 
 またあの顔だ。穏やかなそれに何故か心がざわめきつつも、藍は手を振って応えた。
 ヒースが自分で起きてくるまで待とうと思っていたが、時間が先に限界を迎えた。昨晩ヒースが眠りについたのは0時を迎える前だったというのに、3時近くまで起きていた藍よりもよく眠っていた。過度な睡眠は寧ろ体力を奪うものである。今までもこのような生活をしていたのなら、そりゃ体力がない筈だ。何事にも適度、というものは存在するのである。
 
「おはようございます、若」
「おはよ。行先、分かっとるよな」
「はい」

 あ、と藍は思い出す。結局、ヒースにアレルギーの有無を聞くのを忘れていた。
 



 17時、帰宅するとヒースは大きく目を見開いた。まあ当然だな、と藍は苦笑を浮かべる。
 
「え、え、……犬?」「悪いヒース、言うの忘れとった。犬平気?」「平気だけど……どうしたの」
 
 足元で大人しく座る愛犬、サブの頭を撫でながら藍はヒースに説明する。
 
「ちょっと入院しててな、今日退院した」
 
 サブはヒースの事が気になる様で、そわそわとしている。それでも飛び出したり吠えたりしないのは藍がよく教育したからだ。サブの丸っこい大きな目をヒースはじっと凝視しているが、特に怖がったりしていないしサブも警戒はしていない。そこで藍はサブの腰あたりをポンと叩いてやった。
 
「サブって名前。仲良くしたって」
 
 サブが尻尾を振りながらヒースに近付くと、ヒースは手の甲を差し出して匂いを嗅がせてやる。くん、と小さく鳴いたサブがヒースに頭を擦り寄せたので、取り敢えず邂逅は無事済んだようだ。優しい手付きでサブを撫でてやるヒースが、ふと手を止め顔を顰める。サブの後脚の付け根に巻かれた包帯に気付いたのだ。
 
「.……怪我したの?」
「そ。撃たれた。1発バァンって。弾は貫通してたから良かったけどな」
 
 藍がサブの隣にしゃがみこむと、濡れた鼻先を頬に押し付けられる。あやす様に撫でる藍と嬉しそうにじゃれつくサブをヒースは交互に見た。
 
「仲良しだね」
「だろー? オレの可愛い可愛い弟分よ」
 
 一から面倒を見てやったからな、と 藍は自慢気に話す。ヒースは興味が無さそうだが気にしない。ドーベルマンは親和性に欠ける性質であり、他の生き物と打ち解けずらい。飼い主が上手く扱わなければ、吠え癖や噛み癖がついたり、他の犬とのトラブルが耐えなかったり。しかし、賢くて運動神経も良いので、きちんとしつけたら最高の相棒になるのだ。
 
「おし、サブ。ヒースに見せたれ。いかにお前がスゲェのか」
「え、なに急に」
 
 サブ、と藍は名を呼ぶ。ヒースに尻尾を振っていたサブは即座に視線を移し、じっと藍を見つめる。この切り替えの速さよ。ヒースは突然変わったサブの雰囲気に目を白黒させている。
 
「ツケ、スワレ」 
 
 サブは藍の左脚にピタリと寄り添うように腰を下ろす。視線は藍に向けられたままだ。
 
「ナケ」
 
 ワン、とサブは一度だけ吠える。
 
「マテ」
 
 藍は収納のボックスからテニスボールを取り出した。そしてサブに見せ、投げる。
 
「モッテコイ」
 
 部屋の角辺りに投げられたボールを、軽やかな足取りでサブが追いかける。
 
「ヒース、手出して」
「こう?」
「ん。……ダセ」
 
 ボールを咥えて来たサブが、ヒースの手のひらにボールを落とした。藍はサブを呼び寄せると、思い切り抱き締めて撫で回してやる。ヒースは驚いた顔をして、思わず、といったように拍手をした。
 
「すごいね、お利口さんだ」
「ふふん、オレの教育の賜物ってやつよ」
 
 自慢気にふんぞり返る藍に、ヒースは呆れることなく凄いね、と言いサブの頭を撫でた。テンションの上がったサブはヒースの肩に前脚を置いて顔を舐め始める。ヒースは慌てて藍に助けを求めるも、残念ながら一度こうなったサブを止めるのは骨が折れるのだ。声符を使えば1発だが、もみくちゃにされているヒースが面白くてそのままにしておく事にした。藍に悪態をつきながらもサブを剥がせないでいるヒースに声を掛ける。
 
「オレ風呂行ってくるわ〜」
「この野郎!」
 
 風呂から上がった後、藍は顔を涎でべたべたにさせたヒースに一発殴られた。痛くはなかった。 今日も藍の作った料理を2人で食べ、ヒースが食器を洗う。昨日と同じく22時前であるのに眠そうなヒースに休むように促す。そこで、本日最大の予想外が起き、藍は悲壮な顔をして頭を下げ抱えた。
 
「う、うそ……なんでやサブ。え? オレよりもヒースがいいの?」 
「オレにもよく分からないんだけど離れなくて……サブ、オレは藍じゃないよ」
 
 サブがヒースから離れたがらないのだ。部屋へ向かうヒースの後ろをピッタリとついて行き、困ったヒースが藍に助けを求めた。普段、寝る時は藍と同じ部屋にいるのにこの身の変わりようとはいかに。
 
「なぁサブ怒ってるんか? オレ、なんかした? 何? 言ってみ?」
 
 サブの顔を両手で包み込むも、当然の事ながら何も言わない。
 
「えっと、オレ行くね」
 
 ヒースが背を向けると、たちまちサブは藍を振り切りヒースを追いかける。困惑した視線が突き刺さり、藍は遂に首を振った。
 
「いいよ、行けサブ。それがお前の選択ならオレに止める権利はないんや」
「壮大か」
 
 サブは藍の事など見向きもせずに、グイグイと鼻先でヒースの尻を押す。まるで速く進め、とでも言うようだ。飼い主はどちらなのか。え、まさかうちの子がこんな尻軽だったなんてと藍は真剣にショックを受ける。
 
「おやすみ藍」
「おやすみィ……」
 
 一人と一匹の足音が途絶えた静かな部屋に、藍の悲しげな声が響いた。