第七日
7日目も同じく、起きてこないヒースである。藍は1時間置きに様子を見に行った。枕元に置いてやったペットボトルは、一切手がつけられていない。態々コンビニまで行って水ではないポカリを買ってきてやったのに、である。
18時30分、ゼリーでも食べるかと聞いた。ヒースは目を瞑ったまま緩く首を振った。額に手のひらを乗せても自分の熱しか感じなかった。
19時、ヒースは一度身体を起こした。菫色の瞳の中に藍はいなかった。その後すぐに後ろへ倒れたので、慌てて支える羽目になった。
19時20分、お粥を持って行った。卵はもうなかったので梅干しを乗せたやつだ。スプーンで一口突っ込んでやるとすんなりと飲み込んだ。かと思えばその場で咳と共に吐き出した。
19時30分、吐瀉物で汚れた毛布を片付け、代わりに藍の使っている毛布を掛けてやった。ヒースの唇が何か言おうと震えたが、言葉にも音にもならずに消えた。
19時40分、目を開けている事が少なくなった。長い長い瞬きはいつ開くのか分からなくて、藍はヒースの顔を一瞬たりとも見逃さぬようじっと見つめていた。
19時45分、サブがベッドの上に乗り上がり、壁とヒースの間に蹲った。毛が布団に付いてしまうと思ったが、藍は何も言わなかった。
19時50分、シバから電話が掛かってきた。藍は今は無理、とだけ言って切ってしまった。
19時55分、サブが吠えた。
「ヒース」
藍がベッドに腰掛けると、ギシリ、と嫌な音を立てて軋んだ。上から覆い被さるようにヒースの顔を覗き込んでも、濁った菫色の瞳はぼんやりとしたままで、小さく開いた薄い唇から、耳を近付けて漸く認識出来る程度の弱い息だけが漏れていた。
「お前分かってたんか」
サブがヒースに懐いていた様に見えたのは、そういう事である。サブの長い舌が顔を舐めても、細い腕はピクリとも動かずに反応を示さない。あれだけ嫌がって喚いていたのに声も上げず、身動ぎもしない。サブが悲しそうに小さく鳴いた。
「死体、オレの勝手にしていい?」
ヒースは結局、藍の顔を見向きもしなかった。ただただ、瞳と藍の顔の間の空間を眺めていただけである。
もう落ちかけ瞼が完全に閉じたのを見た。そして、か細い呼吸は遂に音を途絶え、薄っぺらい胸に手を当てても鼓動を感じなくなった。皮膚はまだ温もりを灯していた。思い切り布団を剥いだら、きっと顔を顰めて不機嫌そうに睨み付けてくるのだろうか。でも、藍は優しいので寝かせてあげることにした。
20時を迎えた。ヒースはもういない。
一週間、7日間、きっかり泊まっていったヒースには脱帽した。有言実行にも程があるだろう。
一週間、7日間、時間にしたら168時間。たったそれだけの時間だった。短かった。
*
午前2時。闇の中に一つぽつんと浮かんだ月が、荒く立つ波を白く浮かび上がらせている。強く吹いた潮の匂いのする風が藍の前髪を撫でるように掠めた。車のドアを開け、後頭部席シートベルトで括り付けられた黒い寝袋を抱き上げる。それなりの重さだった。寝袋は一度地面に下ろし、今度はトランクへ。取り出したのは4枚の金網だ。目はかなり細かく、小さな魚が通れる程である。
用意されていた小さな船に乗った。初めに寝袋を抱えて乗せ、次に金網も乗せた。寝袋は操縦席の隣に、座らせるようにして車の時と同じくシートベルトを付ける。小型船舶の運転免許は持っていないが、この程度の操作など造作もない事であった。見様見真似で出来るものである。
ある程度陸から離れた所で、船を停めた。藍は寝袋を抱き上げて操縦席の外へ出る。無造作に置かれた4枚の金網を、2つずつ組にしてちょうど一人分くらいの背丈のものを2枚作る。寝袋を開け、中身を片方の金網2枚を繋げたものに寝かせた。穏やかな顔をしてただ眠っている様にも見えるが、頬に手を添えてみると酷く冷たい。化粧でもしてやれば良かったかもしれない。そうしたらこの紙みたいな顔色も少しはマシになったかもと思ったが、どうせ水のなかで化粧は落ちてしまう。死装束は用意出来なかった。代わりに藍の家に来た初日の服を着せておいた。家にあっても線が細くて藍には着る事が出来ないからだ。
仰向けに寝転がる身体にもう一枚の金網を乗せ、金網同士を繋ぎ合わせる。
「……あいしてんぞ、ヒース」
金網越しの口付けは、何の味もしなかった。
バシャン、と大きな飛沫を立て、金網に挟まれた身体がゆっくりと沈んでいく。水面の揺らぎに合わせて歪んだ顔が少しずつ闇に包まれて、次第に何も見えなくなった。
藍はその場に直接腰を下ろす。ポケットから煙草の箱とライターを取り出し、一本口に咥えて火をつけようとして、止めた。煙草を箱に戻し、そして水面に落とす。初めは浮かんでいたが、水を含んで重たくなると音もなく沈んでいきそして姿を消す。
勿体ないな、と思った。まあいいか、と思った。もういらないんだ、と思った。嫌いになったんだ、と思った。
「嘘なんかじゃ、ないからな」
藍の呟いた言葉は、誰にも回収されず海に吸い込まれた。
朝と夜が出会う頃に、そして別れが訪れる頃に帰ろうと思う。それまではここにいよう。そのくらいなら許されたっていいじゃないか。
なんだか無性にお粥が食べたくなった。
風が吹いていた。
波の音が聞こえる。