遥かの夜空を、六等星まで

明日の春はまだ遠く

 昨晩降った雨のお陰で、宙を舞っていた埃は落ち着き鼻がむず痒くなる事が無くなった。代償は剥き出しになっている地面のぬかるみ。お陰でスニーカーを派手に汚した。一歩を踏み出す度に足の裏でぴちゃりと音を立てるのが気持ち悪い。 鼠が足早に壁に沿って奥に向かうのを視界の隅に捉えた。この前は猫を見かけたので襲われなければいいけど、と無責任な事を思う。以前は鼠を見る事なんて殆どなかったのに。完全に廃れたのだと明示されたような気分になった。
 ため息をついて銀星は地下へ向かう階段に目を向ける。今更、何を思ったってどうしようもないのだ。どうしようもない。
 
 階段を降りてすぐに目に飛び込んでくるのは所々焼け焦げた痕跡がある鯨の骨のレプリカである。店のシンボルとも言えた、客席の上に悠々と浮かんでいた鯨も、今は汚い地面に伏せている。その朽ちた海の王者の背骨の上に、ちょこんと腰掛ける麦わら頭を見つけた。
 
「ギィ」
 
 名を呼ぶと、無機質な瞳が此方を見る。
 
「銀星」
 
 抑揚の無い声に手を挙げて応え、銀星はギィの隣に腰掛けた。ギシリ、と嫌な音がする。
 
「ほら、飯。買ってきたから食べよう」
 
 何しに来たの、と薄い唇が唱える前に、銀星はギィにバーガーショップの紙袋を押し付けるように手渡した。覚束無い手付きで受け取るギィは紙袋と銀星を交互に見る。
 
「プレーンバーガー、好きだったろ?」
「そうだっけ」
「そうだっけってお前……自分の事だろ」
「……わからない」
 
 俯いて袋を握り締めたギィに、銀星は顔を顰める。何事にも、自分の事にも無頓着な彼にやきもきさせられるのも何度目か。食べ物、しかも一応好物を貰っているのに困っている様に見えるギィを見て罪悪感に包まれた。
 モヤモヤと胸の奥で燻る何かを吹っ切る様に、銀星はギィの手から紙袋を奪いバーガーを取り出す。まだ温かいそれを、不思議そうな顔をするギィに押し付けて自分の分も手に取った。何か言いたげに此方を見ているが無視だ。包み紙を雑に取り払い、バンズに齧り付く。歯がレタスを破る軽快な音がして、具の間に塗りたくられたソースが口内に溢れ出てくる。プレーンバーガーのシンプルな味付けは銀星も好きだが、包み紙に染み出た脂で手がべたつくのが難点であった。あと、飲み物もない。失敗したな、とソースがダイレクトに届き渇いた喉を宥めるように唾を呑み込む。ちらりと隣を見ると、銀星に倣ってギィも包み紙を外していた。たどたどしい手付きは明らかに食べ慣れていない事を示しており、いつかのプロフィールのぞんざいさに脱帽してしまう。ギィにとって好物はないのと答えるのが真実だったのだろうが、流石に宜しくないので誰かが代わりに答えてやったのだろう。ケイだろうか。
 バーガーを咀嚼しながら、変わり果てたステージを見つめる。天井の照明は余す事なく全て割れ、カーテンは燃え尽き申し訳程度の残骸が転がっている。大きな穴が開いた床を見るのは2回目で、まさかここでも同じ事が起こるのかと笑いさえ込み上げてくる。あの、煌びやかで色鮮やかな舞台の痕跡は跡形もなく崩れて、目の前に広がるのは廃墟同然の寂れた景色である。
 
 
 かつて、銀星やギィが勤めていたショーレストラン、スターレスは文字通り燃えた。原因は不明で、放火なのか事故なのかも判明せず、然るべき捜査もなかった。ケイも羽瀬山も消え、裏でこそこそと動いていた連中も消えた。結局、岩水も三樹夫妻も姿を見せる事はなく、スターレスという店は過去のものになった。残ったのは何も知らない蚊帳の外であったキャスト達のみ。彼等の反応は様々で、呆気なく去る者、怒りを顕にする者、絶望に暮れる者などいた。しかし、時間が経つと皆落ち着いて、店から去って行った。
 銀星はといえば、店が燃えた衝撃と拠り所を無くした喪失感で一時は誰も手をつけられない程暴れた。来る日も来る日も店に通い、辛うじて被害の少なかったレッスン室で自主練に明け暮れ、炭しか残らない倉庫で生き残った原典は無いか探し続けたりした。床に座り込んで黙って虚空を見つめる事で一日を潰していた時もある。周りからは信者とすら揶揄されていた夫妻やケイへの依存は、放棄されて始めて鎌首を擡げて銀星を襲った。時には怒り、時には悲しみ、時には自責となって心の内側を蝕み、脳髄を焼き、発散する術はなくただただ移りゆく感情のまま流されるのみ。
 しかしそんな激情も、ほんの一瞬しか続かなかった。結局、捨てられた側は諦めるしかないのだ。何を言おうが、どうなろうが。一度捨てた塵芥をもう一度拾って使う事など有り得ぬ話だ。そうして、悟った銀星が周りを見渡すと、もうキャストは殆ど居なくなっていた。正確に言うと、銀星とギィの二人きりだったのだ。一番スターレスに執着していた黒曜も気が付いたら姿を消していた。薄情な奴だが、元々情に厚い奴など此処には居ない。でも、自分の事で精一杯だったが故に、薄らとしか覚えていないが、ミズキが案外早々に出て行ったのが印象的だった。それこそチームBの連中は一番早く去って行った気がする。次点でC。銀星はてっきりミズキは黒曜について行くとものだと思い込んでいたが、実際はそうでないらしい。あの狂犬がこれから何処で生きて行くつもりなのか、また出会った頃の様に戻るのかと自分の事を棚に上げて思ったものだ。
 ギィは、ずっと壁にもたれて座っていた。荒れた銀星の事をどう見ていたかなど、分からない。しかしギィはその目に銀星の姿をしっかりと捉えて言った。

「……痩せたね」

 たった、それだけである。
 次の瞬間、銀星は口を開いた。
 
「うち、来るか?」  
「ボクはマスターを待つ」
 
 つい口にしてしまった言葉は、呆気なく一蹴された。曇り無き眼は真っ直ぐに銀星を見て、差し出された手を振り払ったのだ。余りに綺麗な拒否であった為、銀星は反応に遅れたがどういう訳かその言葉を認識した途端傷付いた。
 マスターが何なのか、どういった人物でギィとどの様な関係なのかも分からぬままである。マスター代理らしいケイは勿論、知っているような口振りだった柘榴も消えた。しかしギィはさながら忠犬ハチ公の様に待っている。その姿に、銀星は自分を重ねでもしたのだろう。銀星はスターレスから出て行き、新たな生活をスタートさせたが時間を見つけては店に赴きギィを連れて帰ろうとした。店が無くなって、もう二ヶ月が経とうとしている。それでもまだ銀星が此処に通っているのが答えだった。
 
 
 ぽとん、と床にトマトが落ちた。ギィのバーガーからだ。真ん中を持っているので具が押されてはみ出ている。下の方を持て、とアドバイスするとギィは素直に従った。
 銀星は今なら、と口を開く。
 
「ギィ」
「ボクは待つ」
 
 銀星を見詰める瞳は変わらず真っ直ぐで、その中に陰りが無い事が一等胸を締め付けた。
 
「でも可笑しいだろ。もうどれだけ時間が経ったと思ってるんだ」
「マスターは待てと言った。だから、ボクは待つ」
 
 頑ななのは相変わらずであった。発する言葉の圧は強い。
 沈黙が流れた。
 落ちたトマトから染み出た水分が地面に模様を作る。赤い枠からはみ出る黄緑色の種の数を数えるように銀星はじっと見つめた。
 
 またこのまま互いに無言を保ったまま銀星は帰るのか。
 今、ギィがどのように生活しているかを銀星は知らない。具体的な時間帯は定かでないが、日中から深夜にかけてはずっとスターレスにいる。それ以外の時間をどこで過ごしているのか、銀星が持ってくる食事以外は何を食べてるのか。ギィは未成年で、ずっと一人で生活を送れる筈が無い。今まではケイが面倒を見ていたのかもしれないが、その保護者代理もいないのだ。このまま来るかも分からないマスターを待つギィを黙って見ていられる銀星ではなかった。
 鼠が寄ってきた。エントランスで見たものより一回り大きい。そいつは、人間がすぐ傍にいるというのに怯むこと無くギィの落としたトマトを咥えると一目散に駆けて行く。二人は黙って鼠の行く末を眺めた。
 無理にでも引き摺って行くしかないのかもしれない。身体能力的に銀星がギィに適うのかの保証はないが。
 拳を握り締めて、銀星はギィの顔を正面から見た。
 
「あのな、ギィ」 
 
 突然、何の前触れも無くギィが後ろを向く。
 
「ええ、やば。まだ人おったんか」

 折角紡ごうとした銀星の言葉は、背後からの明るい声に見事に遮られた。聞き覚えのある歪なイントネーションの関西弁もどき。振り返ると、白い歯を見せて笑う狂犬がいた。
 
「お前……」
「やっほー銀星。ひっさしぶりやなァ。相変わらずイケメンで安心した」
「やめろよ」
 
 わざとらしい猫撫で声に銀星は低い声で応戦するも、当の本人は飄々としていて欠片も気にしていない。跳ねるような足取りで一歩踏み出す度に首から下げられた金メッキの太いチェーンが揺れる。座る二人の正面に回り込むと、藍はきょとんと呆けたままのギィの頭にポンと手を置いた。

「ギィも、久しぶり。元気?」
「……嫌な臭いがする」
「アハハ、分かっちゃう? 今ちょっと仕事してきたばっかでな、シャワー浴びる暇なかったんや」

 すまんなァ、とギィの髪を混ぜるように撫でる藍の目は一切笑っていない。ド派手なジャケットの、プリントされた虎が銀星を睨み付けている。糸が張っているような緊張感に、喉が異常に渇いた。ギィの頭をぐしゃぐしゃに撫でてようやく気が済んだ藍は、そのままの流れでするりとギィの肩に腕を回す。途端にギィは顔を顰めて身を捩るが存外にも力強く組まれているせいで抜け出せない。苛立ちを隠そうともせずにギィが藍を睨むが、藍が怯むどころか笑みを深くした。チシャ猫の様に三日月になった目の隙間から毒々しいマゼンタが覗く。
 
「なあギィ」
 
 藍はギィの耳元に口を寄せ、囁くようにして言った。
 
「お前、ウチで働かんか?」
「…………は?」
 
 思わず聞き返した銀星の事はチラリとも見ずに、藍は無表情なままのギィの手を取った。
 
「だってギィ、その辺のチンピラよりずっと動けるやろ。今はぜーんぜん動いてないからフラストレーション溜まらん? ウチ来たら好きに動ける。上からの命令はあるけど何をどうやってするかは基本自由なんや。報酬も馬鹿みたいにポンポン支払われるし損はさせない。なあ、どうや?」
「ボクはマスターを待つから」
「ウンウン、そうやな。お前はそうだもんな。……でもな、ギィ」
 
 藍がポケットから何かを取り出し地面にばらまいた。写真だ。全部で五枚。全て同じものを写しているが、それぞれでアングルが違うようだった。男の写真である。否、男だったもの、方が正しいのかもしれない。少なくとも、銀星やギィと同じような形態は取っておらず、それでも人と認識出来たのは首から上は綺麗なままだったからだろう。その男は、顔立ちからして五十代前半であろうか。彫りの深い顔立ちからして外国の血が入っているのかもしれない。瞳の色は鮮やかなグリーンだ。綺麗にセットされた髪にいやらしさはなく、むしろ上品な印象を抱かせた。首は男らしく太く、そして、どういう訳か頭部は地面に直接置かれていた。では首から下はどこに、というとこれまた不思議な事に頭の脇に転がれされているのだ。オプションで身ぐるみが剥がされている。それだけなら、ああ、頭と身体が別になった人間なのだなと納得出来るのだが、そう簡単に事は及ばないらしい。右手首から下がなかった。左腕は、関節と関節の間に新しい関節が出来ているようで三つ折りにされている。両の脚はアメコミ漫画の悪役かと思われる程に綺麗に紫色になっていてぱんぱんに腫れていた。裂かれた腹からソーセージの様な腸が垂れ下がっている。身体の真ん中の、少し左側。ちょうど心臓の位置に当たる部分にはぽっかりと大きな穴が空いていた。
 死体である。それにしては玩具みたいだけれど。
 
「う、うぅぅぅ」
 
 腹から込み上げてきたものが喉を通り過ぎない様に銀星は必死で歯を食いしばった。口の中が酸っぱい。鼻の奥にトマトを感じた。
 
「……マスター」
 
 ギィの薄い唇から、小さく言葉が零れた。目を大きく開いて開いて写真を見つめる。藍が大きく頷いた。
 
「そう。ギィのマスターや」
「マスター」

  吐き気を堪えながらも、これが例のマスターか、と妙に冷静な気分になった。本当に実在していたのだな、と。ずっとギィの口からしか聞かされていなかった為に心のどこかで信じきれていなかったのである。それが今、目前に晒された。想定外の姿で。
 マスターは、ギィの親代わりのようなものだと勝手に思っている。そんな存在を、このような形で見せられるだなんて。
 マスター、と呟いたまま硬直しているギィの視界から写真を取り払おうと動いた銀星の手首を藍が掴んだ。ギシリ、と骨の軋む音がする。何もするなと、感情のない目が物語っていた。
 
「ギィ、今からオレの言う事を復唱して。……マスターは、死んだ」
 
 藍の妙に穏やかな声色に誘われてギィはそっと口を開いた。
 
「マスターは、死んだ」
「マスターはいない」
「マスターは、いない」
「マスターはギィを置いて逝った」
「おい藍止めろ」
「マスターは、ギィを……ボクを」
 
 おいていった、とギィは呟く。途端にギィの身体が震えだし、頭を抱えた。大きく肩を上下させ、呼吸が荒くなる。
 
「マスターが、ボクを? どうして、そんな。だってマスターは待てとボクに命令した。だから迎えに来るんだ。だから待っていなきゃ、マスターが。マスター」
「ギィ、ギィ、もういい。止めろ」
 
 尖った両肩掴んで顔を覗き込むようにしても、ギィは焦点の合わない目で宙を見ている。揺さぶってみても何も変わらず、ただただ混乱しているだけだ。
 焦った銀星は藍を怒鳴りつけた。
 
「お前何なんだ急に! こんな、こんな事……」
「なんや銀星。言ってみろ。こんな、何?」
 
 ヒュ、と喉の奥が鳴った。先程の笑顔が嘘のように消え、何も示さない無表情な藍に足が竦んだ。銀星が肩に抱き寄せたギィは、震えもしなくなり石のように動かない。藍は銀星の顎を掴んだ。
 
「お前、さっきうちに来るかってギィに聞いたよな。あれ、マジで言ってる? なあ、マジで言ってんの?コイツを自分で世話しようって? 頭足らんのも大概にしろよ、銀星。見ていて分かるやろ、ギィは普通の人間じゃない。真っ当に生きてけないんやって。義務教育どころか戸籍すらない、そんな奴をどうやって世話していくって?」
 
 なあ銀星、と長い指が頬を撫でた。マゼンタの鏡の奥に、冷や汗をかく自分の顔が映っている。 

「犬猫を拾って育てるのとは話が違うんやって。ま、捨て犬には変わりないけど……ああ、そうか、銀星。お前あれか、ギィに自分重ねてる? そうやったなァ、銀星も捨てられたもんな、ケイに。捨て犬同士傷舐め合って仲良くしましょってか」
 
 そーかそーか、と藍は銀星の肩を叩く。
 
「バッカじゃねえの? 人間様の図体して知能は犬以下か? お前みたいなただの一般人もどきに、ギィと」
 
 パン、と空気が弾ける音がした。と同時に藍の身体が吹っ飛ぶ。鯨の骨格に背をぶつけ、衝撃でパラパラと骨の屑が藍の服に降り掛かった。
 
「それは藍がやったの?」
 
 ダン、と地面を踏み付けて立ち上がったギィは藍を睨み付けた。転がったままの藍は、ぽかんとしてギィを見上げる。答えて、とギィの足が藍の腹に乗せられる。
 
「お、おいギィ」
「銀星は黙ってて」
 
 一蹴された。その様子を見て我に帰った藍はケラケラと笑う。
 
「えぇ……てっきり銀星の悪口言うなーってのかと思ったらそっちか。違うよギィ。オレじゃない。オレ達でもない」
「…………本当に?」
「本当に。どこのヤツがやったかは知らん。けど、情報はある」
「教えて」
「何で?」
「……分からない。けど、そうしなくちゃいけない気がする」
 
 無理な相談やな、と藍はギィの足を退けて立ち上がった。かなりの勢いで飛んで行ったのでどこかしら痛めたと思っていたが、そんな素振りは見せずに平然とした様子でパンパンと服を叩く。 

「情報はタダじゃないって、知ってるやろ? マ、ウチに雇われるってんなら話は別だけどさ」
 
 先程の藍の豹変も、ギィの剣幕も消え失せた空間に銀星は完全に置いていかれていた。 視線は二人を交互に彷徨い、戸惑う。藍に言われた事の衝撃と、ギィの突然の暴挙で頭が真っ白だった。堪らずギィのパンツの裾をくい、と引く。
 
「お、おい。何の話して……」
「銀星は関係ないよ」
「いや、そんな事われても」
「なに銀星。銀星も雇われてくれんの?役に立たなそー!」
「失礼にも程があるだろ」
 
 銀星も立ち上がると、少しふらついた。先程の衝撃がまだ抜け切れていないようだった。
 でもな、と藍は言う。

「本当に関係ないし、巻き込まれても知らんよ?てか、はよ帰った方がいいって」
「帰れないだろ。それに写真見せたのはお前じゃないか、藍」
「そうやな」
「……藍、お前の事情に深く関わる気はないけど、ギィに危ない目に合わせられない」
「え、何で?」
 
 藍は素っ頓狂な声を上げた。銀星は腕を組んで答える。
 
「何でって……そりゃ、元同僚だし、それなりに付き合いあったから」
「えっオレは!? オレと銀星の友情は!?」
「ないだろ」
 
 ひっでー、と藍はケラケラ笑う。傷付いた素振りは一切ない。
 
「そりゃ銀星ワガママがすぎるって。それにギィはこっち来る気満々やもん。なー?」
「ん……?」
「いや何で首傾げるんや」
「情報をくれないのなら、一人で見つける」
 
 ギィは、ついさっきの動揺など無かったようにしゃんとしている。すっかり表情が抜け落ちてしまって、いつものニュートラルな状態に戻ってしまった。
 
「ギィ、お前一人ってそんな」
「どうやって? 一人で生きてくの? 稼ぎは?」
「お金はマスターからカードを貰ってる」
「ふぅん。それ、もう使えなくなるけどな」
 
 何で、とギィは眉を顰めた。銀星も驚いて藍を見る。
 
「そりゃ、そいつが生きてた事実ごと消さんと意味なんかないからなァ。家は燃やすし銀行口座はぶち壊すし戸籍も弄って始めから産まれてない事になる。場合によっちゃ血縁の奴もオトす。裏で色々手引かなくちゃ駄目なんやで? 知らなかったやろ」
「ボクはどうなる?」
「さあ。少なくとも今までと同じように暮らせるなんて事が無いのだけは確かやな」
「それは、困る」
 
 「だから、ウチに来いって言ってる。ん〜、それか」
 
 ちらり、と藍が銀星を見た。
 
「銀星のトコで世話になって仕事はこっちでやる、でもいいけど」
「は!?」
 
 何だこの餓鬼、先程と言っている事が違うでは無いか。驚きを隠さない銀星に藍は意地の悪い笑みを浮かべた。
 
「なあ銀星。お前も言ったもんな、うち来るかって」
「いや、それはそうだけど藍」
「なーギィはどっちがいーい?銀星か、オレ」 
 聞いていない。滅茶苦茶だ。藍は銀星の事など眼中にない様で顔すら向けてくれない。急に振られたギィは、困った様に唇を歪めた。最早、ギィがどちらかを選ばなければならないのは決定事項であるらしい。可愛いを売りにしていた自称キラキラアイドルの裏の顔である。相手に伺う姿勢を見せるくせに、選択は用意してくれない。ただの外道である。
 しかし、銀星にはここで口を挟む気力はなかった。半ば諦めというか、どうにでもなれというか。振り回されるのは、いつだって変わらない。
 ギィは銀星と藍を交互に見た。そして、藍の方に身体を向ける。無機質な瞳に見つめられた藍は、いかにも面白そうに唇を吊り上げた。ギィは、静かに判断を言い渡す。
 
「藍の家は汚いと思う」
 
 沈黙が流れた。
 銀星も藍も、まさかの解答に目を点にして固まってしまう。部屋の汚さかぁ。ただの風評被害じゃねぇか。
 いの一番に吹き出したのは、やはりというか藍であった。
 
「アハハッ、ギィ、お前サイコー!」
 
 目に涙を浮かべながら藍はギィの背をバシバシ叩く。やられる側のギィは実に嫌そうな顔をした。
 銀星は気が抜けてガックリと肩を落とす。それを見たギィが不安げな表情を浮かべた。
 
「嫌?」
「えっ、いや、そうじゃないけど」
 
 藍はまだ笑っている。大きな笑い声はよく響いた。
 
「そう。……マスターはマスターだけど、銀星もボクのマスターになる?」
「いや、俺はマスターじゃないよ」
「知ってる。でも、マスターだ」
「ごめん、よく分からないんだけど」
「いいじゃん、そんな事」
 
 漸く笑いが収まった藍は銀星の肩を叩く。そしてギィに手を差し出した。
 
「じゃあ、ギィ。これからよろしくなー」
 
 ギィは差し出された手を見て、藍の顔を見た。握手、と藍が手を振ると恐る恐ると藍の手を握った。
 
「うん。よろしく?」
「ほいほい。ほら、銀星も」
 
 藍は片手ずつ銀星とギィの手を取ると引っ張って握らせた。繋がれた手を見てギィは顔を上げる。
 
「よろしく?」
「ああ、うん。まあ、いいか。よろしく、ギィ」
 
 銀星が力を込めても、ギィからは返ってこなかった。手の握り方を知らないのかもしれなかった。
 無垢な瞳は、また手と手に視線を戻し表情からは何も伺えない。ギィが選んだくせに、ちっとも嬉しそうではないのが少し気に障った。
 藍はニコニコと笑っている。銀星は、諦めたようにため息をついた。