遥かの夜空を、六等星まで

連星の瞬きに身を委ねる

 グラスを拭く作業は、趣味であるアクセサリー製作に通じる事もあって嫌いではなかった。ガラスに手が触れないよう、大きなタオルで包むようにする。力は決して入れないように、優しく優しく。特にカクテルグラスのくびれた部分は脆く、案外簡単に折れてしまうのである。スターレスにもカウンター席があった。勿論カクテルを作って提供するのはキャストなのだが、割れ物の扱いがなっていない奴等のお陰で割れたグラスは数知れず。特にヤンチャで教育がなっていない方の狂犬は酷かった。酒が飲めるようになる歳になると何も知らないくせに悠々とカウンターに付き、提供するに値しない雑なカクテルもどきを作っていた。ここはファミレスのドリンクバーではないのだ、と銀星は何度叱りつけたであろうか。どれとどれを、どの位の割合で、氷はいるのか、グラスをどうするかなど、考慮する事項は沢山あるというのにあのクソガキ。親切な銀星が説明してやろうとすると顔を顰めてめんどくせぇ、と言って逃げた時はボトルを投げつけてやろうかと思った。ケイが怖いので止めたが。
 あのクソガキ、否、ミズキはどうしているだろうか。ミズキだけではない。吉野に、ソテツに、メノウに黒曜。長い間同じ場所で、同じチームで働いてきた仲であったが、所詮は他人同士。連絡先も交換していないので、スターレスが閉店してから誰が何処で何をしているのかなど銀星には分からなかった。
 ああでも、と一人の顔を思い浮かべる。余り機会は無かったけれど、話していて気が合いそうだと思ったキャストがいる。スターレス内では珍しく原典を読んで考察するタイプで、歳下だけれど落ち着いて話す事が出来た。
 拭われたグラスは、艶めきをもって柔く照明の光を反射し、滑らかな表面に銀星の顔を僅かに写した。
 彼とは、もう少し話してみたかった、かもしれない。
 
「お疲れ様、もう上がっていいよ」
 
 不意に、背後から声がかかって銀星は肩を大きく跳ねさせた。危うくグラスから手を滑らせる所だったので、ホッと息を吐く。驚かせてごめんね、と声の主は謝った。
 
「いえ、ぼーっとしてた俺が悪いので」
「配慮が足りなかったのは僕だよ。さあ、グラスを仕舞って」
 
 素直に頷き、拭き終えたグラス達を指定の場所に並べる。
 
「お疲れ様でした」
 
 銀星は布巾を畳むと、マスターに頭を下げてロッカー室に戻った。個人的に、コスプレでよくある薄っぺらい生地ではなく、しっかりとした厚いもので出来たクラシカルな制服はかなり気に入っていた。着ている時はピンと背筋が伸びるような気になる。ステージ衣装に袖を通した時と同じだ。あの頃よりはずっと活動量の少ない仕事ではあるが、制服を脱いだ後の心地良い疲労感はあの頃と同じものに感じた。


  スターレスを去った後、銀星は小さなバーに職を置いていた。隠れ家風の、シックで何処か懐かしさを感じる、落ち着いたバーである。そこを一人で切り盛りしていた初老のマスターは、突然現れた銀星を快く受け入れてくれた。幸い、ある程度のカクテルの知識はあったので研修時に手間取る事はなかった。加えて、今までの客層は比較的年齢が高めであったのに、銀星がカウンターに立つようになると、どこから噂を聞きつけてきたのか若い女性客も増えたのだとマスターは喜んだ。相変わらず自身の容姿にとやかく口を出されるのは苦手であったが、それでもマスターは喜んでいるのでまあ良いか、と受け流した。勤務時間は前と殆ど変わらず、給料も悪くないし、店の雰囲気も気に入っている。この上ない環境で、銀星は新たな生活をスタートさせていた。
 
 扉を開けると、小さなベルがカランと音を立てる。顔に吹き込んできた空気は随分と冷たい。まだ秋の中間地点だけれど、冬が少しずつ顔を出してきているみたいで朝晩は冷える。もう少し暖かい服装を用意しなければ。それと、どうせ同居人は冬服なんて持っていないだろうから近いうちに買い物に行こう。連れて行くのも手だが、選ぶのは下手くそだからなあ。銀星が勝手に買い与えても文句は言われないだろうがそれはそれで微妙な心地だ。
 自宅近くまで来ると、午前二時を過ぎたこの頃は、人は勿論車も疎らだ。しんと静まり返った夜道に銀星の足音のみが響く。建物の電気は殆ど消えていて、ぽつぽつと間隔を開けて立つ街頭と、僅かな星、そして独りぼっちの月だけが道を照らした。
 案の定、部屋の明かりは点いていない。鍵を開けて音を立てぬように扉を開ける。そろりと靴を脱いで、抜き足差し足で廊下を歩く。同居人は野生動物並みに気配に敏感なので向こうが先に帰っていた場合かなり気を遣わねばならないのだ。
 まあ、結局その気遣いも無情に散らさる訳だが。
 パチン、とリビングの電気が点いた。銀星は何も触っていない。犯人は、言わずもがな。
 
「……ただいま」
「おかえり」
 
 苦虫を噛み潰した様な顔で銀星は振り返る。電気を点けた犯人である同居人、ギィは平然と入口に立ってた。
 
「寝てていいのに」
「目が覚めた」
「俺が帰ってきて?」
「そう」
 
 はあ、と銀星はため息をついてソファにもたれ掛かる。ギィは動く事なく突っ立ったままだ。
 
「夜は食べたのか?」
「ハスキー、えっと、藍のとこの人が」
「ああ、はいはい了解。俺は風呂入るけど、ギィは起きてる?」
「もう戻る」
 
 ブレスレット、ネックレス、ピアスを順番に外す。勤務中はアクセサリー禁止であるが、外を歩く時は必ずアクセサリーを身に付けるのが銀星の習慣となっていた。
 
「明日は何時から?」
「六時に迎えに来るって。夕方の」
「分かった。じゃあおやすみ」
「うん」
 
 頷いて奥に消えてく後頭部を見つめる。ぱたん、と扉の音が聞こえて銀星は再びため息をついた。
 元同僚であるギィと住居を共にするようになって、様々な障害が見つかったのだが今一番銀星が悩んでいるのはギィの睡眠問題である。僅かな音、例えば扉の開く音や足音に反応して何時であろうと目を覚ましてしまうのだ。夜の仕事である銀星はギィが就寝した後で帰宅する事も多い。帰ってきた銀星が何かをして音を立てると、その度に睡眠を中断しているのだ。ろくに睡眠も取れていないだろうし、音を立てぬまいと気を付けてようと忍者では無いので完璧にやり過ごす事も出来ない。また気を遣う事そのものが銀星にとってストレスになっていた。同居前からその性質については知っていたつもりでいたのだが、それにしては過敏にも程がある。今は止めさせたが、同居当初は一度起きると全ての部屋を見回って銀星の無事を確認するのだ。まるで、何か危険な事態が起きたのかのように。
 原因は分かっている。マスターの死だ。彼がギィにとってどんな存在であったのかは定かでないが、身内同然であるのは明らかだ。そんな近しい人物との別れがあって、銀星と住居を共にすることになったのだ、それに新しい職場(正しくは違うのだが、今はそう位置付けておくことにする)にも就いた。急激な環境の変化に戸惑うのも無理はない。だから、少しづつ慣れていけばいいと銀星は思っていた。時間が解決してくれるだろうと。
 そういった意味で、銀星はギィよりも大人であった。慕っていた三樹夫妻、絶対の服従を誓ったケイに置いていかれたというのに、銀星はすっかり生活を取り戻している。諦め、というコマンドを選択する事でいかに自分が楽になれるかを知っていたからだ。無いものは無い。仕方が無い。昔を思い出す度に、案外自分も薄情な奴であるのだな、確認しては笑った。
 立ち上がり、風呂場に向かう。途中、ギィの部屋の前を通ったが、もう出て来ない。起きているか寝ているかは銀星には計り知れぬ事であった。
 風呂から上がると、時刻はもう四時近い。ギィは明日夕方からと言っていたので、昼頃までしっかり眠れるだろう。ベッドに入り、銀星は目を閉じた。
 


  
「銀星、銀星」
 
 名を呼ばれている。そして体も揺すられている。縋る様な声色に、不審を感じて銀星は起き上がった。
 
「なに、ギィ」
 
 銀星が寝起きが悪いタイプではないので、起こされたら素直に起きる事が出来る人間だ。機嫌が悪くなる事もない。
 
「藍が来てる」
 
 枕元に置いたスマートフォンの画面を表示させる。午前七時。
 
「……ふざけるなよ」

 しかし怒る時は怒るのである。


「おお〜、寝起きからイケメンとか羨ましすぎィ」
「何しに来たんだよ……」
 
 不機嫌さを微塵も隠さぬ銀星に、藍は一切臆する事なくケタケタと笑う。ド派手なジャケットと、ジャラジャラとした趣味の悪いアクセサリー類は相変わらずだ。しかし珍しく蛍光オレンジのリュックを背負っている。
 
「まあまあ、客人みたくもてなさなくていいからさ、ちょっと仕事帰りに寄っただけ」
「あっそ。じゃあ帰れ」
「ええ〜!? 何でぇ? そんな酷い事言う奴やったんかお前」
 
 藍は、確実にこちらが苛立つと分かってやっている。此方が怒りを見せた所で愉しげに笑うのは目に見えて分かっていた。そして、かなりしつこい。相手が折れるまで止めない。
 銀星は息を吸って拳を握り締める。
 落ち着け、俺。下手に絡むと更に面倒だから。
 
「銀星、藍」
 
 後ろからギィの不審げな声がする。銀星は諦めた。
 
「中、荒らすなよ」
「やったー!」
 
 ギィに藍をリビングに案内するように指示し、銀星は洗面所に向かう。客人扱いしなくても良いと言ったのは向こうだ。身支度が整うまで精々待つがいい。
 鏡に映る自分は、少し疲れていて薄らと隈が出来ていた。シャワーを浴び、髭を剃って、着替える。仕事に出かけるまでの時間はたっぷりあるのでラフな格好で良い。髪をセットするのも面倒だったから止めた。最後に口を濯いでリビングに戻ると、テレビ前のローテーブルで向かい合って床に座る二人はもそもそと朝食用のパンを食べていた。ご丁寧にオレンジジュースもコップに注いで。
 先に銀製に気付いたギィが顔を上げる。それに倣って振り返った藍はにっこりと笑った。
 
「おはよー銀星。なあなあ、このパン賞味期限過ぎてる」
「賞味だからいいだろ別に」
 
 返すのも面倒になる銀星は適当にあしらい、ペットボトルの炭酸水を冷蔵庫から取り出す。ギィの隣に座り、それで、と話を切り出した。
 
「何しに来たんだよ。何か理由はあるだろ」
 
 無心でパンを食べるギィの、口の端にパンくずが付いている。取ってやろうか声をかけるか迷って、結局パンくずはギィの服の上に落ちた。
 
「そうそう。結構大事な用事」
 
 口振りは随分と軽い。藍はソファの上に置かれたリュックから大きめの封筒を取り出した。そして銀星に手渡す。
 
「俺が開けろって?」

 振ってみるとカサカサと音を立てる。手帳のようなものだろうか。生憎、手元に鋏やカッターナイフが無いので手で破る。
 
「……これ」
「そ。作った。ギィの保険証と、口座。ああ、勿論戸籍も弄っていい感じにしておいたから安心してな」
 
 銀星は絶句して、手元の通帳と藍の顔を視線が行き来する。
 
「部下の生活の保証は上司の仕事やからな」
 
 藍は誇らし気に言うが、そんな場合ではない。
 いつ、何処で、どうやって、何をしたのか、聞きたい事は山程あったが聞くのは憚られた。
 袋から出された保険証に目を落とす。一般的なカードだ。銀星も同じものを持っている。一つ一つの項目を確かめる様に字を辿る。平山淳一。平成十二年六月九日生まれ。男。口座の通帳にも、同じ名前が刻まれていた。
 あっけらかんとして藍は口を開く。
 
「ちょーど良く同じ年に生まれた奴がいたからそのまま貰った。いい名前やろ、ヒラヤマジュンイチ」
「それは誰?」
 
 ギィが銀星の袖を引く。
 
「ギィの事。今日からギィはヒラヤマジュンイチやからな」
「いや、ボクはギィだ」
「そうなんやけど、書類上の話。だから病院で看護師さんに平山さ〜んって呼ばれたらギィは返事するってこと」
 
 分かったか、と藍は子供に言い聞かせるような口調でギィを見る。ギィはん、と分かっているのか分かっていないのか曖昧な表情で小さく頷いた。これは多分納得していない顔である。
 それだけだから、と言って藍は立ち上がった。
 
「じゃあな銀星。ギィはまた夕方」
 
 見送ることはしなかった。だって客人ではないのだから。
 遠くで扉が閉まる音を聞いた。ギィは銀星の隣で膝を抱えて座っている。頭を膝に預けてこちらを向いたギィが口を開いた。
 
「もう一度寝る?」
「いや、目が覚めた。もう少ししたら買い物に行くよ。ギィは家にいるのか?」
「散歩してくる」
 
 ギィが散歩が趣味である、と知ったのはつい最近の事だ。家にいる間はリビングでぼんやりしているか、自室に引きこもっているか。ちなみにギィの自室にはベッドしか置かれていないので恐らく眠っているかぼんやりする場所が変わっただけである。テレビ番組にも銀星の所持する本にも興味を示さず、家にいる時間何もする事がないギィの唯一の趣味と言ってもよいのが散歩であった。長い時は朝から日暮れまでずっと、ふらふらと歩いているらしい。偶に、猫がいただの犬がいただの話してくれるが、具体的な目的地はないようである。景色を見るのが楽しいのか、はたまた足を動かしているのが楽しいのか。訊ねてみたところ、「常に周りを注意深く観察する癖をつけなさいって」、と例のマスターに言われたらしかった。銀星は渋い顔をした。
 結局、銀星はマスターという男の存在について何の情報も得ていない。そもそも本当にマスターがいるとは思っていなかった為に、衝撃を通り過ぎて何も思わない、の方が正しい。藍には、これから巻き込まれるもと半分脅しのような事を言われたが、あのお調子者の法螺吹きの言う事である。その時はその時で藍にきっちり責任を取ってもらうつもりでいた。伊達にアングラ店で働いてきたのだ、如何に上手く生きるかを知らぬ程の子供ではない。長い物には巻かれるし、薮はつつかない。藍の実家の事も、そこでギィが何をしているかも、銀星が生きていく上で知らねばならぬ事項ではないのだから。
 その日、ギィは帰ってこなかった。藍の所で夜を過ごすとの連絡を受けて、それじゃあ今日はギィの睡眠を途切れされる事はないのだと安堵した。
 
 
 
 藍は、三日に一回の頻度で銀星とギィの住み所に顔を出すようになった。通い過ぎである。ギィが帰る時に一緒に来たり、ギィと入れ違いでやって来たりやりたい放題。銀星もギィも居ない時に勝手に入ってテレビを見ていた時は通報してやろうかと思った。ちなみに合鍵は渡していないので、侵入手段は言わずもがなである。
 今日も、藍は我が物顔でリビングのソファに身を沈めていた。ぎんせェ、と不意に藍が呼ぶ。キッチンで作業していた銀星が振り向くと、ソファに頭を預け逆さになった状態の藍と目が合った。

「なに」 
「腹減ったァ」
「知らん。コンビニ行ってこい」
 
 ええ、と拗ねた声に背を向けて銀星はシンクの水垢をメラニンスポンジで擦る。中々手強い物で、かなり力を加えなければ取れないが地道な作業は嫌いでなかった。
 どん、と背中に小さくはない衝撃が与えられた。銀星の肩口から顔を覗かせた藍は、銀星の手元を見てうげ、と顔を顰める。
 
「それ面倒くさくね?」 
「別に。俺にとっては苦じゃないよ」
 
 オレにはムリ〜、と藍は銀星の腰に手を回してフラフラと左右に揺れる。手元が狂うので正直邪魔であったが、剥がすのも面倒でそのままにしておくと、新しいスポンジを取り出して隣でシンクを磨き始めた。
 
「クエン酸液とか作ればいいのに。レモン汁でも出来るし」
「俺の勝手だろ」
「銀星、わざわざ面倒臭い事する自分イケてるって思うタイプだもんなー」
「言ってろ」
 
 二人の身長は大して変わらないので、横に目を向けると直ぐそこに藍の顔がある。ツンと尖った鼻先から微かな音色が零れていた。
 藍と言えば、スターレス内では最年少で、年少故の無邪気さ、快活さ、大胆さを売りにしていたキャストである。但し、それはあくまて客の前での話であって。面の皮を一枚捲ったならたちまち顕になる暴力性と狡猾さ。喧嘩を見掛けたら赤の他人であろうと乱入し全員に拳を叩き込むし、力で解決するのが一番手っ取り早く分かりやすいという思想。自分が楽しければ何でもいいし、荒れたら荒れるだけ面白い。四方八方に敵を作っていても可笑しくない言動だって多々あったのだが、しかし、藍は生きるのが誰より上手かった。相手の懐にするりと入り、それでも一線は弁える。誰に対しても適度な距離を保ち、たとえ相手を不快な気分にさせたとしても"此奴だから仕方無い"と思わせてしまう。ミズキ程の粗暴さはなく、真珠程の純真さもなく、玻璃程の堅苦しさもなく、ギィ程の不明瞭さはない、ありとあらゆる項目において"丁度いい"を演出する事に長けた藍は誰よりも穏やかな人間関係を構築した。家柄の不穏さや本人の過激性を容認する気はないが、それを覆す位の共に居る時間の心地良さを銀星は感じていた。
 よくミズキとセットで騒いでいる、と言われていた藍だが、まさに自分もかつてはそう思っていて苦手意識を抱いていたのだが、案外そんな事はなくて、ミズキも、藍も、静かな時は静かだし、騒ぐ時が煩いだけで寧ろ大人しくしている方が多いのだ。
 ふんふん、と上機嫌になった藍はシンクを擦る。楽しくなってきたのだろうか、先の発言を取り消して貰いたいものであるが。
 
「なー銀星」
「なに」
「今日泊まっていってもいい?」
「好きにしろよ。ってか、今更聞くなよ。あれだけ好き放題しておいて」
 
 手を止めずに銀星が応えると藍は肩を揺らして笑った。
 
「銀星たち朝は何観る?」
「ZIP」
「オレが泊まる時はめざましテレビにしてな、天気だけでもいいから」
「何でだよ」
「オレの一日はカヤチャンを見て始まるから」
「あっそ」
 
 
 
 銀星とギィの共同生活は相変わらずで、偶に藍が侵入しても殆ど変わらなかった。唯一変わった事といえば、ギィが水垢取りにハマった事だろうか。ギィがフリーの日の予定に、散歩と睡眠と水垢取りが加わった。お陰で我が家のシンクと鏡はピカピカである。
 眠りが浅いのもいつも通りで、今日も銀星の帰宅と共にギィは自室から姿を現した。
 アクセサリーたちを片付けながら銀星は声を掛ける。
 
「早く寝ろよ」
 
 しかし、返事はない。不思議に思い振り向くと、ギィはリビングから出て廊下に立っている。その視線は、玄関に向けられていた。
 
「ギィ?」
 
 ギィは応えない。
 只事ではない何かを感じ、銀星がギィに向かって足を進める。隣に立って同じ様に玄関に目を向けたその時、鍵を閉めた筈の扉が勢いよく開けられた。
 
「っギィ!?」
 
 瞬間、ギィは銀星を思い切り突き飛ばしてリビングの扉を閉めた。突然の事に反応出来ない銀星は派手に尻餅をついて呆然とする。しかし、すぐに気を取り直して立ち上がり、扉に手を掛けた所で、何かが思い切りぶつかり合う音がして硬直する。その奥で、何かを言っている声がするが言葉として認識出来ない。
 何が、どうなっているのか、銀星には全く分からず、早く扉を開けて確認しなければならないのに腕はカタカタと勝手に震え出すばかり。そうしている間にも物音は絶えず続く。冷たい汗が頬を伝う。自身の荒い呼吸が煩かった。
 銀星にとってその時間はとても長く感じたのだけれど、実際には五分もしない短い間で。リビングの扉は躊躇無く開かれた。
 
「わ、銀星大丈夫か〜?」
 ひょっこり顔を出したのは藍で、銀星は口を開けて固まってしまう。その後ろからいつも通り無表情なギィも姿を現した。
 二人の顔を行ったり来たり見やる銀星は、双方の頬が赤く晴れている事に気が付く。
 
「は、え? 藍……って何してるんだよお前ら、か、顔」
 
 あはは、と藍は笑って銀星の背後に周り脇の下に腕を回す。
 
「腰抜けてんじゃん、カワイー」
「いや、そうじゃないし何なんだよもう」 
 
 しかし動けないのは事実なので、藍に立たせてもらった銀星は再び頬の怪我について問う。答えたのはギィだった。
 
「ボクが間違えた。そうしたら藍に起こされた」
 
 自ら説明したのは進歩だが、イマイチ要領を得ぬ言い方であったので藍に視線をやる。
 
「ギィがオレの事敵だと思っちゃっただけやで」
「敵だと思ったって……」
 
 訳が分からない、と言った銀星の事は気にもかけず、藍は「早くオレの足音覚えて」とギィに言った。素直に頷くギィに、銀星はまたも眉を顰めた。
 
「藍は何しに来たんだよ、こんな時間に」
「あっ、ちょっと待って、玄関置きっぱや!」
 
 相変わらずバタバタと忙しない。
 状況は何も分からないが、恐らくちゃんと話す気は藍にないのだろう。銀星がするべき事は流される事であった。唯一心配なのは、かなりの音がしたので翌日苦情が入らないかどうかである。
 藍は直ぐに戻ってきた。その手に大きな袋を抱えている。
 
「じゃじゃーん、これ、ギィにプレゼント」
 
 袋を渡されたギィは困惑した様子で藍を見る。開けて、と弾んだ声に促されてそっと包みを開くと、ふんわりとしたまるっこい物が顔を出した。 
「……これ」
「めっちゃギィに似てない?」
 
 現れたのはクマのぬいぐるみであった。かなり大きく、ギィが抱えるとその大きさは顕著に目立った。潰れた瞳と、小さな口。麦藁色は確かにギィの髪色を彷彿とさせ、似ている、と言われれば似ていると思った。
 
「……これを渡しに?」
 
 恐る恐る銀星が問う。だって、現在の時刻は午前三時を回った頃。一般的に誰もが眠りに着いている時間であって、たとえ銀星が夜の仕事をしていたとしても、人の家を訪ねるには非常識としか言いようのない時間である。しかも、再度示しておくが藍に合鍵は渡していないのでつまり、普通であれば家の人間が眠っている間に家に入ってくると言う事で。
 
「そうやけど」
 
 何か問題でも、と全く自覚のない藍に銀星は大きく肩を落とした。そうだ、そうだ、此奴に常識と遠慮、配慮はない。
 
「どうして?」
 
 ギィが藍に問うた。
 
「どうしてって……渡したくなったから?」
「……ボクは何もしてない」
「別に報酬とかじゃないよ。フツーにプレゼントだって。納得出来ないならさ、誕生日プレゼントとでも思って」
「誕生日って……」
 
 確かにギィの誕生日は秋であるけれど。
 ただ渡したいから渡す、という感覚がギィには分からないのだろう。何かを得るにはそれ相応の対価が必要であって、例えば仕事と同じで労働の分お金が貰えるように。藍がギィに示したのはただの自己満足であって厚意であって。ギィにとっては今までに経験のない事柄である。
 
「ボクの誕生日?」
「そ。たんじょーび。だから貰うの」
「誕生日だから?」
「生まれてきてくれてありがと〜的な感じのやつ」
 
 んん、とギィは眉を顰めた。よく分からない、時の顔である。見かねた銀星は助け舟を出してやった。

「とりあえず貰っとけよ、ギィ」
「分かった」
 
 渋々といった風にギィは頷く。頭の後ろで手を組んだ藍が笑った。

「覚えとけよ、ギィ。人間は毎日生まれてきて何日目記念日だからいつだってプレゼント貰えるって」
 
 かなり滅茶苦茶な論理である。
 それに、と藍は続ける。
 
「コイツ抱っこして寝とけばよく寝れるやろ」

 ギィが夜起きてくる、という問題を銀星はしばしば藍に零していたが、中々にファンタジーな方策を出された。いや、流石にギィもそこまで子供ではないのだが、と思う銀星を横目に藍は無邪気に続ける。
 
「名前つけようぜ」
「名前?」
「ギィの好きに決めていいから」
「ん……銀星」
「俺に振るなよ」
 
 じゃあ藍、と視線を向けたギィは名前を付ける気がないようである。
 
「えー、ギィが決めんと意味無いのに」
 
 しかし藍はぐるり、と部屋を見渡してパン、と手を叩いた。
 
「じゃあボブ」
「分かった。ボブ」
 
 なにが"じゃあ"なのか、どこからボブが降ってきたのかは触れないでおく事にした。実は忘れられているが銀星は仕事から帰ってきたばかりで、今すぐにシャワーを浴びたいのである。
 
「この家にいる間はボブが二人を守るから肌身離さず持ってるんやで、ギィ」
「分かった」
 
 絶対何も分かってない。絶対に。
 
 
 
 ギィは本当に藍の言い付け通りボブを持ち歩くようになった。そして何とギィが夜中に起きて来る事がなくなったのである。ボブ様々であった。何がどう作用してそうなったのかは分からないが、少し考えるとギィにとってあの家が安全地帯と見なされたのではないだろうか。彼の事情を勝手に想像すると有り得ない話ではないのだろう。僅かな物音で目を覚まし周囲を見回る様はまさに番犬、若しくは城の守り番。一応ギィの中で次期マスターは銀星なのだから、マスターを守る精神が働いていたのかもしれない。それが、ボブという絶対的存在により覆されギィに安寧が訪れたとさ。馬鹿野郎。とんだクソガバ考察である。となりのトトロでメイは既に死んでいる説位に酷い。誰だあの都市伝説を作り出した奴は。晒し首にしてやる。銀星は宮崎駿ガチ勢であった。
 シフトが無くてもミーティングやらレッスンやらでまともな休日の無かったスターレスとは違い、今の職場はきちんと定休日がある。久々に、と都会に出向き色々買い物をした銀星は最早習性、といっても過言でなく本屋に足を踏み入れた。
 好きな作家の新刊や、まだ見ぬ出会いを探して店内をふらついていると、ふと子供向けの、絵本コーナーで足を止める。
 あかいくつ、と題された表紙には金髪の女の子のイラスト。厚い紙を捲ると、幼児向けにかなり表現がマイルドになった物語が綴られており懐かしい気持ちになる。
 三木夫妻と岩水オーナーが仕切っていた時代、チームという概念が無かった頃に組まれ脚本があった。一時はお蔵入りになっていたが、キャストもチームも増えた頃に復活させても良いのではと話していた記憶がある。今のPなら、メノウがいるから、そしてマイカの歌なら出来るのでは、と。
 え、と呆けた声が銀星の耳に届いた。
 それは見知らぬ誰かの独り言なのに、何故か銀星は顔を上げて声の主を探す。
 
「……うそ」
 
 大学生とスターレスのキャストの二つを両立させる位には器用で要領が良い奴。陽キャだけど気遣う気持ちや考える頭を持っていて、それでも何かが足りなくて飢えていた印象がある。
 スーツもネクタイも、全然似合ってないなあ、と思った。

 「や、やあ」
 
 頬を引き攣らせながらも銀星は何とか笑って片手を挙げた。相手も、同じく何処か気まずそうに頬を掻く。
 カラカラに乾いた喉で、銀星はその名を呼んだ。