海を揺蕩うのは白い大きな帆。処女航海を迎えたばかりの美しい船体は炎に包まれている。中心点から船首へはもうその殆が青に飲み込まれていた。
全てが終わりだ。十四を迎え、戦争が始まる前にトロイアから嫁に出す。この婚姻はクレタ島の豪族をギリシア側から寝返らせ、補給路と海岸の安全を担保するための何よりの手段のはずだった。それなのに。ミケーネとスパルタの連合軍がこんなにも早く海を越えていたなんて。船の両側から男たちの雄叫びが聞こえる。わたしは船体にしがみつき、矢を受けて亡くなった幼き頃からの侍女の肉体が海へと落ちていくのを見送るしかなかった。
「姫様、どうか、力の限り陸まで泳いで、ヘクトルさまのとこ、ッガ、!?」
____あぁ、まただ。
若き衛兵の後頭部に当たったのは弓かそれとも青銅の斧か、考えたくもない。わたしの頬を落ちていく涙の筋はもうとうに乾いている。彼の身体がまだ震えているというのに、わたしたちの…誇り高きトロイアの嫁入りの船に、海を越えた西のギリシア人たちが乗り込んでくる。
「兄上、兄上、あぁ、わたくしは…」
敵の男に捕まれば女がどうなるかなど理解している。それでも胸元にある小さな短剣を抜くには、わたしは臆病過ぎた。海のど真ん中で殺意に満ちた男達に船ごと沈められるなんて想像したこともなかった。
「……………おい」
俯くわたしの視線が、真っ暗な鎧で遮られた。他の兵たちとは明らかに違う。その男は並の男たちの頭一つ分以上も大きく、肉体の厚みも凄まじく感じた。羽根飾りも、胸当ても、脛当ても、何もかもが絶望の黒だった。
それは、戦争そのもののように見えた。
兜の影になり、瞳は見えない。
不気味な男の唇が動く。
「お前が行くべき場所は、もうない」
あぁ、アポロンよ。この男を、この一族を、末代まで呪ってください。
2026/10/19