二つの人生

あれから3年が経って、俺はまだ1人。

「ボス、レフ板のデカいやつって何処にあるか知ってる?」
「んーー、その辺だろ」
「それが分かんねぇって言ってんじゃん、使えねーなーウチのボスは。あーあ、Bethが居たらなぁ〜〜〜ちゃんとボスが真面目に仕事してくれるのにな〜〜」
「うるせぇ、殺すぞ」
「こっわ」

俺は、脱ぐ仕事をやめたんだ。

「あったあった、はいはい、ここ、セットしておくから。メシ食ったら撮影ね」
「んーーー」

とは言っても、まだカメラの前。何をして稼いでるかって?まぁ、アレだ。インフルエンサーってやつ。何度でも言うけど俺は見た目が良いから。三十になって少し大人の色気というものの出し方を学んだ俺はソーシャルメディアの中で、自分の立ち位置を確立させることに成功した。ポルノを引退して、モデルの真似事をしたりちょっと洒落てるメンズファッションのPRをしたり。そういうことを繰り返していくうちにいつしか俺のInstagramやTiktokはかつての【Beth】を軽く越える規模のフォロワー数を獲得して。それがメインの収入源。高級ヴィラが水面に浮かぶような場所へ旅行したり、鳥みてぇなハイブランドの新作コートを素肌に着る写真を小綺麗に撮って投稿するのさ。今や世界はインターネットの中にある。信じられるか?全裸晒してた頃よりも金稼いでるんだぜ?すげぇ時代だよな。

カメラマンやマネジメントスタッフとして数人の若い同業者を引き抜き、タイムスケジュールに縛られない仕事をして気ままに生きている。

「あ、そうそうボス。俺さ、久しぶりに女の子からボスの脱ぐ仕事が見たいって頼まれたんだけどさ」
「今メシ食ってる。それにな?その話は二度としねぇつったろ」
「ごめんごめん。でもさ、本気でもう一回チャレンジしないの?今ならフォロワーも多いし、アダルトサブスク復活させたら大儲けじゃね?」
「………やんねぇよ、もう。もう二度と好きでもない女抱くような仕事はしねぇ」

テイクアウトで買ってきたサーモンベーグルを口に詰め込みつつ部下に告げるとそいつは泣き真似をしながら俺に纏わりついてきた。あつ。

「なんで?やっぱりBethのことが忘れられない?そりゃそうだよな!!ボス!!毎晩ハリウッド女優抱いてたらそりゃあどんな女の子見ても満足なんて出来なくな、イテッ」
「食事中だっつってんだろ、次は本気で蹴り飛ばすぞ、ボケ。Bethとか満足とかそういう問題じゃねぇ。なんつーか……愛が欲しくなったんだ。俺も年ってことだな」

愛。

半分嘘で、半分本当の答え。

あの日エリザベスは全ての記憶を突然取り戻して俺の前から消えた。本来の燃える雌獅子と蛇の心を思い出し、おそらく憎いプロデューサーに復讐をした。その後は表舞台から身を引き今は何処にいるのかすら分からない。

「………いや、愛なんて本当は要らなかったのかもな」
「……どういうこと?俺馬鹿だから分かんねぇよ、ボス」

俺は生まれ変わって、文字通りのゼロ歳児から人生をやり直すことになった。全て覚えているのに小便すら自力で出来ない地獄の乳幼児期には、ひたすら状況を整理するために…あるいはこっちの現実から目を逸らすために、前世の記憶を何度も振り返ってた。自分が死んだことを受け入れ、魔法が存在しない世界で平民として生きていくことへの違和感を拭い去るには時間が必要だったが、それでも片手を超える年齢になった時にはもうこの世界で生きる覚悟は出来てたんだ。

でもあいつは違う。二十七年も生きてきて辛い事もあって、ようやくそれを乗り越えて。居心地の良いセフレみたいなもんだけどさ、俺を拠り所にしようとしてた矢先に思い出したんだ。自分がいた世界__自分が置いてきた世界を。

自分には愛する夫がいた。自分には愛する娘がいた。自分は魔法使いだった。多くの敵と戦い多くの友人と笑い合った。そして自分は死んだ__そんなことを一瞬で受け入れられるかって?いや、数年は必要さ。それに唯一同じように生まれ変わってるのが大して仲良くもない俺なんだ。エリザベスは混乱して当然に決まってる。

俺が彼女だったら?愛した男がいるのに違う男とセックスしてたって罪悪感で死にたくなるだろうな。それにまだ幼い娘を残して死んだことに対する絶望感。あとは、この世界で本当の自分を知っている人が居ないって寂しさ。

「……あいつが、全てを取り戻した時。俺はもう隣にはいられないだろうなって最初から思ってたんだよな」
「…………ボス?」
「俺はあいつが小さい頃から愛した賢い旦那じゃないし。むしろ傷付けて歪み合ってた仲だし。世界にたった一人、自分と同じ境遇なのがそんなカス野郎でさ。でもそれで良いよ、もう。俺は隣にいなくていい。生きてさえいてくれれば良い。俺はただ、少しの間……夢を見てただけだ」
「………………ボス、」

なんで、何も知らない奴に俺は語ってんだろうな。アイスコーヒーのカップを握ると手のひらに冷たい水滴の感触。もう何十年も前。初めてアズカバンに収監された時のことを思い出す。牢の隙間から吹き荒ぶ雨が入ってくる独房で、伸びていく髪と髭がずぶ濡れになるのも構わずに目を閉じて美しい女を思い出しては虚無感に苛まれたあの瞬間を。そう、あの時とは違うんだ。ムショ暮らしでもなく犯罪者でもない、そこそこ金を持ってるインターネットの中の有名人として不自由なく生きていけるんだ。だから普通に暮らしてたらいいのさ。恋人がいなくても、愛する人に嫌われても、何も変わらない。

ただ、エリザベスが、生きていたら。

俺はそれ以上を望まない。

「ボス。俺はさ、あんたがBethと何か深い関係にあって、今はもう一緒にいないってことしか知らねぇけど」
「…………」

砂糖なんて入ってないブラックコーヒーが喉を過ぎ去り、何処かで鳥が美しく囀るだけの静かな空間で俺の部下は間抜けな顔でこう告げた。

「あんたの愛は、本物だよ」
「……………だろうな」

いつかエリザベスの寝室から勝手に借りた女物のフリルがたっぷりあしらわれたシュシュで髪を纏めながら立ち上がる。俺は彼女を愛していた。素直じゃなくて綺麗じゃなくて決して受け入れてもらえない形の愛だったけどそれでも愛していた。そしてその愛を持ったまま次の人生でも彼女を愛している。何がそんなに良いのかって?知らね、全部だよ。

「もう二度とあいつの話はすんなよ、次Bethってその口から言ってみろ、お前はクビだ」
「え〜〜〜俺だって知りたいのに〜〜!ね、ね、偶然会っただけってマジなの?一緒に住んでたの?実は結婚してたとかじゃないの?」
「はい、クビな。求人アプリダウンロードしとけよ」
「なんだよー、数万人に全裸知られてんのに元カノの話は出来ねぇのかよー、本当にピュアっピュアじゃん、清純かよ」
「俺はピュアだって言ってんだろ、あと元カノじゃねぇ」
「セックスはしてたのに?全国民が知ってるよ、パパラッチに撮られた時のあんたの目の優しいこと優しいこと……あ、火ちょーだい…ちょっ、まっ、ボス、燃やさないでよ!!!」

くっだらねぇな。でも、悪くない。のらりくらしとした行き当たりばったりな人生でも意外と楽しいんだぜ?波長の合う仲間と、9時-17時に縛られない労働スタイル。愛する女が居なくても俺は生きていける。騒がしい野郎と一緒に煙を吸いながら笑った時だった。

ピポ、と俺のスマホの通知音が鳴る。ロック画面は未だに俺とあいつのセルフィー。これもそろそろ変えねぇとな、と思いつつ通知を無感情に開いた。



時間がある時に、ホグワーツに来て。大イカの湖で待ってる。



心臓が止まるかと思った。

エリザベス。

三年ぶりに連絡が来たってのに季節の挨拶も現状報告も俺への気遣いもねぇ。まぁ、俺達の間にそんなものが存在したことなんて無かったもんな。

添付されているのは何かの動画サイトのリンクだった。限定公開か。タップしてさらに驚愕する。なっが!!二時間半って何だよ。俺は黙ってスマホをポケットに戻すともう一度深く肺に煙を入れた。

帰ったら、見るか。

で、それが何であれ、スーツケースとパスポートの準備をしないとな。






ジャスミンという女がいた。彼女はとても美しく、だが同時に平凡でもあり、街の小さな小さな花屋を経営している。ジャスミンにはボーイフレンド、マックスもいる。陽気で明るく少し馬鹿だがジャスミンのことを愛している。彼女は毎日幸せだった。

だがあるときジャスミンは階段から落ちて頭を打った。目を覚ました時、ジャスミンはジャスミンではなくなっていた。いや、彼女は彼女のままではあるが、ジャスミンはジャスミンというひとつの人生だけではないものを知ってしまった。それは彼女の前世だ。ジャスミンは前の世で「デイジー」という名前だったことを思い出した。そしてデイジーには夫がおり、彼との間に娘がいたことも。全て、思い出した。

デイジーはある日、買い物帰りに地元の不良グループに陵辱された挙句に殺された。ジャスミンは自分の前の人生を知り、病院のベッドで自分の細い肩を抱いて泣いた。だがそこで今のボーイフレンド、マックスがやってくる。マックスはジャスミンを気遣うが今のジャスミンはジャスミンではなかった。ジャスミンはデイジーとしての自分の一生のことしか考えられなくなった。

ジャスミンはマックスを拒絶した。

階段から落ちたガールフレンドに突如拒絶されはじめたマックスは狼狽える。ハグもキスも、全て拒まれた。彼は次第にジャスミンの元を離れていった。

ジャスミンは退院し元の花屋としての生活を始めたが、頭の中にあるのはデイジーとしての一生のことだけ。デイジーが愛した男のことを忘れられず、デイジーが腹を痛めて産んだ今は存在しない我が子を恋しがって、デイジーを辱めた男たちに憎しみと怒りを燃やす日々。ジャスミンはもうデイジーという一生を終えたにも関わらず、その記憶から抜け出せない。ジャスミンは段々と社会から関わりを減らしていった。花屋の営業時間が短くなり、休日は夜も朝も昼もベッドの中でかつての夫の名前を呼んだ。ある日には誕生日ケーキを作り、前の世で産んだ娘の為にロウソクも立てた。だが部屋には誰もいない。今、何歳になったのかも分からない娘の姿はなく、無音で揺れる誕生日ケーキのロウソクとそれを眺めている贈り物のくまのぬいぐるみだけ。

ジャスミンはデイジーとしての人生の記憶を取り戻して、ジャスミンとしての人生を失った。

ひっくり返されてぐちゃぐちゃになる誕生日ケーキ、小さな部屋に響く女の絶叫。ジャスミンは本来持ち得ない夫や娘の記憶に苛まれ、膝を抱えて泣いた。孤独に押し潰されそうになり、何度彼らの名前を呼んでも。この世界に夫も娘も存在しない。誰もがデイジーという存在を知らない世界。デイジーという女が生きた証を知っているのはジャスミンだけ。ジャスミンはデイジーとは違うのに、ジャスミンは優しい灰色の目の夫とまるい頬の赤子のぬくもりが忘れられない。啜り泣く彼女を慰めるように、くまのぬいぐるみが寂しそうな顔でリビングのテーブルの上に腰掛けていた。


ジャスミンは決意した。

彼女はひたすらに山道を歩いている。何日も眠れなかったのか目の下は青紫色だ。陰鬱な彼女の顔とは裏腹に空は澄み渡り、美しい声で歌い鳥が鳴いている。ジャスミンは一言も発さない。やがて彼女は大きな木の下で立ち止まるとリュックの中から太いロープを取り出した。くるりと一周分、頭が入る大きさの輪が結ばれている。彼女は迷いなく木の少し高い枝にロープの輪の反対部分を固く結び付けると輪の部分に頭を通した。白い首に巻き付くロープ。

ジャスミンの琥珀色の瞳から涙は一粒たりとも流れない。この世界に絶望した彼女はもうジャスミンとして生きることを諦めている。そうして彼女は木の幹によじ登るようにしていた脚を離し、重力に自分自身の首を委ねた。

はずだった。

数秒間、彼女はもがき苦しんだ。だが大木は老いていたらしい。ロープを支えていたはずの太めの枝が根元から折れてジャスミンは地面に投げ出される。鈍い音と取り繕わない苦しそうな噎せる女の呼吸音。じたばたと藻掻く白い指先は本能のままにロープを首から外した。どうして死なせてくれないんだ、私は疲れた、とジャスミンは叫ぶ。落ち葉と土まみれのやつれたジャスミンは癇癪を起こしたように地面を叩く。

と、その時。風が枝を揺らし、爽やかな日光が木漏れ日となってジャスミンの倒れる大木の根元に降り注いだ。そこに在るのは小さな白い二つの花。

ジャスミンと、デイジー。

花屋を営む彼女がその二つを知らないはずはない。ジャスミンとデイジーの花は絡まり合うように咲いていた。全く違う種の花がひとつになるように葉や茎を絡ませ合って生きている。

ジャスミンの瞳の中でこの瞬間にふたつの人生が、ひとつになる。

片方を捨て去ることなど出来ない。

それでも別々の生命はまるで初めからそうであるかのように一つになって空へ空へと花弁を向けていた。

大きな琥珀色の瞳は花を無言で見詰めたあと、ゆっくりと立ち上がった。そしてその瞳は澄み渡った大空を見上げて何度か瞬きする。

ジャスミンの唇が、動いた。

呟いたのは彼女の娘の名前だろう。前世で残してきた娘の名前。

琥珀が涙に濡れていく。土で汚れても、たった今生きようと決心した女の瞳はとても美しかった。

ふらつく足で一歩ずつ。ゆっくりと、ゆっくりと。腐葉土と時折生える苔や背の低い緑を踏み締めながらジャスミンは来た道を戻っていく。

絡まり合う二つの花が映し出されて、エンドロールが流れた。



全てのスタッフと携わったプロダクションやカンパニーの名が下から上へと消えて、もう一度世界に明るさか戻る。どうやらそこは小さな喫茶店らしい。まだ朝早いのかCLOSEDのプレートがぶら下がっていた。黒髪の美しい女は緊張した面持ちで髪を手櫛で整えたりカーディガンについたホコリが無いかを確認したりと落ち着きが無い。一通り扉の前で百面相をしたあと、彼女は勇気を出してその喫茶店の扉を開いた。

そして、カウンターの奥でグラスを磨く男の背中に向かって声を掛けるべく、唇を開く。



我が友、マックスに捧ぐ

一言、そう、文字が映し出されて。

映画は、終わった。


その女は琥珀の瞳で演技する。怒りも寂しさも、生きようとする小さな決意も。全てが甘い飴玉のような澄んだ瞳に込められている。