「……でも分かったでしょ?」
何も無い湖の傍に小さなテント。焚き火の光に整った横顔を照らされながら、愛しい女は小さく笑った。
エディンバラに到着したのは一昨日。ホグワーツがあったであろう場所を必死に考えたり地元民に聞き込んだりしたのが昨日。エリザベスの指定した場所はホグワーツ、大イカの湖。
Googleマップでハイランドの湖を上から眺めて、あの世界でホグワーツが立っていたであろう場所を推測した。だってな?ホグワーツは魔法があったあの世界だからこそ建ってる建物なんだ。魔法が存在しない___少なくとも俺には感知出来ない世の中で、ホグワーツが以前の姿で建てられてるワケが無い。最悪の場合エリザベスを見付けられず野宿になることも覚悟して寝袋と食料をデカい登山用みてぇなリュックサックに詰め込んでさ、タクシーでハイランドの山奥に来たってわけだ。ある程度の場所で下ろしてもらって数時間同じ場所をぐるぐる迷ってた。でも夜になったら空に煙が上がってて。
それを目印に疲れ切った身体に鞭打って歩くと大きめの焚き火の横にあいつがいたんだ。
言葉なんて無くてハグをして。数分ただ黙ってそうしてた。で、今は火の傍らに二人で腰掛けながら彼女が入れてくれた温かい糖蜜酒を飲んでいる。
「…………………マックスなんてダサい名前付けんなよ」
「………今のあなたの生まれた時の名前、知らないもの」
「…………知ってたろ?」
「………………」
エリザベスはシンプルなキャンプ用のステンレスマグで酒を愉しみながら口元を緩めた。
「自惚れないで」
「あいよ、マ・レーヌ。あれのモデルは俺じゃないってことにしておいてやるさ。で………お前はこの三年間何してたんだ?」
「…………作った映画の通りよ。あなたの隣で記憶を取り戻してから一年半くらいは混乱して、泣いて、錯乱してのくり返しで地獄だった」
「でも例のプロデューサーに噛み付く怒りはあったんだな」
「当然でしょ。私は怒りで全てを破壊するエリザベス・ロジエールだったのを忘れた?前の人生で私に起きた不条理なことやこの世界にレギュラスがいない怒り、私の愛する可愛い娘に会えない悲しみを全てあの男にぶつけたわ」
何日間も俺を此処で待っていたのだろう。彼女の爪は短く、ネイルアートなんてない。化粧もしてない。やや疲れて、それでも吹っ切れた顔の女の首にうっすらとあるロープの傷跡の理由を俺は知っている。映画の通りの日々を過ごしたんだろう。
「…………あいつ、結局殺した?」
「どうだと思う?」
「お前は生ぬるい女だから殺せない。俺を呼ぶべきだったなぁ、エリザベス」
「あなたの手は汚したくなかった。あなたが私のためなら何だってしてくれることも分かってたけどね」
「自惚れんなよ」
肘で軽くエリザベスの脇腹を突くと彼女はくすくすと笑う。あぁ、知ってる。その笑顔を知ってる。前の人生で幼い頃から見た笑顔だ。
「で、復讐が終わったらまた廃人みてぇにズタボロになってた、と」
「当たり前よ。一瞬でもうひとつの人生を突き付けられて、一瞬でその終わりも知った。心の底から愛した男と娘を忘れて私は呑気にあなたの隣で裸で寝ていたなんて。罪の意識や孤独感で生きていく気力を失ったの。こんなこと普通は五年も十年も苦しむわ」
でもお前は強いんだ。パチパチと爆ぜる炎を見ていたら俺の腹が鳴っちまった。わりぃな、大事な話してる時にさ。でもこれが人間なんだよな。エリザベスは呆れたように笑いながらテントに一度潜り込むと缶のクリームスープを持って出て来た。
「死のうとした、レジーもシリウスも…何よりもあの子がいない世界で生きていきたくはないと」
小さな鍋にクリームスープが注がれて、それはさらに焚き火の上に平行に通された鉄の棒に引っ掛けられた。なるほど、下から炎で加熱出来るんだな。何日間此処に居たのか、もしくは休日はこうやってここで一人でキャンピングしてるのかは知らないけど手慣れてる。スポットライトではなく炎に照らされるエリザベスもまた一味違うエキゾチックな魅力を持っていると思う。心地好い沈黙とエリザベスのソプラノは交互にやって来て俺の耳を癒した。
「あなたに送った映画の中では、私、一度だけ死のうとしてたでしょう?でも、違うの。本当は何度も死のうとしたの。最初は電車に飛び込もうとしたらホームで悪ガキ達の喧嘩に巻き込まれて飛び込める空気じゃなくなった。次にカミソリで手首を切ろうとしたらそのタイミングで刃が折れた。また別の日は練炭を買いに行ったら品切れだった。知らない国なら大丈夫だろうと行った旅先のホテルで首を吊ろうとしたら頼んでないルームサービスが来てロープを掃除で持っていかれた。夜に埠頭に行って海に落ちようとしたら若い恋人たちがヤッてて帰れクソアマって言われた」
ごめん、最後のは笑っちまった。くつくつと煮え始めたシチューを軽く掻き混ぜながらエリザベスも笑う。
「何度も死のうとして、その度に死ねなくて。気付いたの」
「ジャスミンとデイジーが咲いてた?」
「いいえ」
あの頃の二倍の年齢になった俺達はもう子供じゃない。互いに感じるだろう、身体の至る所が時間と共に大人になった。成長という言葉を超えて成熟し、十数年もすれば老いを感じることになる。でも微笑みは穏やかで、何故かあの日と同じように若さを感じた。
「風が、吹いてたの。暑くもない…寒くもない………あの日、あなたと共にほんの少しだけ眠った、あの日と同じ温度の風が」
そうか。エリザベスが作った映画の中でヒロインであるジャスミンは木の根元に絡まって咲く二つの花を見て、二つの人生を受け入れて生きようと決意した。だがそれは一面だ。映画の中で視聴者に分かりやすく伝える表現の一種だ。本当にエリザベスを自殺願望から救い上げたのはジャスミンとデイジーじゃない。絡まって咲く二つの花が咲いていた場所____
十五歳の俺達が抱き締め合って眠った、ホグワーツの森にある大木の根元。その日の穏やかな風と幸せな体温だ。
こんなの___まるで。俺の想いがエリザベスを生へと連れ戻したみたいだ。
エリザベスは笑った。上手そうなシチューが食べ頃の匂いを発しているがそれどころじゃない。俺は気付いた。世界の仕組みにも、俺の気持ちにも、彼女の気持ちにも気付いたんだ。エリザベスは呆然としている俺の顎を指先で軽く持ち上げると鼻が触れ合いそうなほど近くに顔を寄せて涼やかな声で告げる。
「…………あなたがこの世界を作ったんでしょう?あなたが私を愛して、今度こそ私を死なせないと願って、私をこの世界に呼んだんでしょう?」
肌寒い夜のはずだった。それなのに、なんでこんな心地良い風が俺達を包むんだ?
「……俺が、」
言葉が出てこない。
此処はこいつに生きていて欲しくて。笑っていて欲しくて。でもやっぱり少しだけ独り占めしたくて創った世界?だからレギュラスもいない?こいつが死ぬ可能性は尽く排除される。初めて抱いた翌朝、エリザベスが乗るはずの飛行機が落ちた。それすら愛する者を失いたくないという俺のエゴイズムが招いた大惨事だというのか。何百人の人間が空から地面に叩き付けられようが、俺はいつもエリザベスの生命だけを願っている。俺はいつまでもエリザベスが生きていることだけを祈っている。あれだけ忌み嫌っていたマグルに自分自身が生まれ変わってまで、俺が全てを捧げているのは目の前にいる柔らかな甘い光の目の女なのか。自分で思っていた以上に俺はエリザベスのことを愛していたらしい。レギュラスのことを馬鹿にできないほど、俺はエリザベスのことだけを考えて死んだんだ。その想いがどう作用したのか「この世界」を生み出して死んだエリザベスを連れてきた。
「確かに私は死んだわ。レギュラスと共に沈んだの。冷たい冷たい水の中で溺れる苦しみを味わって、そのあと自殺した。レギュラスを守るためにそうした。娘の幸せを願って最後の力を振り絞った。ねぇ、あなたは…?」
「俺は………、」
思い出す。今はただの自然豊かなスコットランド、ハイランドの山奥。この場所に荘厳な佇まいで建っていたはずのホグワーツ魔法魔術学校で起きた戦いを。腕の中に閉じ込めた若い女と、己の心臓を貫いた鉄の重みを。
視界が滲んで歪む。きっと声は震えるだろう。カッコつかねぇな。いつもいつも、最高にクールにキメたいのに俺は上手くいかねぇんだ。シリウス・ブラックならちゃんとやれんのかな、こういうこと。
「お前の………娘を、守ったさ。杖なんて無くて、ただ、この身体で守って………俺は死んだよ」
伝え終わるとエリザベスは俺と同じように涙を零した。そして、そっと俺の唇にキスをする。
「ねぇ、どうしてそこまでするの?私はあなたの敵だった女よ。その女の娘のために死んで、生まれ変わってもまだ私を守り続けて。どうしてそんなことをするの?」
額を合わせ、指先を絡ませ、頬を擦り、首筋を食む。心臓の鼓動が早くなる。エリザベスの耳が赤くなっているのは焚き火の所為じゃないってことくらい分かる。彼女の柔らかい黒髪が流れる後頭部を掴み引き寄せて噛み付くようにキスを返すとエリザベスは呼吸する間も惜しいと感じるほどに更に口付けに応えた。愛してる、愛してる、言いたかったんだ。ただ、言えなかったんだ。前の人生で一度でも勇気を出して言ってたら何かが変わってたんだろ?でも俺は意気地無しで現実から逃げることしか出来なくて、戦うことも救うことも何も出来ないクソ野郎だった。
「……、っ…は、………あ、……」
「…………エリザベス」
互いに酸欠になりそうなくらいに舌を貪り合った後、俺は蕩けたエリザベスの瞳を見詰めながら彼女の頬に手を添えた。
「愛してるから」
応えなくていい、お前が俺を愛さなくてもいい、永遠にレギュラスを想っていてもいい。この世界で存在しない赤子の母親として生きてもいい。
どんなお前でも良いんだ。
「愛してる」
エリザベスは、微笑んだ。
「あなたが私をこの世界に呼んだんでしょう?だったらあなたが、私の生きる理由になって。前世のことを忘れることは出来ない。でも今の人生の私を___前の人生の記憶を抱えていてもなお、世界で一番幸せな女にして。出来る?私の騎士さん」
当たり前だろ。俺はお前が守りたかった大切なもののために死んだ男なんだ。
「エリザベス、ずっと言いたかった」
爪の彩りなんてなくても女性らしく細い指先が俺の腰からベルトを抜き去り、彼女自身の服をも一枚、また一枚と取り払う。そして生まれたままの姿になった美しい女を俺は静かに抱き締めた。
「もう何処にも行くな、俺の傍に居ろ。死ぬな。上手く言えねぇけど。俺、お前のこと、好きだ」
だっせ。ガキかよ。
そんな俺の言葉に、エリザベスは声を上げて笑った。
俺は今まで何人もの女を抱いた。仕事だったし、そこに感情も何も無い。だけど今分かるんだ。愛しい女のぐずぐずに蕩けた胎内に自分の一部を深く埋める時、形容し難い高揚と満足感を得る。これを性欲としてひとつの単語で片付けてしまうのは馬鹿のやることさ。膝立ちになった俺達は炎の前でひとつ。エリザベスの背後から繋がる俺は片手を彼女の細い腰に、片手を彼女の頬に当てて顔をこちらに向けさせる。ほんの少し汗ばんだ額にかかる前髪と濡れた唇。幾度となく身体の奥底から快楽を味わった女の表情は、より艶やかで深い。
甘い唇を味わい、耳元で彼女の名前を吐息混じりで何度も呼ぶ。それだけで泥濘るんだ中は俺を何度も締め付けた。俺達の荒い呼吸、エリザベスの高い喘ぎ、肌がぶつかる音、そして時々風が木の葉を揺らす山々のざわめき。この空間に永遠にいたいと思った。この感覚が俺にとっての幸福なのだと改めて思った。
ふと視界に食べることを忘れたシチューが入ってくる。もう焦げてるだろうな。まぁいいか。
今夜は二つの人生、合わせて半世紀分の想いをエリザベスに伝えるんだ。何回イこうが朝まで絶対に寝かせねぇから覚悟しろ。ずん、と奥まで一突きしてやると情けない声と共にびくびくと痙攣してエリザベスはまた絶頂した。柔らかな身体を倒れないように抱き締めながら、俺はその細く陶器のように白い首筋に強く痕を残した。