あの頃には戻れない
薄暗いワンルームでふと目を覚ました。ぼんやりと天井を見つめながら隣にある温もりを確かめて、サイドテーブルに手を伸ばす。そこに置いてあるスマホを取ろうと触れたとたん、ロック画面が表示され、その眩しさに思わず目を細めた。時刻を確認すると、もう夕方だった。日中の記憶がない。
「幸村」
すぐ隣の温もりに話しかけるが、返答はない。まだ寝ているのか、規則正しい寝息が聞こえた。彼を起こさないようにそっと布団から抜け出す。
レースのカーテンの隙間から、外を眺める。もう日は沈みかけており、嫌でも一日の終わりを感じさせる。あの頃はもっと一日が長かったしすべてが楽しかった気がするのに、今はもう何も感じない。ただ惰性で生きている、それだけだった。
ふと、後ろから腕が回される。幸村はいつの間にか起きてきたようで、耳元でわたしの名前を呼んだ。
「何見てるのさ」
「夕日」
「ふうん」
さして興味はないようで、幸村はふらっとわたしから離れていく。そのままキッチンへ向かい、お湯を沸かし始める。わたしが外を見てぼんやりとしている間に、淹れたての紅茶のカップがふたつ、テーブルの上に並んでいた。幸村がわたしを呼ぶ。幸村の向かいに座り、紅茶を一口すすった。
中学生の頃、幸村とよくカフェに行ったことを思い出す。わたしが紅茶好きと知ったときに、幸村がいろんな人に聞いて見つけてくれたカフェ。あのときは本当に幸せで、誰もがその幸せはいつまでも続くものだと、信じて疑わなかった。今はもう、それが本当のことだったか疑ってしまうほどおぼろげな記憶。幸せの記憶をつなぎとめておこうとするたびに、何が本当で何が嘘かわからなくなっていた。
目の前に座る幸村は、あの頃と何も変わらない。ただある日突然、テニスはもうやらない、とやめてしまっただけ。別に怪我をしたとか、選手生命が絶たれたわけではない。彼は彼の意志で、テニスをやめた。どうしてなのか、それは誰にもわからない。一度尋ねたことがあったけど、何も答えてくれなかった。
幸村はカップを手にしたまま、紅茶の湯気を目で追っている。まるで無邪気な子どものようだ。幸村のことをじっと見ていたら、ふと目が合った。「どうしたの?」とやわらかく尋ねてくる幸村は、幸せだった頃と何も変わらない。それなのに、今はどうしてこんなに苦しいの。
「お前の考えていること、当てようか?」
そう言って幸村は、ふふっと笑いを漏らした。わたしは笑うことができず、ただカップの中で揺れる紅茶を見つめていた。湯気が立ち、カップのふちが揺らめく。だんだんと薄れていくわたしたちの記憶のようだった。
「あの頃は幸せだったなあ」
幸村の言葉に、どくんと心臓が鳴る。幸村は感情の読み取れない瞳でわたしを見ている。心の奥まで見透かされるような眼差し。思わず目をそらしたが、幸村はそんなわたしには構わず、続けた。
「あの頃に戻りたい」
やめて、と思わず言いそうになった。言えなかった。だってそう言ってしまったら、幸村が本当のことを言っていると認めてしまうことになるから。何も言わないわたしを見て、幸村は優しく微笑みかけた。
「テニスをしていた頃の俺の方が、良かった?」
そうじゃない。なんでそんなこと言うの。そう言いたいのに、喉の奥に言葉が詰まって出てこない。沈黙は、肯定と同じ。幸村は持っていたカップを置いた。かちゃり、と小さな音が鳴った。
幸村が立ち上がり、わたしの方へ歩いてくる。そしてわたしの隣にしゃがみ込み、肩にそっと手を掛ける。優しい、温かい手。涙がこぼれる。
「好きでいるのが辛いなら……俺のこと、嫌いになってもいいよ」
「……嫌。幸村のこと、嫌いになんて、なりたくない」
「いいんだ、もう。終わりにしよう」
嫌だ、とわたしは泣いた。その涙を拭う手も優しい。やっぱり、幸村はあの頃から何も変わっていない。変わったのはわたしだけ。今の幸せを受け入れられないわたしが悪いの。過去にばかり縋りつくわたしが悪いの。だから、そんなこと言わないで。そう言っても、幸村は困ったように笑うだけだった。そんな顔、させたくなかったのに。
幸村がわたしを抱きしめる。わたしも、幸村の温もりを確かめるように抱きしめた。温かくて安心するはずだった温もりが、今は切ない。幸村が耳元で囁く。
「でも、俺のことは忘れないで。一生」
幸村を抱きしめた腕から力が抜けて、そのまま離れる。幸村の顔をじっと見る。逆光で、表情はよく見えない。
「忘れるなんて、許さないよ」
そう言った幸村は、ぞっとするほど冷たい目をしていた。
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