鍵を閉めて、また明日
柳先輩が死んだ。部活帰り、信号無視のトラックにはねられたらしい。その日の夜、突然柳生先輩から電話がかかってきて、やけに淡々とした口調で伝えられた。意味がわからなくて、ふざけんなよとキレたけど、私だって信じられない、と震えて今にも消えそうに話す柳生先輩の声を聞いて、本当のことなんだなと思った。
次の日、学校に行っても俺のクラスはいつも通りで、あまりにも日常すぎるくらいだった。もしかしたら昨日の話は質の悪い冗談で、柳先輩は普通に無事に家に着いていて、昨日の電話は柳生先輩のフリした仁王先輩で。柳先輩のクラスに行ったら柳先輩に会えるかも、そうだとしたら仁王先輩のことはぜってーに許さねえと意気込みながら柳先輩のクラスに行ったら、教室の前で佇む真田副部長と幸村部長を見つけた。真田副部長の肩は震えていて、その肩を幸村部長がそっと支えている。後ろからだから表情はわからないけど、たぶん泣いているんだろう。時折鼻をすする音も聞こえた。あまりにも誰かを悼むような二人の姿が、柳先輩がいないという事実を色濃くしていく。それ以上見ていられなくて、俺はすぐにその場を離れた。
先輩たちから何件かメッセージが入っていたけど、それを見たら現実を受け入れなければいけない気がしたから、通知を消して、気づかないフリをした。電話も来ていたので、電源を切ってカバンの奥底にしまいこんだ。何も見たくない、知りたくもない。
気づいたら放課後だった。俺は部室前に立ち、ドアノブをひねろうとして手を止めた。部活の時間はとっくに過ぎているのに、物音ひとつしない。不気味なほど静まり返っている。
俺が部活に遅れたとき、真っ先に声を掛けてくれるのが柳先輩だった。「遅刻だぞ」と言いながらも、真田副部長にバレないようにうまくごまかしてくれた。一緒に謝ってくれたこともあったっけ。
ドアを開けたらいつもと変わらない柳先輩の姿が見られる――そんな期待と同時に、嫌な静けさが柳先輩の存在を否定していた。ドアを開けたら、そこが現実だ。受け入れなければならない。
どうしても躊躇いが生まれた。嫌だ、信じたくない。ドアノブを握った手に汗がにじむ。息がうまくできない。頭がぼんやりとしてきて、目の前が白くなりかけたとき、後ろから声を掛けられた。にじんで色を失いかけた世界が、少しずつもとに戻り、俺を現実へと引き戻していく。ゆっくり振り返るとそこには顔色の悪い幸村部長と、少し離れたところに泣き腫らした目をした真田副部長がいた。いつもの険しさはなく、ただ悲しみを湛えた表情だった。そんな真田副部長のことを見ていられなくて、俺はすぐに目をそらした。
幸村部長は沈み切った声色で、今日からしばらく部活は休みだと告げた。しばらくとはどのくらいなのか、本当に柳先輩が死んだのか――聞きたいことは山ほどあったけれど、上手く言葉にできず、かすれた声で返事をするのが精いっぱいだった。幸村部長は俺の返事を聞いて、小さくうなずき、緩慢な動きで真田副部長のところへ戻っていった。
テニス部で葬式に参列したとき、棺桶の中で花に囲まれて静かに眠る柳先輩を見た。ただ寝ているだけなのではと思うくらい、きれいな顔だった。周りはみんな泣いていたけど、俺は鼻の奥がつんとするだけで、涙は一粒も出てこなかったから、俺って冷たい人間なのかも、と思った。やけに甘ったるい花の匂いだけが、いつまでもこびりついて離れなかった。
そして柳先輩の死にじっくりと向き合うこともできないまま、柳先輩は小さな壺になった。
* * *
薄暗い部室に俺一人。目の前にはまっさらな部日誌。いつも適当に書くから、普段なら5分もあれば終わってしまうけれど、今日はあえて時間をかけることにした。ちょうど、真田副部長に真面目に書けと怒られたばかりだからちょうどよい。他の先輩たちも、それなら仕方ないねと納得して先に帰っていった。
一人になるといつも考える――柳先輩のこと。柳先輩がいなくなってからだいぶ経った。部活が再開され、いつものように練習をする。真田副部長に怒られたり、たまに褒められたり。冗談を言って笑うことも増えた。柳先輩がいなくなる前と同じ日常を、少しずつ取り戻しつつある。たまに沈んだ空気になることもあるけれど、丸井先輩やジャッカル先輩が明るく振舞ってくれる。みんな確かに傷を抱えているけれど、それでも少しずつ前を向けるようになっていた。俺以外は。
何も考えられなくてぼんやりとしていたかと思えば、どうしようもない胸のざわめきでいてもたってもいられなくなることが増えた。表面上はいつも通りに振舞っていたけれど、俺の中で何かが確実に狂っていく感覚。身体を動かしていれば多少は紛れるので、そういうときはよく一人で居残り練習をしていた。
その日も、いつものように残って練習をしていた。疲れ切った身体を引きずりながら、のろのろと部室へ戻る。部室にはもうすでに誰も残っていない、はずだった。
それはいた。俺より高い背。開いてるのか閉じてるのかわからない目、悔しいほどサラサラの髪。見慣れた立海のレギュラージャージを着たそれは、一目で柳先輩だとわかった。心臓がどくんと脈打った。
「な……んで……」
声が震えた。ついに自分の頭がおかしくなったのだと思った。だって死んだはずなのに。それなのに、どうして。
柳先輩を模したそれは、記憶の中の柳先輩と変わらない、聞き慣れた声で俺に話しかけた。
「たまには、後輩の頑張りを労ってやらないと、と思ってな」
ふ、と微かに笑うその姿は、紛れもなく柳先輩だった。柳先輩が俺の頭に触れようと手を伸ばしたけれど、それは触れられることなくすり抜けていった。頬を生温い雫が伝う。なんだ、泣けるんじゃん、俺。
その日から、俺が一人で部室にいるときに柳先輩は現れるようになった。柳先輩は死んだはずなのに、当たり前のように俺に話しかけてくるしやり取りもできた。
こんなこと、普通じゃない。そんなの俺にだってわかっている。でも、柳先輩と会えることの方が嬉しくて、気づかないフリをした。
柳先輩に少しでも会いたいから、部室の鍵閉め当番を引き受けることにした。鍵を閉めるために必然的に最後に帰ることになるから、都合がいい。居残り練習もしやすくなった。
部日誌をぱらぱら眺めながらぼんやりしていると、頭上から声が降ってきた――柳先輩だ。柳先輩は乱雑に集められたミーティング用の机の一つに座り、俺の顔と手元を交互に見比べる。
「弦一郎に言われたのか?」
そう言って、口角を僅かに上げてニヤリとする。こういう些細な表情も、やっぱり柳先輩だ。柳先輩が頬杖をつくと、さらりとした前髪が揺れた。ふと目が合う。俺が返事をしないことを不思議に思ったのか、柳先輩の眉が若干下がる。
「あー……そっス。もっと丁寧に書かんかーって」
「確かに、赤也のページはいつもひどいからな」
「はは、ひでー」
そう言いながら白紙のページを見つめる。別に部日誌なんか、ここに残るための口実でしかなかったから適当でいい。怒られようがどうでもいい。それがいつか本当の日常に戻るためならば、俺は喜んで怒られることにするよ。
何も考えず、適当に部日誌を書いてぱたんと閉じた。それを見て柳先輩は「終わったのなら帰ろう」と席を立つ。確かに立ち上がったはずなのに、椅子を引く音はしなかった。
柳先輩と一緒に薄暗い廊下を歩く。柳先輩はいつの間にか制服を着ていた。いつも、気づいたらジャージから制服に変わっていて、カバンも持っている。最初の頃は驚いたしユウレイも着替えるんだ、と思ったけれど、今はもう慣れた。
柳先輩のユウレイは学校から出ることができないらしい。玄関まで来ると、忘れ物をしただの、部室の戸締りを確認してくるだのと言い訳を並べ立て、俺に先に帰るよう促してくる。ちゃっかり着替えて帰る気満々のくせに。今日も玄関から出ようとしないで俺を見送ろうとするのでムカついたけれど、玄関先で「また明日」と手を振る柳先輩を見て、明日も会おうと思えば会えるからまあいっか、と思った。
次の日も、いつものように自主練と称して最後まで残っていた。別に練習がしたかったわけでも、真面目に部日誌を書くわけでもない。ただ、柳先輩に会いたいから。ただそれだけ。
適当に壁打ちして、散らばったボールを集めてカゴに片付ける。そろそろ戻ってもいい頃か、と時計を見て、俺は足早に部室へと戻った。
いつもは俺の方が先に部室に戻ることが多いが、今日は柳先輩の方が先に部室にいた。柳先輩が俺を見て、優しく微笑む。柳先輩の目の前には部日誌。昨日、俺が適当に書いたページが開かれている。赤字で「もっと丁寧に書け!」と書かれている。真田副部長の字だ。
「昨日の日誌、この様子だと……」
「もーばっちり怒られたっす。なんだこの適当な日誌は! って」
「だろうな。赤字で指摘までされるとはなかなかだな、赤也」
「でも幸村部長が味方してくれたんで、小言を言われる程度で済んだっすよ」
そう言うと柳先輩はくすくすと笑った。俺もつられて笑う。何気ないやり取りだけど、柳先輩が笑ってくれるだけで胸の奥のざわつきが収まる。この時間がずっと続けばいい、そう思った。
玄関でいつものように柳先輩と別れる。最近はもう、玄関から出ない理由は言わなくなっていた。「また明日」と柳先輩が手を振り、俺も振り返す。また明日会える、それだけでいい。
ある日の練習中、真田副部長から「話がある」と呼び止められた。どうせ今日も残るのだろうと言われ、部員がみんな帰ったあとに話をすることになった。嫌な予感がした。
部室の前。他の部員はもうすでに帰り、俺と真田副部長の二人だけが残っている。
「最近、一人残って練習することが多いな」
「まあ……自主練っす」
「毎日、か?」
「いや……毎日ってほどじゃ」
「ほとんど毎日だろう」
俺はろくに返事もできず、無意識に部室へ目を向けた。ドアの小窓から中を見ると、誰もいないはずなのに人影が見えた――柳先輩? いつもは俺一人のときにしか出てこない柳先輩が、確かにそこにいた。こちらにはまだ気づいていないようだが。
「赤也?」
真田副部長の呼びかけで我に返り、部室から目を離す。真田副部長を見ると、怒っているというよりは本気で俺の心配をしているような表情だった。てっきり怒られるのかと思って身構えていたので、ふっと力が抜ける。
「無理をしているのならやめた方がいい」
「別に無理なんか」
「赤也」
真田副部長が低い声で俺の名前を呼ぶ。俺は思わず口をつぐんだ。真田副部長はどう言葉にしようか言いあぐねている。少し目を伏せ、迷うように口を開いた。
「……最近のお前は、以前と少し違うようだ」
「……え」
「お前、最近誰と話している?」
心臓がどくんと跳ねた。質問の意味も意図もわかるはずなのに、何も答えられない。思わず部室の方を見た。柳先輩はこちらに気づいたようで、じっと俺を見ている。
俺の視線につられたのか、真田副部長も部室のドアを見た。もしかしたら柳先輩のことがバレているのかも、と思った。でも真田副部長は何も言わなかった。
「とにかく、あまり遅くなるな。親御さんが心配するだろう」
「……」
「それと、今日はもう帰れ」
「……っす」
真田副部長が去っていく。その背中が見えなくなるまで、俺は動けなかった。
部室に入り、ドアを閉める。柳先輩がこちらを見ている。
「柳先輩、さっきの話聞いてました?」
「ああ」
「真田副部長、変なこと言ってたっすね。誰と話してるんだって」
それは困ったな、と柳先輩が笑う。俺は笑えなかった。
「俺、別に変わってないっすよね? 変じゃないっすよね?」
震える手を抑えて、柳先輩に尋ねる。こんなこと聞いても意味がないと心の奥ではわかっていたが、どうしても聞かないと気が済まなかった。
「赤也は、変じゃない」
微かに笑いながら柳先輩はそう答えた。
「俺、柳先輩のこと、バレたかと思った」
「俺のことは見えてないだろう」
「そうだけど、」
「赤也」
柳先輩が優しく呼びかける。そして俺の震えている手に触れようと手を伸ばす。いつものようにすり抜け、触れられない。ああ、いつもの柳先輩だ。さっきまでの不安が、じわじわと溶けていく。よかった、これは正しいんだ。
「今日はもう帰った方がいい。顔色が良くない」
「……じゃあ柳先輩も一緒に帰りましょうよ」
「玄関まで、な」
そう言って二人で部室を出る。部室の鍵を閉め、その鍵を職員室へ戻す。二人で廊下を進み、玄関にたどり着く。いつものように下駄箱で立ち止まる柳先輩。俺だけ靴を履き替えて、ドアに手を掛ける。
「また明日、赤也」
「っす。柳先輩も、また明日」
手を振る柳先輩に背を向け、校舎を出る。もうすでに日は沈みかけていた。冷たい風が頬を撫でる。なんだか柳先輩の手みたいだ、と思った。
次の日も、いつものように最後まで残った。
昨日真田副部長にあんなことを言われたけど、早く帰る気なんてさらさらなかった。だけどあからさまに残ろうとするのは咎められると思ったので、片付けも着替えもわざと時間をかけた。俺の魂胆は真田副部長にはバレバレだったらしく、のろのろ動いているところをじっと見られていたが、特に何か言われることはなかった。代わりに幸村部長に「無理はしないようにね」と優しく声を掛けられただけだった。
みんなが帰り、誰もいなくなった部室に俺と柳先輩。いつものように向かい合って座り、いつものように他愛もない話をする。今日の練習のこと、昼休みに購買へ行ったこと、授業のこと――柳先輩は俺のどうでもいいような話を聞きながら、相槌を打ち、笑い、時々からかう。柳先輩が死ぬ前もこんなふうに話すことがあったな、と思い出したら、なんだか懐かしくなった。別に、前と何も変わらないのに。
「……柳先輩って、優しいっすよね」
ふとそんな言葉が出た。「そうか?」と柳先輩は首をかしげた。だってこんなしょうもないような話、真面目に聞いてくれるの柳先輩だけだ。そう伝えると、柳先輩はただ笑って
「赤也がそう思うなら、そうなのだろうな」
――なんだろう。今の言い方が、少しだけ引っかかった。でも何が変なのかはわからない。
「柳先輩」
「なんだ?」
「柳先輩って、俺が何言っても怒らないっすよね」
「……そんなことはない。あの部日誌は、さすがの俺も叱ろうと思った」
「でも」
「赤也がそう思っているだけではないか?」
――そうだ。いつもそうだった。
俺がこう言えば、柳先輩はこう返してくれる。俺が落ち込んでいれば、大丈夫だと言って励ましてくれる。不安になれば、心配するなと言ってくれる。俺が「変じゃないっすよね」と聞けば、「変じゃない」と言ってくれる。全部、そう。
「俺、柳先輩のこと、結構……いや、だいぶ好きっす」
口にしてから、自分でも何を言っているんだと思った。でも、柳先輩は驚きもせず、ただ「ああ、知っている」とだけ答えた。
「……柳先輩も、俺のこと好きっすか?」
「ああ」
あまりにも簡単に返ってきた。嬉しい。嬉しいはずなのに。なぜか胸の奥がぎゅっと痛くなった。
柳先輩は何も言わず、俺を見ている。目が合い、柳先輩は微かに笑った。見慣れた、優しい笑顔。俺の知っている、俺が覚えている柳先輩。
「……柳先輩って、俺の言ってほしいこと、全部わかるみたい」
口に出してから、しまったと思った。やっぱり言わなければよかった。柳先輩は困ったように笑うことも、怒ったりもせず、ただ俺を見て言った。
「そうだな」
「……否定、しないんすね」
「ああ」
薄々感じていた。ずっと、気づかないフリをしていた。
俺の望んだ言葉だけを言ってくれる。俺にとって、都合のいい存在。それでも、目の前にいるのは俺の知っている柳先輩だった。
柳先輩がいてくれるなら、それだけでいい。
「……帰りましょうか」
そう言って席を立った。
いつものように部室の鍵を閉めた。窓から夕陽が差し込み、オレンジ色に染まる廊下を二人で歩く。ゆっくり、ゆっくり、玄関まで向かった。
「また明日、赤也」
柳先輩がいつもの場所で、いつものように手を振った。一瞬、返事ができなかった。それでも、俺は笑って手を振り返す。
「また明日、会いましょうね」
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