また明日が言えるまで
家に帰る途中で、忘れ物をしたことに気づいた。課題の応用問題の解き方を部活前に柳生に教えてもらい、そのまま部室に置きっぱなしにしてしまった。教科担任が忘れ物に厳しい人で、提出をしなかったらやれ居残りだ、補習だと容赦がないので、やらざるを得ない。もちろん、居残りや補習になれば真田の鉄拳制裁は免れないので、面倒だけど学校へ引き返すことにした。
薄暗い廊下を進み、部室を目指した。部活が終わったのはだいぶ前だが、部室はまだ煌々と明かりがついていた。そういえば赤也が部日誌を書くとかで残っていたな、と思い出す。
まだ赤也がいたのならラッキーだ。鍵を借りに行く手間が省けてよかった。ドアを開けようとノブに手を伸ばすと、ぼそぼそと話している声が聞こえた。赤也一人ではないのか? こんなところで密会なんて、赤也もなかなかじゃのう。盗み聞きするのも良くないと思ったが、もしかしたら俺の存在が邪魔になるかもしれないから――そう言い聞かせて己の好奇心を正当化した。
静かにしゃがみこみ、そっとドアに耳を近づける。本当に微かに聞こえる程度だが、確かに赤也の声だ。相手の声は聞こえないが、赤也はまるで誰かと会話をするかのように喋り続けている。何を言っているかまでは聞き取れない。俺は中を確認しようと、ドアの小窓からこっそり中を覗き見た。
ミーティング用の机のひとつ、こちらに背を向けるように赤也が座っている。やはり声の主は赤也だった。時々、笑ったり手振りがついたりと、目の前にいるであろう相手に向かって話している。本当に普通だ。目の前にいるはずの人がいないことを除けば。赤也が立ち上がり、机の上の荷物をまとめながら言った。
「また明日も会いましょーね、柳先輩」
耳を疑った。柳? なんで柳の名前を? だって柳は――。
様子を伺うのに身を乗り出しすぎて、ドアが小さくカタンと音を立てた。俺が慌てて頭を引っ込めたと同時に、赤也の話し声がぴたりと止まった。なんとなく見つかってはまずいと思ったが、赤也がドアまで来る方が早かった。小窓から俺の姿が見え、驚いた顔の赤也と目が合った。
『仁王先輩?』
赤也の口がそう動いたのを確認して、俺は逃げ出した。逃げ出したらやましいことがあるとバレバレじゃないか。
* * *
結局課題は提出できなかったので、教科担任にはこってりとしぼられ、真田からも「たるんどる!」とありがたいお言葉をもらった。柳生がそんな俺を見て、せっかく途中まで取り組んだのにもったいなかったですね、と声を掛けてくれた。丸井は馬鹿にしてきた。許さない。
昨日の赤也のことを誰かに相談しようと思ったが、なかなかタイミングがなく、そのまま部活の時間になってしまった。課題を忘れた罰として居残りを言い渡されていたので、とっとと済ませてから部活へ向かう。更衣室でだらだらとジャージに着替えながら、昨日のことを思い出した。
『柳先輩』と赤也は口にしていた。一人で、虚空に向かって話す中で、その名前を確かに呼んでいた。ただふいに口をついたとか、話題の中で出てきたような呼び方ではなく、目の前の誰かに呼び掛けるような物言いだった。
赤也はいつも通りだった。昨日――確かに目が合って、俺だと気づいていたはずだが、赤也の方からそのことに触れることはなく部活は終わった。赤也は今日も居残り練習をするようだったが、俺は逃げるように帰った。
『また明日も会いましょーね』昨日の赤也の言葉がリフレインする。今日も赤也は『柳先輩』に会うのだろうか。
「切原くん、ですか。確かに最近、よく残って練習していますよね」
次の日、俺はあの日の赤也のことを柳生に話した。本当は真田か幸村あたりにも伝えたかったが、柳の名前が出た以上、二人には負担をかけられないと思った。柳生も当時はだいぶ堪えていたので直前まで相談相手にしていいものか悩んだが、他のメンバー(特に丸井)にはまともに取り合ってもらえなさそうだったので、申し訳ないが柳生に話すことに決めた。
赤也の口から『柳』の言葉が出たことを伝えると、柳生はあからさまに苦い顔をした。やっぱり、やめておけばよかったか。
「柳くんのこと、慕っていましたからね……」
「ああ」
「でもそれ、仁王くんの聞き間違いってことはないですか?」
俺もそう思いたい。後輩が見えない相手と会話しているだけでもじゅうぶん奇妙な状況なのに、その相手が死んだ人かもしれないだなんて。聞き間違いで済むなら、本当にそれでいい。
柳生の怪訝な顔を見て、いっそ聞き間違いってことにしてしまおうかと思ったそのとき、柳生は突然立ち上がった。何かを思いついたような顔をしている。
「仁王くんの話はとても信じられませんが、この目で見れば信じられるかもしれません」
「……つまり?」
「本当に切原くんが見えない柳くんとお話しているかを、一緒に確認しましょう。今日の部活後こっそり残って、です」
こいつは――常識人かと思えば、突拍子もないことを思いつく。だが、こいつのこういうところ、嫌いではない。
俺は柳生の提案にうなずいた。作戦決行じゃ。
いつも通り、今日も赤也は残って練習をするようだった。「俺、もっと強くなりたいんで!」と元気に宣言し、残っている部員を半ば強制的に追い出していく。俺と柳生もジャージから制服に着替え、カバンを持って部室から出た。が、向かう先は玄関ではなく、窓からテニスコートの様子が確認できる空き教室。そこで、赤也が練習を終えて部室に戻るまで待機するつもりだ。
窓からテニスコートを眺めていると赤也が出てきて、サーブの練習をし始めた。パワーもスピードもある、力強いサーブだ。さすが2年生唯一のレギュラーメンバー、実力は確かにあるということだ。
しばらくして、赤也はサーブで散らばったボールを集め始めた。そろそろぜよ、と柳生に声を掛けた。柳生も赤也の様子に気づいていたようで、静かにうなずいた。
赤也がコートを去ったのを確認してから、俺たちも部室の方へ移動をした。遠くから部室を確認すると、もうすでに電気がついていて、小窓から明かりがもれていた。音を立てないように静かに移動し、ドアの前まで来る。耳をすませるが、ガタガタと机を動かす音だけで話し声は今のところ聞こえない。椅子を引く音が聞こえる。赤也が椅子に座ったようだった。
しばらく何も聞こえなかった。自分の心臓の音がやけにうるさくて、赤也にまで聞こえているのではと思うほどだった。柳生も同じくらい緊張しているようで、いつもの飄々とした顔はどこへやらといった調子だった。柳生と目が合い、もうやめて帰るかと手振りで伝えようとした、その瞬間だった。
「あ、柳先輩」
赤也の声が聞こえた。『柳先輩』はっきりとそう言った。柳生の顔を見ると、顔がこわばっている。赤也の声はなおも聞こえている。
「今日すか? さっきまでサーブの練習してたっす」
>「だいぶスピードが出るようになったのではないか?」
「そうっすね。まあ乾サン、ほどじゃないっすけど」
>「フフ、貞治を目指しているのか。まだまだ壁は高いな」
「柳先輩、ひでーっす。俺、頑張ってるじゃないっすか」
笑い声が響く。誰かと会話しているようなやり取りだが、相手の声は何一つ聞こえない。小窓から様子を覗くと、先日と同じようにこちらに背を向ける形で赤也が椅子に座り、目の前に誰かがいるかのように話していた。俺が中を覗いていると、柳生も首を伸ばして部室内を覗き込む。赤也が一人なのを確認して、小さく息をのんでいた。顔色が悪い。そろそろ引き上げるか。
柳生の袖をそっと引っ張り、「帰ろう」と目で合図した。柳生の唇が微かに震えている。そのまま柳生の腕を引き、部室から離れた。中からはまだ赤也の話し声が聞こえていた。
校舎を出て、校門を抜けたあたりでようやく柳生が口を開いた。
「仁王くん……さっきのって、いったい」
柳生の声から、戸惑いが伺えた。震える手をもう片方で懸命に押さえている。柳生のことが心配だったが、今日はもう時間も遅い。今日は一旦解散し、また明日このことについて話し合うことに決めた。柳生は釈然としない顔をしていたが、あまり遅くなると家族が心配すると伝えると、渋々帰っていった。
次の日の昼休み、柳生と昨日の空き教室で落ち合った。昨日は眠れなかったのか、顔色がすこぶる悪い。真田にもだいぶ心配されたらしい。柳生は歯切れ悪く話し出した。
「……一晩考えたんですが、昨日のあれはやっぱり……その、そういうこと、なんでしょうか……」
「……まあ、そうじゃろうな」
俺は静かにうなずいた。そんな俺を見て、柳生はますます表情が悪くなった。沈黙が続く。
「……どう、しましょうか」
「どうする、って言われてもなあ」
「誰か他の人にも伝えるべきでしょうか……例えば真田くん、とか」
と、真田の名前を出してから、柳生はあっと気づいたように口をつぐんだ。真田には言えない、柳生も思い出したのだろう。あのときの真田は、本当に見ていられないほどだったから。
「じゃあもういっそのこと、切原くん本人に確認する、とか」
「さすがにそれはないじゃろ」
「ですよね……」
はは、と力なく柳生が笑う。どうしようもない無力感が俺たちを支配する。
昨日の赤也の様子を見て思った。一人で会話しているところを俺に見られているはずなのに、何も言ってこなかった。何もないフリをしていた。今の赤也の状況がどうであれ、誰かが気軽に触れていいものではないのかもしれない。
「誰かに知られたとわかったら、余計に隠してしまう気がする」
俺がそうぽつりと呟く。「そうですね」と、柳生も小さな声で答えた。
* * *
俺たちは「しばらく様子を見守る」という結論に至った。今のところ赤也はいつも通りに部活に参加しているし、しょうもないミスを連発するとかぼけっとしているとか、そういう不調も見られない。部活後の赤也を知らないやつからすれば、どこからどう見てもいつも通りだった。
ある日の練習中。いつものように赤也の様子をこっそり観察していると、赤也と目が合った。
「仁王先輩、こっちばかり見てないで真面目に練習してくださいよ」
「ピヨ」
「あ、ごまかした!」
そう言って赤也は笑った。目の前の赤也は、無邪気で生意気で、柳がいなくなる前と何一つ変わらない。
柳生と部室を覗き見したあの日以降も、赤也はずっと一人で部室に残り続けていた。部室からは楽しそうな笑い声と、時々『柳先輩』と呼びかける声。その声に応える者は俺たちには見えないけれど、それが今の赤也を支えているのならそれでいいのかも、と思うようになった。
ある日。他校との練習試合が近くに控えていたので、いつもよりハードな練習だった。いつも厳しい練習に耐えているレギュラー陣も、練習が終わる頃には疲れが顔にまで出ていた。
赤也も例外ではなく、部室に戻るなり机に突っ伏していた。周りがみんな着替えを終え、部室から出て行ってもそこから動かないので、さすがに声を掛けた。
「赤也、帰らんのか?」
「…………俺、もうちょっとやってから帰るっす」
「もうちょっとって……今日はもうじゅうぶんやったじゃろ」
そう言っても、赤也は唸って首を振るだけだった。見るからに疲れているのに。無理するな、と言ったけれど、赤也は大丈夫っすから、としか言わなかった。柳生や他のメンバーも口々に言うので、そのうち干渉されるのが嫌になったのか、ラケットを持ってのろのろと部室を出ていった。
「そんなに負けたくねーのかな」と誰かの言葉が響いた。あれは、そういうことではない。柳に会うためだけの口実なのは明白だ。そこまでして柳に会わなければいけないのかと思ったが、無理やり引き留められるほどの力が俺にはないこともわかっていた。
その日の帰り道、柳生と一緒になったのでなんとなく二人で帰った。あの日から赤也の話はしていない。柳生が気にしすぎていたので、あえて話を振らないようにしていた。だから、柳生から赤也のことに触れてきたのには驚いた。
「切原くん、のことなんですが……」
言葉を選んでいるのか、途切れ途切れに話す柳生。俺は黙って話を聞いていた。柳生は決心したように口を開く。
「切原くんは、柳くんに会うために残ったのでしょうか」
「たぶんの」
「でも、今日くらい、早く帰ればいいのに」
柳生がそう言いたくなる気持ちもわかる。でも、それ以上に赤也の気持ちもわかる気がした。もう会えない人に会えるとなったら、疲れていようとなんだろうと会おうとするかもしれない。特に、慕っていた先輩なら尚更――。
「……これで、本当にいいんでしょうか」
その言葉に、俺は答えられなかった。いいのか悪いのかなんて、俺たちに決められるものではない。柳がもういないことを、赤也が知らないわけがない。だけど柳と会えるから。柳と会うことをあいつは選んでいる。それでも、今まで通りに過ごせている。なら、それを俺たちの勝手な判断で取り上げることは、本当に正しいことなのか?
「私には……切原くんが柳くんに会うことを『支え』以上のものにしているように思えるんです」
「……え?」
「柳くんに会わなければいけない、と。そう思っているのだとしたら」
柳生のその言葉に、どきりと胸が跳ねる。何も言えない。沈黙、それが答えのようだった。
ただ、さっき見た赤也の疲れ切った顔がやけに鮮明に脳裏によぎった。本当にこのままでいいのか――初めて迷いが生じた。
次の日、なんとなく一人になりたくて、昼休みに部室に行くと先客がいた――赤也だった。いつもの席――柳と話すときに使っている場所に座っていた。
「あれ、仁王先輩だ。どうしたんすか」
へらっと笑って赤也が言う。何かを隠す様子も、ごまかす調子でもない。少し疲れたような顔だったが、いつもの赤也だ。いやちょっとな、と言いながら、なんとなく赤也の隣に座る。
赤也の手元を見ると、数学の教科書とノート。勉強中だったのか、邪魔をしてしまったな。
「赤也が自分から勉強をするなんて、珍しいこともあるもんじゃ。今日は雪が降るかもなあ」
意地悪く笑ってそう言うと、赤也は頬を膨らませ「ひでー!」と怒った。いつもの赤也だ。
「俺だって勉強くらいするっすよ! だって、や」
そこまで言いかけて赤也ははっとして口をつぐんだ。そしてもごもごと「や……なぎ先輩、みたいに……なりたいんで」とたどたどしく続ける。さっきまでの明るさがみるみるうちに消えていき、声のトーンも落ちていく。
ああ、赤也はずっと我慢していたのだと、ようやくわかった。自分にしか見えない柳の存在。それを誰にも知られないようにするうちに、柳のことを口に出すことすらも不安になっていったのだろう。赤也はうつむき、動かない。
俺はそっと赤也の頭に手を乗せ、ふわふわの髪を撫でた。赤也は、微かに震えていた。
「なあ、赤也」
自分でも驚くくらい、優しい声だった。赤也からの返事はないが、俺は話し続けた。
「柳が、見えているんじゃろ」
赤也は答えない。
「最近、一人で残るのは……柳と話すためだったんじゃな」
しばらくして、赤也が小さくうなずいた。
否定も、言い訳もしない。ただうつむいたまま、泣くのを堪えるみたいに唇を噛みしめていた。
そのあと、柳生も事情を知っていることを赤也に伝え、本人にも部室に来てもらうことになった。柳生は憔悴しきった赤也を見て「気づかなくて、本当にごめんなさい」と赤也のことを抱きしめていた。
赤也はぽつぽつと、心の内を話し始めた。初めて柳と会った日のこと、柳に会えることが本当に嬉しかったこと、誰かにバレたら会うことを止められると思ったこと――話しながら涙をぼろぼろ流す赤也を見て、俺はただ手を握ることしかできなかった。
「俺、もう、柳先輩と会わない方がいいですよね」
赤也がそう言いながら、また涙を流す。
「でも柳先輩がそこにいるのに……俺にしか見えないのに。それを無視するなんて、柳先輩があまりにもかわいそうだ……俺は、それが嫌なんです。柳先輩が誰にも気づかれないで、いなくなっちゃうのが……」
赤也の悲痛な思いが伝わってくる。
「だから、会いに行ってたんですね。自分が会わなければ、柳くんがいなくなってしまうと思って……」
赤也は小さくうなずいた。
「私は、あなたが見ている柳くんを否定しません。でも、あなたにしか見えないんです。私にも、仁王くんにも、他のみんなにも。だから――」
柳生は一呼吸おいて、続けた。
「それが何なのかを、あなた自身が考えなければならないのではありませんか」
* * *
仁王先輩と柳生先輩が気を利かせて、俺を一人にしてくれた。涙はもう止まったけれど、また油断をすると視界がすぐににじみそうになる。
部室に飾られている写真を見た。全国大会で準優勝をとったときの写真。優勝を逃したことが悔しくて、俺は馬鹿みたいに大泣きしていた。3年生の先輩たちの方が泣きたかっただろうに、俺の大泣きする姿を見て一生懸命励ましてくれたっけ。
写真の中の柳先輩は笑っている。もうこの笑顔が見られることはないんだな、と思うとまた涙が出そうになった。
「赤也」
「あ、柳先輩」
いつものように柳先輩が現れて、俺に声を掛けた。いつの間にか隣にいて、写真を見ている。
「全国大会のときだな、懐かしい」
「懐かしむほど昔じゃないっすけどね」
「赤也はこのとき、大泣きしていたな」
「だって、負けたのが本当に悔しくて」
何気ないやり取りだけど、俺はこの時間が何よりも大好きだった。ずっとこの時間が続けばいいと、何度願ったことか。
「あー……俺、この先もずーっと柳先輩といたいっす」
「ふふ、愛の言葉だな」
「もう、からかわないでくださいよ」
柳先輩が笑って、俺も笑う。いつもの光景。でもこれも、今日で最後。
「でも、もう一緒にいられない。俺が決めたことだから」
涙が出て、一気に視界がにじんでいく。鼻もぐずぐずしてきた。でも、きちんと伝えなきゃ。
「俺、柳先輩と一緒にいられてよかった」
泣きじゃくる俺を見て、柳先輩は微笑み、俺の頭に手を乗せようとする。あのときも、泣いている俺にこうしてくれたっけ。柳先輩の優しさが嬉しい。でも、いつまでも先輩の優しさに縋ってたらいけないことも、わかっている。
「柳先輩」
「どうした?」
「……俺、もう柳先輩に会いにくるの、やめます。だから、また明日っていうのも、これでおしまい」
柳先輩は何も答えない。ただ、俺の涙を拭おうと手を伸ばした。でも涙は柳先輩の手を濡らすことなく床へぽたり、と落ちていった。
「赤也は本当に泣き虫だな」
そう言って笑う柳先輩は、あのときの柳先輩だった。
「じゃあね、柳先輩」
俺は部室から飛び出した。どこへ向かっているのかわからないまま、廊下を走り抜ける。涙はどうしても止められなかった。
* * *
あれから数日後。赤也は部活が終わると、まっすぐ帰るようになった。練習を終えると、さっさと着替えて部室を出ようとする。
「もう帰るんか?」
「帰るっすよ」
「……今日は残らなくていいのか?」
「まあ……もう、大丈夫っす」
赤也が寂しげに笑う。これ以上何かを言うのも野暮かと思い、そのまま赤也の背中を見送った。
何気なく部室に目をやる。誰もいない。赤也にはまだ、彼の姿が見えているのだろうか。
ふと赤也が立ち止まり、振り返って「仁王先輩! 明日、朝練付き合ってくださいね!」と大声で叫んだ。
「おう、付き合ってやるぜよ」
俺の返事を聞いて、満足そうに手を振る赤也に俺も手を振り返す。その背中が夕日に溶け込んでいくのを、ただ見送っていた。
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