ことの始まりは昨日。
隣町のハロンタウン出身であり、ここガラル地方のチャンピオンであるダンデさんが、久方ぶりに里帰りをした。

当然この町の駅を利用するため、町中が大賑わい。私はなんとか人の間を掻い潜り、2番道路の先にある紫屋根の家、この地方のポケモン博士、マグノリア博士の家へと向かった。

訳あって、私はマグノリア博士の元でお手伝いをさせてもらっている。と言っても、私が勝手に頼み込んでやらせてもらっているだけなのだが。



「こんにちは、博士。昨日仰っていた資料、お持ちしました」


「こんにちは、雨音。いつもありがとう」



マグノリア博士の家に到着し、研究所から持ってきた資料を手渡す。彼女が一通り目を通している間に、私は台所をお借りしてお湯を沸かした。紅茶を飲みながら、博士と睡蓮と共に勉強する。これがいつもの流れだ。

ティーポットにお湯を注ぎ、鼻を擽るような香りが漂う頃。バッグに入れているモンスターボールが独りでに開き、一人の青年が現れた。



「持ちますよ」


「ありがとう、睡蓮」



彼が睡蓮。インテレオンが擬人化した姿だ。

この世界にいるポケモンという生き物は、野生や手持ち関係無く、ある条件を満たすことで人型になれる。町中で擬人化したポケモンを見ることもしょっちゅうだ。

いつだったか、他所の地方ではポケモンと人間が結ばれたこともあったのだとか。そんな昔話があるのだと、博士から聞いたこともあった。種族を越えた恋……。なんだか不思議な話だ。

因みに、睡蓮はスラッとした細身で、身長も高い。膝くらいまである長い水色髪を、大きな黄色いリボンで結っている。服装は白いワイシャツに青のベスト、黄色いボウタイ、黒いスキニーパンツ。
あまりにもインテレオンの色合いそのままのため、擬人化した姿だと言われてすんなり受け入れざるを得なかったのは、記憶に新しい。


睡蓮が運んでくれたティーカップを卓上に並べ、私は参考書とノートを開く。
いつもであれば、このままのんびりと勉強会が開かれるのだけれど、この日だけは違った。



「雨音。そろそろ貴女も旅立ってみますか」


「え……?」



博士は紅茶を一口飲むと、私の目を真っ直ぐに見てそう言った。

10歳ほどになると、人はポケモンと共に旅をする。それが決まりというわけではない。その町で生まれ、旅立つ切っ掛けが無いまま大人になった人だっている。

私は今年で18歳。しかし、旅立ちと聞いてもピンと来なかった。



「今日はダンデが来ているでしょう。彼の弟ともう一人、ハロンタウンの子が、ポケモンを貰って明日旅立ちます」


「はい」


「実は、ソニアにも旅立ってもらおうと考えているのです」


「ソニアさんも?」



博士は笑みを浮かべて頷くのみで、詳細を語りはしない。

ソニアさんはマグノリア博士のお孫さんで、私にとっては姉のような存在だ。博士の助手として行動している彼女のことだ。きっと何か調べものをする旅になるのだろうことは、聞かずともわかった。

しかし、何故ここで私にも旅を勧めるのか。博士はティーカップを静かにソーサーに置いて目を伏せた。



「貴女が私の元へ来て3年。記憶の変化は何も無いのでしょう?」


「…………」



博士の問いに、私は黙って頷いた。


私には15歳より以前の記憶が無い。
聞いた話でしかないのだが、私はワイルドエリアで睡蓮と共に倒れていたところを救助されたらしい。それも、あのチャンピオン・ダンデさんと、ナックルシティのジムリーダー・キバナさんに助けられたというのだから驚きだ。

当時の私は傷だらけで、病院で手当てをされたものの半年間も目を覚まさなかった。手足の骨折と全身打撲。右目も深く傷ついていて、もう使い物にならない。生きているだけでも奇跡だという状態で、やっと目を覚ましたのに記憶喪失。

全てを知っているのは睡蓮だけ。でも、睡蓮は私の名前が“雨音”であることと年齢しか教えてはくれなかった。自力で思い出せということなのか、思い出すべきではないのか。詳しくはわからないけれど、過去に関しては彼は口を閉ざしたままだった。

一度だけ、真剣に向き合って教えてくれないかと願ったことはある。だが、その時の睡蓮の悲しげで苦しそうな瞳を見ては、それ以上に問い詰めることはできなかった。

過去のことは知りたい。でも、それで睡蓮が苦しむのなら聞くのはやめよう。
名前も年齢も本当のものなのかわからないのに、記憶は無くとも彼のことだけはどうしても疑えなかった。


退院後は、身寄りの無い私を不憫に思ったのか、ダンデさんからマグノリア博士を紹介され、博士の家でお手伝いをしながら借家で生活させてもらっている。

何故、こんな有名な人物を紹介されたのか。何故、彼女が心優しくも私を引き取ってくれたのか。疑問は多々あるけれど、記憶も行く宛も無い私には、甘える他に生きる術が無かった。

いつか記憶は戻るだろう。そう前向きに思って過ごすこと、早3年。



(断片的にすら思い出せないとは……)



せめて自分が雨音であること……、呼ばれる懐かしさくらい思い出せても良いと思うのだが。全くという程に私の中身は空っぽだ。

睡蓮やマグノリア博士、ソニアさんにも、無理に思い出す必要は無いからと言われるけれど、本当にそれで良いのかすらもわからない。

だからって、くよくよ悩んでいても仕方がない。無い知識を補うために、博士と睡蓮に勉強を見てもらっていたのだけど。どうやらその悩みは博士にお見通しだったようだ。



「貴女自身の過去を知ることは、もしかしたら辛いことなのかもしれません。身体に深い傷を負っていたのですから、心はもっと酷い痛みを抱えているのかもしれません」



それでも、この世界を知り私の世界を広げること……、私が成長することで、痛みを乗り越えることができるかもしれない。



「何事も行動しなければ前に進むことはできません。記憶を取り戻すにしろ、新たな思い出を作るにしろです。それは貴女がよくわかっているでしょう」



その為に3年間ずっと勉強してきたのだからと、博士は微笑む。

敵わないなぁと思いながら、ふと、隣に座る睡蓮を見上げた。
彼はどう思うのだろう。私が旅をして、もし過去を思い出した時、彼は悲しむのだろうか。

そんな考えを読んだのか、睡蓮は私を安心させるように目元を和ませた。



「雨音の思うままに動いてください。私はずっと、貴女の傍でお守りします」



博士も睡蓮も、私を甘やかすのが上手過ぎる。これでは旅立つ以外の選択肢がないではないか。



「……じゃあ、がんばって旅してみます」


「大丈夫ですよ、雨音。貴女は一人ではありません。何かあれば……いえ、何も無くとも、いつでも帰っておいでなさい」


おしとやかに笑うマグノリア博士。
流石にそれは甘やかし過ぎだと思う。



(……どこにも出掛けていないのにもう帰りたくなった)



行き場の無いこの気持ちは、温くなった紅茶で飲み下して誤魔化した。