たからばこ


1.帰郷


長いトンネルを抜けると、五月の新緑が車窓に広がった。長野市内から在来線に乗り換え更に約1時間。外の景色は都会の喧騒からのどかな田園風景へとガラリと変わる。乗客は随分減り、静かな車内は電車の走行音だけが鳴り響いていた。

昨夜、ある一本の電話で花乃 伊頼(はなのいより)は7年振りに実家への帰路に着くことになった。もう帰る事はないだろうと思っていたのに。
高校を卒業し逃げるように東京の大学に入学し田舎に帰ることなくそのまま就職までした。物心着いたころには自分が他と違う自覚してからは、なんとなく自分の居場所はここでない気がしたからだ。地元は山間にある小さな温泉街だ。30年ほど前までは宿場街として有名で観光客で賑わっていたが、今ではそれも廃れ営業している宿は数える程しかない。

それがつい二年ほど前に隣町と合併し市なったとニュース番組に小さく取り上げられていたのを今でもはっきりと覚えている。
その温泉街で小さな旅館を経営していた伊頼の祖母が昨日倒れたと連絡があったのだ。連絡をしてくれたのが曽祖父の代から旅館に板前として勤めてくれている大迫という男で、親のいない伊頼を我が子のように可愛がってくれていた人でもあった。それも高校を卒業してからは伊頼が連絡をあまりしなくなったこともあり随分疎遠になっていた。その大迫からの久しぶりの連絡だったこともあり、あまりいい予感はしていなかったのだが、まさか祖母の危篤の知らせになるとは想像もしていなかった。
7年前に見た祖母の美小枝は50代とは思えないほど若々しく精力的に旅館の仕事をしていたと記憶している。榛色の艷やかなな髪を綺麗に結い上げ、すっと真っ直ぐに伸びた背筋に鮮やかな薄紅色の着物はよく似合っていた。
どんな人もいつか死ぬだろうが、美小枝はまだ何十年も先の話だとなんで根拠のないことを信じていたんだろう。暗くいつにない弱々しい声音で「もうダメかも知れない」と小さく呟いた大迫に底知れない恐怖が足元からじりじりと近づいているようなそんな感覚に襲われた。しばらくはアパートに戻れないかも知れない。そう思った伊頼は当面の着替えや貴重品をバックパックに詰め込む。とても部屋で朝を寝て待つことができる心情でなかった伊頼はそのまま新宿まで出て夜行バスに飛び乗った。


実家の最寄り駅には到着した頃には11時を過ぎていた。駅から旅館までは約20kmの山道でバスか車での移動が必要だ。事前の予約をすればタクシーもあるが、東京の暮らしに慣れていた伊頼はそのことをすっかり失念していた。仕方なくバスの時刻表を確認しようとしたところで車のクラクションが鳴る。振り返るとロータリーに白のKワゴンが一台止まっていた。車に気がついた伊頼に向かい車を寄せてくる。迎えの約束をしていなければ、自分の帰郷に合わせて迎えに来てくれる友人もいなければ知り合いすらいない。青年は車を下りて伊頼にぺこりを頭を下げてきた。近かづいてきた青年は170cmある伊頼よりも更に10cm以上高く、シンプルなTシャツから覗く腕も逞しく一目で体格が良いのが分かる。短く切りそろえられた髪型は清潔感があり所謂好青年と言った印象だ。年齢も自分と同い年かもしくは二、三歳年下かも知れない。数少ない知り合いの中を記憶を巡ってみても一致する人物はいない。全く身に覚えのない伊頼の要領得ない表情に気がついた青年はくすりともせずに名乗ってみせた。

「父の大迫がお世話になってます。女将さんの息子さんの伊頼さんですよね。」

お世辞にも愛想の欠片もない口調だった。イマイチぴんと着ていないいない伊頼に痺れを切らすことなくもう一度「花乃旅館でお世話になってます」と続けてやっと大迫の息子であることを理解する。不愛想に「父の代理で迎えです」と言われ素直に車に乗り込んだ。駅から実家までは車でなら30分もかからない。ひたすらに上り坂を進む道中、簡単に自己紹介をされ大迫の息子は和也と名乗った。伊頼よりも二つ年下の23歳で高校卒業してすぐに父親がいる花乃旅館に板前修行を始めたと言う。
走行中は、静かだった。もともと口数が少なさに輪を掛けて人見知りする伊頼は必要以上に問いかける事はなく、元の性格なのか空気を察してなのか和也も必要以上に話す事はなかった。
幸いにも予約の入っていなかった旅館はそのまま一時休業することにしたらしい。いつもはお客で賑わっている館内は人気はなくがらんとしていた。数人いた中居さんたちにもしばらくは暇と出したと和也に聞いた。客室のある母屋を突っ切り小さな離れに向かう。祖母は伊頼が使っていた部屋をそのまま残してくれていたらしく、高校を卒業し家を出た時のままの状態だった。

窓を開け空気を入れ替える。バックパックを置き簡単に着替えを済ませ一旦部屋を出た。
表には和也は車を寄せたまま待ってくれている。そのまま乗り込み病院へと車を走らせた。受付を済ませ病室に向かうと病室前のソファーにうなだれている大迫がいた。憔悴している彼は随分疲れているようで、祖母の病状の重篤さが伺える。病室に横たわる祖母は眠ったままで、その顔は全く生気は感じず、あの豪快で精力的な祖母の面影は全くない。よく見れば7年前よりもかなり老け込んだようにも感じた。酸素マスクに医療機器に繋れ、生かされている状態は酷く痛々しい。担当医に呼ばれ、祖母は末期ガンだと知らされた。すでに治療の施しようがないそうで一刻の予断も許さない状態だと言う。






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