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*モブ不良と暴力、流血表現あり
夜の闇とほとんど境界線がわからない、目の前に広がる鈍灰色の海は、まるで自分の心模様のようだとなまえは思う。貯金箱の中の全財産と手当り次第必要なものを詰め込んだ小さなボストンバッグを引っ掴んで、家を飛び出してきたなまえが向かったのは、海だった。しかし、当てもなく都心行きの電車に飛び乗り、手持ちの予算で行ける所までと、辿り着いた海は、なまえの思い描いていた青写真とは全くの別物で。ここには白い砂浜も雲ひとつない空も輝く深い蒼で塗られた水平線もなく。人気のない港の無機質な防波堤から真っ暗な夜の海を見ながら、なまえは深いため息をついた。
「綺麗な海だろ?」
「え?」
不意にそんなに離れてないところから、声が聞こえて、なまえは声の方を向いた。防波堤の並び、なまえから少し離れたところに、いつの間にか男が一人立っていた。長身ではないが、すらりとした立ち姿は華奢で、よく見るとなまえとあまり歳が変わらない少年に見えた。明るいところならば、さぞ人目を引くであろう端正な横顔は暗い海をじっと見つめている。特徴的な両耳のピアスと、夜の闇にも溶け込まない、色素の薄い綺麗な髪が海風に靡く様子に、自分でも知らぬ間に、なまえは目を奪われていた。
「辺り一面真っ暗で、光さえも飲み込んでしまうような漆黒。まるで人間の醜い心みてーだと思わねぇ?」
そう呟いて、男がなまえの方を向いて、薄ら笑いを浮かべた。カラン、と高い音を立ててピアスが鳴る。横顔から想像していたより、遥かに美しく儚げな美少年の面差しに、なまえは言葉を無くしたまま、穴が開くほど男の顔を見つめた。人形のように長い睫毛から覗く男の大きな瞳はまるで硝子玉みたいで、そこに人の感情はなかった。代わりに、目の前の暗い海と同じようにどこまでも続く空虚が宿っていた。ああ、この人も自分と同じ。何か大事なものを失くしちゃったんだ、となまえは密かに思った。
「本当、まるで私の心みたい」
「……」
なまえの答えが、予想外だったのか、男が一瞬目を見開く。しかし、それ以外の反応はなく、静かに正面を向き直すと、再び黙って海を見つめた。
「私ね、家出してきたの」
男と並んで、同じように暫く黙って海を見ていたなまえが独り言のように呟く。男に聞いて欲しい気持ち、というより、ただここで吐き出したかった。
「今までずっとお父さんと2人で暮らしてたんだけど、お父さんが来月再婚することになって」
ぽつり、ぽつりと独白のように、なまえが口を開く。それに対して男の反応は特にないし、そもそもなまえもそれを求めているわけではない。
「それは別にいいんだけど、昨日役所に自分の戸籍を取りに行ったらさ、私、お父さんと血が繋がってないってわかっちゃって……」
「へぇ……」
そこではじめて、男が反応した。しかし、その短い相槌からは男の気持ちは読み取れない。
「だってバカみたいでしょ?お父さんと私と、再婚相手、だーれも血が繋がってないんだよ?みんな赤の他人だった……」
それでも、男が反応を見せたことが、背中を押したのか、正面を向いていたなまえが初めて男の方を向いて話し始める。
「ぶっちゃけ、私いない方がよくない?そう思ったら、居ても立ってもいらんなくなって、黙って家飛び出して来ちゃった」
少し得意気に、なまえが自嘲する。
「あー、吐き出したらちょっとすっきりした。おにーさん、聞いてくれてありがとね」
胸に溜め込んでいた事を吐き出して、少しだけすっとしたのか、なまえが年相応の笑顔を見せた。
「じゃ、私行くね。バイバイ、キレーなおにーさん」
そう言って笑って、なまえは男に背を向けて歩き出した。海から離れ、暫く歩くと広い国道沿いに出る。車の往来が切れるのを待っていると、もの凄い爆音を鳴らして走ってくるバイクの一団が、なまえの前で急に止まった。
「おい、こんなとこに可愛い女の子がいるぜ?」
「おじょーちゃん、夜遅くに、一人で危ねぇよ?俺たちと一緒に行こ?」
絵に描いたような不良に絡まれ、不安と恐怖でなまえが一歩後ずさる。
「やッ……!」
「ははッ、女が逃げたぞ!追いかけろ!」
男の手を何とか払い除け、なまえは全速力で走るが、相手はバイクでまるで肉食動物が手負いの獲物を嬲るように、笑いながら蛇行して追いかけてくる。結局、元いた防波堤まで追い詰められ、なまえは逃げ場を失った。
「……!?」
不良達が下卑た笑いを浮かべてなまえを取り囲んだ。掴まる、そう思って思わず目を瞑ったなまえの耳に、カラン、と聞き覚えのあるピアスの鳴る音が聞こえるやいなや、目の前で突然不良の1人がその場にバタン、と倒れた。
「女のガキに寄ってたかって、みっともねぇ。虫ケラどもがよぉ……」
「ぐあぁぁ!!」
恐る恐る目を開けると、なまえの前にさっきまで話をしていた男が立っていて、男の足下には不良の1人が倒れている。どうやら、男が不良を一撃で蹴り飛ばしたらしい。端正な顔に薄ら笑いを浮かべて、男が足元の不良の頭を踏みつけたので、不良が悲鳴を上げた。
「あぁん?テメェ、何もんだぁ?」
「おい、やめろ……こいつ、確か、横浜天竺総長の……ッ!」
仲間への暴挙を見て、無鉄砲に男に突っかかった不良と、何かに気づいて止めようとした不良、2人を男が瞬時に殴り飛ばす。それだけでは済まず、倒れた不良に馬乗りになって、男がボコボコに殴り始めた。拳が肉を打つ何とも耐え難い音と、もう半ば意識を失っている不良の呻き声が、夜の港に響く。
「だめ!もう、やめて!死んじゃうよッ!」
なまえはあまりの事にその場にへたりこんでいたが、目の前の光景を見て、咄嗟に後ろから男の背中にしがみついた。
「なんで、止めんの?死んだっていいだろ、こんな虫ケラ……」
いきなり後ろからしがみつかれて、興を削がれたのか、男が殴るのを止めて立ち上がり、なまえの方を振り返る。色素の薄い綺麗な髪が返り血で血濡れていて、一瞬なまえがたじろぐ。
「だって、この人殺したら、おにーさんが悪者になっちゃう、でしょ?」
「悪者……?……ッく、く、はははッ!」
足の震えを悟られないように、喉の奥から声をしぼりだすように、なまえが男の顔を見上げる。男は一瞬面食らった顔をした後、我慢できないとばかりに、笑い出した。
「え、何がそんなにおかしいの?」
「だって、お前……ワルモノ、ねぇ……ッは!」
「意味わかんない。もう、笑いすぎでしょ。でも、助けてくれてありがとう。今度こそ、私行くね」
相変わらず一人で笑う男を少し呆れたように見て、なまえがもう一度男に背を向けた。
「そこの家出少女」
「……?」
なまえの背中に、いつの間にか真顔に戻った男が呼びかける。
「お前、行くとこねーんだろ?だったら、ついて来いよ」
さっきまでの笑い顔とはまた違う、不敵な笑みを浮かべて、男が人差し指1本でなまえを手招きした。